年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
第13回 マッサージが身体にも心にも効いている
いまになって思い起こせば、身体の全ての機能が思いのままにならなくなってしまった以上は、外部からの手当てと刺激が夫の命綱であったのです。その最大の一つ、リハビリは、以下のように始まりました。
術後3日目、すべてのカテーテルが抜かれ、頸を固定するカラーが嵌められた日にリハビリのセラピストが来て、「今日から関節が固まらないように、ベッドサイドでリハビリを始めます」と言われました。
夕食後にOTのU先生がベッドに上がって、バンバン夫の身体を動かしたのを見ていた娘たちは「術後間もないのに、あの動かし方はすごい」と目を見張って驚きました。「しっかりガードした上で、早く動かして寝たきりにはしません」と言われたナースの言葉通りでした。そして、夫は身体を動かしてもらうのが嬉しそうでした。実際、そのころの夫は手足に神経がいかないことへの不安が高まってきていて、「身体に触って刺激を与えてもらうことが嬉しい、そうしてもらうと戻るような気がするんだ」と言っては、子どもたちにマッサージをしてもらっていましたから、「マッサージが身体にも心にも効いている」と私も日記に書き留めてあります。
U先生がリハをしながら「ちゃんと自分の目で見て、この筋肉を動かすと自覚しながら動かしてみてください。そうすると、その回路が太く大きくなります。ダメなところはダメでも、生き残っているところは精いっぱい生かしていきましょう。感覚が残っていること、肛門の感じがわかること、ガスが出ていること、全てよいことです」と言い、脊髄損傷から立ち直った人の話をたくさんされました。「希望を捨てまい。決して捨てまい。当初の復職のこと、歩いて家で生活したいこと、車いすでもいいからモモと散歩できること、それ以上の希望を持って」と、6日目の私の日記にありました。そのころの私の後遺症への認識は、この程度でした。モモとは愛犬・モモ太郎のことです。
術後7日目からは、リハビリテーション棟で訓練を受けることになりました。ベッドごと運ばれました。お腹に力が入らないので補助的な役割をする腹帯を買って巻き、伸縮性のある物を持ち合わせていなかったので、とりあえず売店でガーゼのパジャマを買って着替え、靴も必要だったので出張用の夫の荷物の中にあった運動靴を脱ぎ履きが楽なように紐をゴム紐に代えて用意しました。こんなことも悲しみに変わりました。
リハ室でリクライニング式車いすに乗る予定でしたが、痰が出始めて苦しくなり、座位がとれずに初日は終わりました。リハ室への移動はいつも寝ていたベッドをナースが押して移動しました(病院の廊下は、ベッドが余裕ですれ違うことができるほど広い幅がありました)。夫にはこの日に見たリハ室の様子が衝撃的だったようで、夫の手記には、
「この日から、いよいよ病室を出てリハビリテーション棟へ行く。ベッドに寝たままで運ばれる。部屋の光景に思わず目を見張る。広い空間には初めて目にする器具、ベッド上で仰臥する人、錘を懸命に引く人、歩行器で歩く人、自転車をこぐ人・・。圧倒されて息を呑む。何より驚いたのは、患者に向けたセラピストの声である。ほとんど怒声に聞こえる。まるで、修行道場の雰囲気である。初日のこの印象は忘れがたい」
と記述されています。
術後3日目、すべてのカテーテルが抜かれ、頸を固定するカラーが嵌められた日にリハビリのセラピストが来て、「今日から関節が固まらないように、ベッドサイドでリハビリを始めます」と言われました。
夕食後にOTのU先生がベッドに上がって、バンバン夫の身体を動かしたのを見ていた娘たちは「術後間もないのに、あの動かし方はすごい」と目を見張って驚きました。「しっかりガードした上で、早く動かして寝たきりにはしません」と言われたナースの言葉通りでした。そして、夫は身体を動かしてもらうのが嬉しそうでした。実際、そのころの夫は手足に神経がいかないことへの不安が高まってきていて、「身体に触って刺激を与えてもらうことが嬉しい、そうしてもらうと戻るような気がするんだ」と言っては、子どもたちにマッサージをしてもらっていましたから、「マッサージが身体にも心にも効いている」と私も日記に書き留めてあります。
U先生がリハをしながら「ちゃんと自分の目で見て、この筋肉を動かすと自覚しながら動かしてみてください。そうすると、その回路が太く大きくなります。ダメなところはダメでも、生き残っているところは精いっぱい生かしていきましょう。感覚が残っていること、肛門の感じがわかること、ガスが出ていること、全てよいことです」と言い、脊髄損傷から立ち直った人の話をたくさんされました。「希望を捨てまい。決して捨てまい。当初の復職のこと、歩いて家で生活したいこと、車いすでもいいからモモと散歩できること、それ以上の希望を持って」と、6日目の私の日記にありました。そのころの私の後遺症への認識は、この程度でした。モモとは愛犬・モモ太郎のことです。
術後7日目からは、リハビリテーション棟で訓練を受けることになりました。ベッドごと運ばれました。お腹に力が入らないので補助的な役割をする腹帯を買って巻き、伸縮性のある物を持ち合わせていなかったので、とりあえず売店でガーゼのパジャマを買って着替え、靴も必要だったので出張用の夫の荷物の中にあった運動靴を脱ぎ履きが楽なように紐をゴム紐に代えて用意しました。こんなことも悲しみに変わりました。
リハ室でリクライニング式車いすに乗る予定でしたが、痰が出始めて苦しくなり、座位がとれずに初日は終わりました。リハ室への移動はいつも寝ていたベッドをナースが押して移動しました(病院の廊下は、ベッドが余裕ですれ違うことができるほど広い幅がありました)。夫にはこの日に見たリハ室の様子が衝撃的だったようで、夫の手記には、
「この日から、いよいよ病室を出てリハビリテーション棟へ行く。ベッドに寝たままで運ばれる。部屋の光景に思わず目を見張る。広い空間には初めて目にする器具、ベッド上で仰臥する人、錘を懸命に引く人、歩行器で歩く人、自転車をこぐ人・・。圧倒されて息を呑む。何より驚いたのは、患者に向けたセラピストの声である。ほとんど怒声に聞こえる。まるで、修行道場の雰囲気である。初日のこの印象は忘れがたい」
と記述されています。