年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
第36回 私もこの人の環境の一つになろう
身体の機能の一部とも考えられるので、車いす選びにはじっくり時間をかけました。電動車いす以外は考えられず、夫もすんなりと受け入れてくれました。「できるようになったら手動を考えればいい」と、主治医は気を遣ってくれました。私が押して歩くタイプは一度も考えませんでした。「電動はいいですよ。第一、二人で並んで散歩できる。車いすは、単なる運搬用具ではありません」という松尾先生の言葉が、私の車いす観を覆してくれました。電動ならば、自分の好きなところへ好きなときに自分で行くことができるのです。電動でなければ、身体の向き一つ変えるだけでも、人に頼らなければならないのです。
身体の一部になるのですから、まず、身体に合っていなければなりません。リハビリ室にあった物では、大柄だった夫に合うものがなかなか見つからず、あちこちを手直ししてもらって、ようやく試乗できる電動車いすにたどり着けました。
受傷から3か月が過ぎていました。左手首までの動きが戻ってきていたので、手首を固定して、それで操作できるようなジョイスティックを工夫してもらいました。それ以前に、医用工学室にあった、高価で機能的な電動車いすの試乗を勧められたそうですが、「チンコントロール」だったので嫌がったことを後で聞きました。手で操作することにこだわっていたようです。それは正解だったと思います。使うほどに左手の手首までの動きが次第にスムーズになってきたので、車いすの操作は難なくできましたし、その動きはパソコン操作や食事にも大変役に立ったからです。
1日のほとんどを車いすで過ごすことになるので、居住性も重要視しました。体幹を保つためのバケットシートで、しかも圧迫感を感じさせないもの、自身で身体の除圧ができないので、リクライニング姿勢が自分でできてしかも安定感のあるもの、飛行機での移動も考えて、ゲルタイプのバッテリーをという条件で選定しました。注文したものは退院直前に届きましたが、それまでは同タイプの代替車を遣わせてもらっていました。安定感はありましたが、その分、100kgと重量もありました。
身体の一部になるのですから、まず、身体に合っていなければなりません。リハビリ室にあった物では、大柄だった夫に合うものがなかなか見つからず、あちこちを手直ししてもらって、ようやく試乗できる電動車いすにたどり着けました。
受傷から3か月が過ぎていました。左手首までの動きが戻ってきていたので、手首を固定して、それで操作できるようなジョイスティックを工夫してもらいました。それ以前に、医用工学室にあった、高価で機能的な電動車いすの試乗を勧められたそうですが、「チンコントロール」だったので嫌がったことを後で聞きました。手で操作することにこだわっていたようです。それは正解だったと思います。使うほどに左手の手首までの動きが次第にスムーズになってきたので、車いすの操作は難なくできましたし、その動きはパソコン操作や食事にも大変役に立ったからです。
1日のほとんどを車いすで過ごすことになるので、居住性も重要視しました。体幹を保つためのバケットシートで、しかも圧迫感を感じさせないもの、自身で身体の除圧ができないので、リクライニング姿勢が自分でできてしかも安定感のあるもの、飛行機での移動も考えて、ゲルタイプのバッテリーをという条件で選定しました。注文したものは退院直前に届きましたが、それまでは同タイプの代替車を遣わせてもらっていました。安定感はありましたが、その分、100kgと重量もありました。
身体の一部ですから、言ってみればその車いすが丸山本人とも言えるので、エレベーターの広さも、移動のための自家用車の車種もおのずと決まりました。
しかし、やはり手軽な物も必要ということで、軽くて電動にも手動にもなる車いすも用意しました。後に右腕に力が戻ってきた頃は、家の中で手動で動く練習を重ねていました。
移動に関しては、退院後の生活を見越した主治医から、私が運転免許を取得することを勧められていました。私は車の運転ができなかったのです。それに、車の事故に遭った直後だったので、「もう車はたくさん・・」という気持ちがいっぱいでした。そんなとき、「家を改造し、大学も改造したとして、行ったり来たりはどうするのですか? タクシーにも限度がありますよ。奥さんが運転できれば、いつでも好きなところへ好きなときに行くことができます。いつでも一緒に行かれますよ」と勧められました。正直、車は怖いと思っていましたし、55歳になっていた私に果たしてできるのかという不安もあったので、なかなか本気になれませんでした。が、M先生は回診のたびに、「ところで、自動車学校のことですが・・」と切り出されるのです。渋っていた私もとうとう、「私もこの人の環境の一つになろう」と決心しました。
夫のリハビリの間、自動車学校へ通いました。充分練習の時間をかけてようやく運転免許証を手に入れました。病院中のたくさんの人に話題にされ、「今日は落ちなかったかね?」等とからかわれましたが、合格したときは「たくさんの人に喜んでもらってよかったじゃないか」と、夫が一番喜んでくれました。
それが退院後にどれほど役に立ったか知れません。移動手段がいつもあるということがいかに大切であったことか、後日M先生にそのことで感謝を伝えたら、「移動手段さえあればね。運転なんかは誰でもすることです」とさらっと返されましたが、あの時点で、あの状況の私にそれを勧めてくださった主治医の先取りの考えに、今も深く感謝しています。夫も、
「妻が私を職場に戻してやりたいと相談していた頃、そのときすでに家と職場の移動方法を考えておられた主治医は、妻に入院中に運転免許を取得するよう勧められた。以後の主治医の回診時は、妻の運転免許取得の進度状況が話題の中心となったくらいだった。実際、これは大きなことであった」
と書き残しています。
免許取りたての私に自動車学校で親しくなった友人が「あなたは帰ったらすぐに乗らないといけないのだから・・」と言って入院期間中、自宅の車を貸してくれました。ありがたいことに、ここでも私たちは支えてくれる人に恵まれたのでした。運転に慣れるために私は早朝起き出して、病室へ行くまでの時間、バス通りを走って練習をしました。
そんなある日の日記です。
「彼が車を見に外へ出る。駐車場で私の運転を見てくれる。車庫入れが下手なのでイライラしている。『もっと右、もっと左・・』と言って、声が裏返っている。バックのアクセルが怖くて怖くて・・、それを見ていられない・・という感じだった」
退院後しばらくは、目をつむって乗っていると漏らしていました。