第53回 熟年の決断で海を渡った禹博士の話
動物のテレパシーが聞こえちゃう
近所の焼きたてパン屋さんの店先の椅子に座ると、待ち構えたように数羽のスズメが飛んできて催促します。きっと店屋のまわしものに違いありません。いつもスズメの分を余計に買ってしまいますから。
先日、久しぶりにパンを片手に座ったのに、姿が見えない。もしや全員捕獲されて雀焼き(ン?あれは小魚か)になってしまったのでは・・・と気をもみながら、最後のひとかけらを飲み込んだ瞬間、目の前30cmのところに一羽がスッと降り立って、バシッと目が合っちゃった(ホントです)。「ちょっと、まさか全部食べちゃったんじゃないでしょうね?」と責める鋭い目つきとくちばし(ホントです)。「あっ・・・ごめーん、今日は留守かと・・・」うろたえて卓上のスズメにしきりに謝る私に、通行人のいぶかしそうな冷たい視線が注がれておりました。
先日、久しぶりにパンを片手に座ったのに、姿が見えない。もしや全員捕獲されて雀焼き(ン?あれは小魚か)になってしまったのでは・・・と気をもみながら、最後のひとかけらを飲み込んだ瞬間、目の前30cmのところに一羽がスッと降り立って、バシッと目が合っちゃった(ホントです)。「ちょっと、まさか全部食べちゃったんじゃないでしょうね?」と責める鋭い目つきとくちばし(ホントです)。「あっ・・・ごめーん、今日は留守かと・・・」うろたえて卓上のスズメにしきりに謝る私に、通行人のいぶかしそうな冷たい視線が注がれておりました。
そう、猫でも犬でも動物園の猿でも、たまにテレパシーのように声がきこえちゃうんですよ。だからペットを飼えない。飼い犬に「メシ、フロ、ネル、カネ!」なんて言われた日には、誰かさんの代わりに叩き出してやりたくなっちゃいそうだから・・・。
「近くて遠い国」で知った日本人のこと
11月は数日間、韓国を南から北へ縦断してきました。マニアックなグループで、ディープでローカルな観光地を訪ねる旅だったのですが、かの国では小学生でも知っている「ある日本人」を、99.9%の日本人が知らないのにびっくり。禹長春(ウ・ジャンチュン・日本名:須永長春)博士です。
20年ほど前にテレビやノンフィクションで紹介されたので、覚えている方もおられるかもしれません。釜山広域市に小さな(本当にささやかな)記念館があり、そこの記録によれば亡命朝鮮人の父と日本人の母をもち、一時期は孤児院で暮らすほどの艱難辛苦の幼少期を過ごし、東京帝国大学を卒業後、天才的な頭脳で種子の品種改良のプロになっていきます。戦後、種子不足から飢餓に苦しむ韓国政府が、当時日本で安定した地位にいた博士を三顧の礼をもって迎えます。招聘費用の100万円は韓国民らの10円、20円という募金でこしらえたとか。
20年ほど前にテレビやノンフィクションで紹介されたので、覚えている方もおられるかもしれません。釜山広域市に小さな(本当にささやかな)記念館があり、そこの記録によれば亡命朝鮮人の父と日本人の母をもち、一時期は孤児院で暮らすほどの艱難辛苦の幼少期を過ごし、東京帝国大学を卒業後、天才的な頭脳で種子の品種改良のプロになっていきます。戦後、種子不足から飢餓に苦しむ韓国政府が、当時日本で安定した地位にいた博士を三顧の礼をもって迎えます。招聘費用の100万円は韓国民らの10円、20円という募金でこしらえたとか。
悠悠自適の年齢にさしかかっていたのに、「愛国心」が博士を奮い立たせたのでしょう。52歳の禹博士は1950年に見たこともない父親の祖国、かの地に渡ります。読み書きもできない「半ば異国」に単身赴任して、研究に没頭し、期待に応えます。韓国の土壌に適した野菜、果物、米などの種子を次々に発明し、なによりもキムチに最適な水分の少ない白菜の改良もして、国民の食生活を飛躍的に豊かにしました。
道徳の教科書にはぴったりの人物像
韓国の小学校の道徳の本に載っている「韓国農業の父」でも、日本の教科書には載っていません。どうしてでしょう?
