年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
第8回 お父さんは、もう元の身体に戻れないんだ
1日遅れて到着した長男が、
「お父さんは、もう元の身体に戻れないんだ」
と無念そうに話す父親の姿を見た後、廊下で壁に向かって両手をつき、その壁を足で蹴りながら声を殺して泣いているのを見て、また辛くなりました。スポーツが大好きで、仕事の合間には野菜作りや薪割りや愛犬との散歩を楽しんでいた夫の姿が思い返されて、家族みんなの気持ちが悔しさと悲しさでいっぱいでした。
排便がひっきりなしにありました。ほとんど水様だったので、そのつどきれいにしてもらいましたが、すぐにただれ始めました。また、便に鮮血が混じるようになって、それも次第に多くなってきていました。
首が固定されているせいか全身の緊張が辛いらしく、
「酸素を外して、頸を浮かして、耳を出して・・」
というので、枕との隙間に指を入れて圧すと気持ちよさそうでした。喉が渇くので口を湿したりもしました。朝食に、お粥、梅肉、コンソメスープ、牛乳の食事が出ましたが、どれもストローで少しずつ吸い込むことができず、すぐにむせそうになりました。
1時間ごとに「何時だ」と尋ね、よくしゃべりました。かと思うと、グーグーいびきをかいて眠ったりと、落ち着きませんでした。私たちも夫の感覚が残っているのが嬉しいのと、何かがつながる気がして、代わる代わる身体のあちこちを触っては、
「ここはどこかわかる?」
などと、夫と会話をしていました。
術後3日目の朝、ガーゼ交換後、頸にカラーが装着されました。首を固定するために、むちうち症の人が嵌めるようなプラスティック製のものでした。内部出血を吸い出すチューブも外しました。シャツも交換し、ベッドもギャッチベッドに代わりました。
早速、上体を起こしてみましたが、角度をつけると息が苦しくなるので、60度よりもっと寝た状態でしたが、昼食からは目で見ながら食べることができました。首が固定されたので、身体が動かしやすくなって、指圧もしやすくなりましたが、どこもここも重くて、あらためて人の身体の重さを感じました。
右膝の腫れがひどいので調べたら内側靭帯の断裂がわかり、支柱入りのサポーターで固定されることになりました。「ギプスだと褥瘡の恐れがあるから」という説明でした。サポーターも、その後は日に1回外しては、スキンチェックがなされました。褥瘡に関しては管理が徹底されていたと思い返されます。
術後3日目に、リハビリも始まりました。
「関節が固まらないように今日からリハビリをします」
と、OT,PTのセラピストがそれぞれベッドに上がってバンバン身体を動かしていきました。術後間もない人の手足を激しく動かすのを見て、びっくりして目を見張りました。
診断書が2通になりました。「第5頸椎脱臼骨折、頸髄損傷により約3か月の安静加療を要す」と「第4頸椎脱臼骨折、頸髄損傷不全四肢麻痺、約1年間の入院加療を要す」の2通です。加療3か月と1年の違いについてナースに尋ねたところ、「それはよくて寝たきりの治療であることで、ここの病院ではそうはしません。しっかりガードした上で早く動かし、絶対褥瘡は創りません。今は痰を出すのにかけていますよ」と答えてくれました。
この病院で治療に専念することを確認し合って、子どもたちはそれぞれ帰って行きました。夫は彼らの夜通しの看病が嬉しかったと、その夜しみじみと言ってくれました。一人になって、事故後初めて夫の出張時の荷物の整理をしました。脱がせるために切り裂かれたジャケットがビニール袋に入れられてあって、手をつける気になりませんでした。ズボンはどこも痛んでいませんでした。履き慣れた靴、持ち慣れたカバン、いつものように自分で準備した旅仕度、誠実に生きて来た夫の生活がそこにあって涙が堰を切ってあふれてきました。事故以来、初めて悲しくて大泣きました。これから先の生活の見通しも見当がつかず、本当に一体どうなるのかという不安に押しつぶされそうになりましたが、前を向くしかないと自分に言い聞かせながら、夫の前ではつとめて彼の気持ちを引き立てようとそのことばかりを考えていました。
