第25回 子どもに未来を諦めさせないで
「格差」という言葉でぼやけた「みんな違う」という事実
団塊の世代が少年だったころ、「格差」なんていう言葉を誰も使わなかったような気がします。もっとストレートに「金持ちと貧乏人」とか「優等生と落第生」「ご器量よしと不細工」みたいに、どこがどのように違うのかを具体的に口にしていました。
「○○ちゃんちにはピアノがある」と羨めば、「あのうちはお大尽(だいじん)だからぜいたくして当たり前。うちはお金はないけど、合唱部で歌がうまいからいいじゃない」と親に一笑に付されたものです。
「××くんはリレーのアンカーだ」と悔しがれば「あそこの兄弟は運動神経抜群の血統。うちの子らは運動オンチだけど、アタマがいいからどっちもどっち」と言われ、「凸凹ちゃんが学芸会の主役で、アタシはその他大勢の役」と泣けば「主役はご器量よしがなるもの。引き立て役に不細工な子も必要」などとへんな慰められかたをしました。
「○○ちゃんちにはピアノがある」と羨めば、「あのうちはお大尽(だいじん)だからぜいたくして当たり前。うちはお金はないけど、合唱部で歌がうまいからいいじゃない」と親に一笑に付されたものです。
「××くんはリレーのアンカーだ」と悔しがれば「あそこの兄弟は運動神経抜群の血統。うちの子らは運動オンチだけど、アタマがいいからどっちもどっち」と言われ、「凸凹ちゃんが学芸会の主役で、アタシはその他大勢の役」と泣けば「主役はご器量よしがなるもの。引き立て役に不細工な子も必要」などとへんな慰められかたをしました。
そんな小手先のまやかしなどしなかったから、団塊の世代の少年時代は打たれ強かったのでしょう。1960年代ごろまでは「どの子も生まれながらにして違って当たり前。個性的な存在だ」と自覚していたし、「個性を伸ばして才能にし、これで人生、勝負するゾ」という覚悟ができていたのと違いますか。たとえ不遇でもそれを「格差のせいだ」などと深刻にとらず、「一時的な大暴風雨」ぐらいに思って、そのうち止むか抜け出せると受け止めていた様子。はなから絶望するとか、投げ出すとかいう子どもたちを、そうひんぱんにみかけなかったように思います。
現代よりはるかにしぶとかった団塊世代の少年期
たとえば私の出身中学は今で言えば「荒れた学校」で、代々の番長はたいがい少年院送りだったし、水道栓も窓ガラスもドアもこわれっぱなし。ケンカ騒動が始まれば、「空飛ぶ椅子」を避けるのに机の下にもぐったし、不良生徒にパン代をまきあげられないよう、男子は学帽の裏布に、女子は靴下の折り目に小銭を隠していました。教室内の喧騒にキレて出ていく先生の後からゾロゾロついていって、職員室や廊下の床に座って授業を受けたことも2回や3回ではありません。塾も予備校もなかったけれど、長じてみれば同級生の中から優秀な学者も社長もでました。
番長のひとりは中学卒業後、遠洋漁業船に乗り、帰港時にオート三輪で中学校に乗り付けるや、荷台から冷凍マグロを蹴落として「先生、土産だ!」と豪快に笑っていたけど、その後どんな人生を送ったのでしょうネ。
景気に大きく左右される土地柄のせいか、「うちの親父、また破産だ」とか、「三人目のかーちゃんが来た」などといろいろ不安定でビンボーな家庭の友人もいたけれど、「不登校」なんていなかったなぁ。なんだかんだ言っていても、自分の将来を切り開くのは自分のみ。教育を受けるのが最短にして最強の突破口だとわかっていたからでしょう。
今思えば、高度成長も、その後の世界的進出も、授業料が1ヶ月800円の公立高校と、1ヶ月1,000円の国立大学があったからこそ、有能な人材を大量に育てられたのではありませんか?ラーメンが100円だった時代に、48,000円で官僚にも商社マンにも芸術家にも外交官にもなれた。72,000円で医者にも歯医者にもなれた。「誰にでもチャンスがある」という現実が、子どもたちのがんばりを後押ししてくれたのです。なのに「私大との授業料格差が10倍もあるのはよくない」という一見、もっともらしい「平等公平論」で国立大の授業料が値上げされてから、この国の教育はどこかいびつになっていきました。
いま、子育ての最大の悩みは「教育費の高騰」です。試算によれば平均的サラリーマンの家庭で二人の大学生を抱えると、年収の半分を学費や仕送りで失い、四苦八苦の家計。民主党は高校の授業料の無償化を検討しているようですが、アタクシに言わせりゃ、「教育」に関連するものすべて、大学や大学院、給食や教材費、修学旅行費も無償にすべきです。子どもに「金がないから勉強してもしかたない」なんて情けないことを言わせないで。「守られている」という安心感を子どもたちに与えずして、何のためのおとなゾと常々、思っております。
番長のひとりは中学卒業後、遠洋漁業船に乗り、帰港時にオート三輪で中学校に乗り付けるや、荷台から冷凍マグロを蹴落として「先生、土産だ!」と豪快に笑っていたけど、その後どんな人生を送ったのでしょうネ。
景気に大きく左右される土地柄のせいか、「うちの親父、また破産だ」とか、「三人目のかーちゃんが来た」などといろいろ不安定でビンボーな家庭の友人もいたけれど、「不登校」なんていなかったなぁ。なんだかんだ言っていても、自分の将来を切り開くのは自分のみ。教育を受けるのが最短にして最強の突破口だとわかっていたからでしょう。
今思えば、高度成長も、その後の世界的進出も、授業料が1ヶ月800円の公立高校と、1ヶ月1,000円の国立大学があったからこそ、有能な人材を大量に育てられたのではありませんか?ラーメンが100円だった時代に、48,000円で官僚にも商社マンにも芸術家にも外交官にもなれた。72,000円で医者にも歯医者にもなれた。「誰にでもチャンスがある」という現実が、子どもたちのがんばりを後押ししてくれたのです。なのに「私大との授業料格差が10倍もあるのはよくない」という一見、もっともらしい「平等公平論」で国立大の授業料が値上げされてから、この国の教育はどこかいびつになっていきました。
いま、子育ての最大の悩みは「教育費の高騰」です。試算によれば平均的サラリーマンの家庭で二人の大学生を抱えると、年収の半分を学費や仕送りで失い、四苦八苦の家計。民主党は高校の授業料の無償化を検討しているようですが、アタクシに言わせりゃ、「教育」に関連するものすべて、大学や大学院、給食や教材費、修学旅行費も無償にすべきです。子どもに「金がないから勉強してもしかたない」なんて情けないことを言わせないで。「守られている」という安心感を子どもたちに与えずして、何のためのおとなゾと常々、思っております。
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ところで某市市長殿。主催する市民マラソンは中高生からもエントリー費をとるんですって!?「払うのは親ですし、Tシャツも配りますから」と聞けば、ますますそのセコさに腹が立つ。「走ろうという意欲」をほめこそすれ、子どもから金をかすめとるでない!
延長線上で子どもの未来をもかすめとっているかもしれないからです。
次回は、10月23日(金)掲載予定です。
(2009年10月9日)
- 宮本まき子先生へのお問い合わせはホームページから
- http://homepage3.nifty.com/makiko-miyamoto/