実は、禹博士の父親は日本軍部に謀殺された閔妃(皇后)の関係者で、暗殺に関与した疑いで日本に亡命したという「微妙な前歴」があるらしい。現に、そのことで母国からきた刺客に父親は殺されてしまいます。戦後数十年たっても、「閔妃暗殺」の真相は日本政府にとってタブーでしたから、政治的配慮で「日本人は知らなくてもいい人」と徹底的に無視したのではないかと疑うのは、私だけではありますまい。
9年間の在任中、禹博士は研究開発に没頭し、当時手に入らなかった多くの種子を自国で生産し、後進の研究者たちを育て、日本の文化勲章にあたる栄誉を受けますが、9年後に(ストレスからきた?)胃潰瘍と十二指腸潰瘍の悪化で亡くなりました。葬儀は国葬に準じるものだったといいますから、短い期間でもいかに感謝されたかわかります(詳しくは角田房子著「わが祖国」(新潮社)を読むべし)。
実は、禹博士の父親は日本軍部に謀殺された閔妃(皇后)の関係者で、暗殺に関与した疑いで日本に亡命したという「微妙な前歴」があるらしい。現に、そのことで母国からきた刺客に父親は殺されてしまいます。戦後数十年たっても、「閔妃暗殺」の真相は日本政府にとってタブーでしたから、政治的配慮で「日本人は知らなくてもいい人」と徹底的に無視したのではないかと疑うのは、私だけではありますまい。
9年間の在任中、禹博士は研究開発に没頭し、当時手に入らなかった多くの種子を自国で生産し、後進の研究者たちを育て、日本の文化勲章にあたる栄誉を受けますが、9年後に(ストレスからきた?)胃潰瘍と十二指腸潰瘍の悪化で亡くなりました。葬儀は国葬に準じるものだったといいますから、短い期間でもいかに感謝されたかわかります(詳しくは角田房子著「わが祖国」(新潮社)を読むべし)。
偉い人でも人間的な弱みってあるのねぇ
禹博士の招聘時期は朝鮮半島は不穏で戦争勃発の恐れがあり、妻子は日本に残りました。そして9年目、夫の重病の報にかけつけた妻は「現地妻」がいたのを初めて知らされます。若き頃、両親に絶縁されても「わけありの長春君」と結婚し、糟糠の妻として壮年期も偉業を支え続け、6人の子を育てあげ、やっと人生の収穫期という熟年時代に愛人の存在を知るなんて、心中察してあまりあります。博士から妻へはひとことの詫びる言葉もなかったと後年に子らの証言。「ひどい男じゃん!」とツアー仲間で日本人妻に感情移入して怒ること、怒ること。
ところか、韓国人ガイドさんの反応は違います。現地妻は日本語が堪能な四十代の知的な女性で、博士の仕事や日常生活のすべてを支えていた。没後は遺品を寄付し(それで記念館ができたらしい)、ひっそりと姿を消した奥ゆかしい人だった。彼女のおかげで博士は幸せな晩年だったというんですね。うーん、つまるところ男の理想の(?)女像か…。
もしかして、「禹博士を日本人が知らなくてもいい」のは、二人の熟年女性の壮絶な心理バトルのせいだったのかもしれません。自分たちが同じ立場になりかねないエラーイお役人たちの差し金ではないのかと、すごいうがった見方をしてしまったアタクシでした。
次回は、12月24日(金)掲載予定です。
(2010年12月10日)
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宮本まき子先生の新刊本が、12月16日、PHP研究所より出版されました。
「自分も幸せになる「姑道」十カ条」
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