「お父さんは、もう元の身体に戻れないんだ」
と無念そうに話す父親の姿を見た後、廊下で壁に向かって両手をつき、その壁を足で蹴りながら声を殺して泣いているのを見て、また辛くなりました。スポーツが大好きで、仕事の合間には野菜作りや薪割りや愛犬との散歩を楽しんでいた夫の姿が思い返されて、家族みんなの気持ちが悔しさと悲しさでいっぱいでした。
排便がひっきりなしにありました。ほとんど水様だったので、そのつどきれいにしてもらいましたが、すぐにただれ始めました。また、便に鮮血が混じるようになって、それも次第に多くなってきていました。
首が固定されているせいか全身の緊張が辛いらしく、
「酸素を外して、頸を浮かして、耳を出して・・」
というので、枕との隙間に指を入れて圧すと気持ちよさそうでした。喉が渇くので口を湿したりもしました。朝食に、お粥、梅肉、コンソメスープ、牛乳の食事が出ましたが、どれもストローで少しずつ吸い込むことができず、すぐにむせそうになりました。
1時間ごとに「何時だ」と尋ね、よくしゃべりました。かと思うと、グーグーいびきをかいて眠ったりと、落ち着きませんでした。私たちも夫の感覚が残っているのが嬉しいのと、何かがつながる気がして、代わる代わる身体のあちこちを触っては、
「ここはどこかわかる?」
などと、夫と会話をしていました。
術後3日目の朝、ガーゼ交換後、頸にカラーが装着されました。首を固定するために、むちうち症の人が嵌めるようなプラスティック製のものでした。内部出血を吸い出すチューブも外しました。シャツも交換し、ベッドもギャッチベッドに代わりました。
早速、上体を起こしてみましたが、角度をつけると息が苦しくなるので、60度よりもっと寝た状態でしたが、昼食からは目で見ながら食べることができました。首が固定されたので、身体が動かしやすくなって、指圧もしやすくなりましたが、どこもここも重くて、あらためて人の身体の重さを感じました。
右膝の腫れがひどいので調べたら内側靭帯の断裂がわかり、支柱入りのサポーターで固定されることになりました。「ギプスだと褥瘡の恐れがあるから」という説明でした。サポーターも、その後は日に1回外しては、スキンチェックがなされました。褥瘡に関しては管理が徹底されていたと思い返されます。
術後3日目に、リハビリも始まりました。
「関節が固まらないように今日からリハビリをします」
と、OT,PTのセラピストがそれぞれベッドに上がってバンバン身体を動かしていきました。術後間もない人の手足を激しく動かすのを見て、びっくりして目を見張りました。
診断書が2通になりました。「第5頸椎脱臼骨折、頸髄損傷により約3か月の安静加療を要す」と「第4頸椎脱臼骨折、頸髄損傷不全四肢麻痺、約1年間の入院加療を要す」の2通です。加療3か月と1年の違いについてナースに尋ねたところ、「それはよくて寝たきりの治療であることで、ここの病院ではそうはしません。しっかりガードした上で早く動かし、絶対褥瘡は創りません。今は痰を出すのにかけていますよ」と答えてくれました。
この病院で治療に専念することを確認し合って、子どもたちはそれぞれ帰って行きました。夫は彼らの夜通しの看病が嬉しかったと、その夜しみじみと言ってくれました。一人になって、事故後初めて夫の出張時の荷物の整理をしました。脱がせるために切り裂かれたジャケットがビニール袋に入れられてあって、手をつける気になりませんでした。ズボンはどこも痛んでいませんでした。履き慣れた靴、持ち慣れたカバン、いつものように自分で準備した旅仕度、誠実に生きて来た夫の生活がそこにあって涙が堰を切ってあふれてきました。事故以来、初めて悲しくて大泣きました。これから先の生活の見通しも見当がつかず、本当に一体どうなるのかという不安に押しつぶされそうになりましたが、前を向くしかないと自分に言い聞かせながら、夫の前ではつとめて彼の気持ちを引き立てようとそのことばかりを考えていました。