年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
第26回 奇跡とも思える再会
ある日突然、何の前触れもなく、何一つ落ち度もないのに、ほぼ全身の運動機能を奪われてしまうという絶望の淵にあった夫が、3か月が過ぎた頃から、少しずつ変わってきたように思われました。そして、何と100日目にして、復職の意思を固めました。もちろん、その背景には主治医からの心強い支援がありましたし、リハビリや医用工学研究部における具体的な生活への支援も始まったということがありました。
そこに至るまでの心の揺れや気持ちの変化について、夫の言葉の中からもう少し探ってみたいと思います。
「その色紙、“生命あるところ希望あり”。入院中の1年間、そして、退院後も私の居室に掲げてある色紙の言葉である。“・・希望”とは、どうしても読むことができない日々が長かった。真っ暗な世界であった。その中で『生きていてよかった』と、一瞬の光を初めて見たと感じたのは、正月の家族との談笑時であった。『あのとき自分が消えていたら、みんなのこの笑顔はなかった』と思ったときであった。以来、病院を訪ねてくださる方々との出会いや出来事を重ねていくうちに、視界が明るさを増していった。人々に支えられて、私は、そして私の家族も立ち直ることができた。その後も、遠路次々と見舞いに駆けつけてくださった、たくさんの人たちに接するたびに、生きている喜びと生きる勇気が膨らんできた」
と、手記にあります。
私も、1月1日の日記に書いていました。
「高田(新潟)の家がここに移ったかのような正月になった。こんなに落ち着いた気分で過ごせるのは、年末のうちに公務災害の件にけりがついたことが大きい。Sさんに巡り合えた。おかげで、I先生にも出会うことができた。これも大きい。E子の将来につながる、春からの仕事の目途もついた。みんな大きい。私たちは一人じゃない。みんなに支えられている。・・テレビも年賀状もない、病室での正月だけれど、誰の顔にも安心感がある」
実際、数え切れないほど、多くの人たちに支えていただきました。押しつぶされた心への精神的な、大きな大きな支援でした。
「奥さん、九州でただ一人だと思わんでくださいよ・・」などと、出張先の先生方がご家族ぐるみで支えてくださいました。さらには、家から遠く離れた九州での、後処理のやっかいな交通事故だった上(相手は車検切れの車を運転、信号無視。結果的に実刑判決。当然、任意保険はおろか強制保険にも入っていなかったので、損害補償金ゼロ)、見知らぬ街での長い入院生活を余儀なくされて途方に暮れていた私たち夫婦に、まるで信じられないような出会いがありました。
夫の身を案じてくれた郷里の人たちの計らいで、同じ町に住むという元教え子が訪ねて来てくれたのです。彼はまた、私たちの困難な状況を知って、福岡から有能な弁護士を連れて来てくれました。二人ともはるか40年もの昔、夫が新卒で4年間勤務した新潟の中学校の生徒だった人たちでした。奇跡とも思える再会でした。
出張先の先生方やそのご家族、元教え子たちなどにどれほど助けられたかしれません。
大学は春休みを迎える頃になっていました。修論を仕上げたゼミ生が次々と見舞いに来てくれました。卒論発表会のビデオレターも届きました。わざわざ、あるいは出張や帰省の途中などに見舞ってくださった同僚の先生方や卒業生、往復40時間もかけてフェリーで来てくれた学生もいました。「正直言って、先生にどう接していいか、実はわからなかった」などと悩んだことを正直に告白してくれた人も、部屋へ入るなりサッとベッドの夫に駈け寄って、手をさすりながら、「先生、生きててよかった」と泣いてくれた人もいました。「帰ってからみんなに報告するから」と言われて、初めて写真も撮られました。
「すまなかったなあ」としか言えない夫に、皆さんは温かい励ましと、「待っています」という何よりの言葉を置いていってくれました。夫の反応を私は心配しましたが、夫は思ったより嬉しそうに対応してくれたのでホッとしました。車いすを押してもらったり、付きっきりでさすってもらったり、リハビリの様子を見てもらったり、シャンプーもしてもらったりしてずっと嬉しそうでした。
電動車いすに初めて乗った日も、院生が来てくれていました。廊下の広いところで操作してみせながら、「スラロームだ」などと遊び始めたりしました。事故後初めて見せてくれた明るい表情でした。
そこに至るまでの心の揺れや気持ちの変化について、夫の言葉の中からもう少し探ってみたいと思います。
「その色紙、“生命あるところ希望あり”。入院中の1年間、そして、退院後も私の居室に掲げてある色紙の言葉である。“・・希望”とは、どうしても読むことができない日々が長かった。真っ暗な世界であった。その中で『生きていてよかった』と、一瞬の光を初めて見たと感じたのは、正月の家族との談笑時であった。『あのとき自分が消えていたら、みんなのこの笑顔はなかった』と思ったときであった。以来、病院を訪ねてくださる方々との出会いや出来事を重ねていくうちに、視界が明るさを増していった。人々に支えられて、私は、そして私の家族も立ち直ることができた。その後も、遠路次々と見舞いに駆けつけてくださった、たくさんの人たちに接するたびに、生きている喜びと生きる勇気が膨らんできた」
と、手記にあります。
私も、1月1日の日記に書いていました。
「高田(新潟)の家がここに移ったかのような正月になった。こんなに落ち着いた気分で過ごせるのは、年末のうちに公務災害の件にけりがついたことが大きい。Sさんに巡り合えた。おかげで、I先生にも出会うことができた。これも大きい。E子の将来につながる、春からの仕事の目途もついた。みんな大きい。私たちは一人じゃない。みんなに支えられている。・・テレビも年賀状もない、病室での正月だけれど、誰の顔にも安心感がある」
実際、数え切れないほど、多くの人たちに支えていただきました。押しつぶされた心への精神的な、大きな大きな支援でした。
「奥さん、九州でただ一人だと思わんでくださいよ・・」などと、出張先の先生方がご家族ぐるみで支えてくださいました。さらには、家から遠く離れた九州での、後処理のやっかいな交通事故だった上(相手は車検切れの車を運転、信号無視。結果的に実刑判決。当然、任意保険はおろか強制保険にも入っていなかったので、損害補償金ゼロ)、見知らぬ街での長い入院生活を余儀なくされて途方に暮れていた私たち夫婦に、まるで信じられないような出会いがありました。
夫の身を案じてくれた郷里の人たちの計らいで、同じ町に住むという元教え子が訪ねて来てくれたのです。彼はまた、私たちの困難な状況を知って、福岡から有能な弁護士を連れて来てくれました。二人ともはるか40年もの昔、夫が新卒で4年間勤務した新潟の中学校の生徒だった人たちでした。奇跡とも思える再会でした。
出張先の先生方やそのご家族、元教え子たちなどにどれほど助けられたかしれません。
大学は春休みを迎える頃になっていました。修論を仕上げたゼミ生が次々と見舞いに来てくれました。卒論発表会のビデオレターも届きました。わざわざ、あるいは出張や帰省の途中などに見舞ってくださった同僚の先生方や卒業生、往復40時間もかけてフェリーで来てくれた学生もいました。「正直言って、先生にどう接していいか、実はわからなかった」などと悩んだことを正直に告白してくれた人も、部屋へ入るなりサッとベッドの夫に駈け寄って、手をさすりながら、「先生、生きててよかった」と泣いてくれた人もいました。「帰ってからみんなに報告するから」と言われて、初めて写真も撮られました。
「すまなかったなあ」としか言えない夫に、皆さんは温かい励ましと、「待っています」という何よりの言葉を置いていってくれました。夫の反応を私は心配しましたが、夫は思ったより嬉しそうに対応してくれたのでホッとしました。車いすを押してもらったり、付きっきりでさすってもらったり、リハビリの様子を見てもらったり、シャンプーもしてもらったりしてずっと嬉しそうでした。
電動車いすに初めて乗った日も、院生が来てくれていました。廊下の広いところで操作してみせながら、「スラロームだ」などと遊び始めたりしました。事故後初めて見せてくれた明るい表情でした。