年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
第20回 心にちょっぴり灯がともった瞬間
夫がリハビリに大きな期待を寄せている傍らで、私も全く同じ気持ちでおりました。車いすテニスがあるのだったら、二人でまたテニスを楽しめると本気で思っていたのです。
夫の手記には、
「入院して間もない院長回診日。院長以下、担当主治医、整形外科部長、病棟看護部長、看護師長、セラピスト等、病室からあふれんばかりの人たちの回診訪問を受けた。大勢の人の顔、顔、顔が私を見下ろしている。院長は主治医の説明に聴き入りながら時々うなずいている。私はその言葉のやり取りを一言も聞き漏らすまいとしていた。『丸山さんには、手足に感覚が残っています。肛門の反応もあるので、希望があります……』当時絶望感の極みにあった自分にとって、それは心にちょっぴり灯がともった瞬間であった。いま、時間を経て考えてみれば、主治医は院長への説明のかたちで、間接的に私を絶望させまいとの気遣いのメッセージをくれていたように思う。もし、その場が専門家同士の正確な診療情報のやり取りの場だったなら、私にとって絶望的な内容であったに違いない。このときの希望が急性期の私の精神の支えになっていたのである」
とあります。
急性期の思いがけない身体の変化や痰の苦しみの上に、身体に思いが伝わらない歯がゆさから「あのとき、いっそ死んでいたほうがよかった」「夢の中では自由に動き回っている自分がいるのに、朝、目が覚めると天井をにらむしかできない、寝返りも打てない現実がある。朝は嫌いだ。目が覚めないようにするにはどうしたらいいか」などと口走ることも度々ありました。やりきれない気持ちの持って行き場所がなかったのでしょう。
1か月も経ったある夕方、夫の気持ちが落ち着かず、私も心身ともに疲れていたせいか、二人の間に小さな諍いが起きました。気まずい雰囲気になったその直後、泌尿器科の若い先生がふらっと病室に来られました。様子を聴かれた後、「私の場合、上と下でつながりが切れているのですか?」と尋ねた夫に、「そう考えていいと思います。それよりむしろ、そういう状態を受け入れたほうが、それよりよくなったら儲けものという考えができるからいいですよ。社会復帰もスムーズにいけると思います。いまはあるものをこれ以上なくさないように心がけるのです。食べることも眠ることも……。そして、3か月後からはプラスのものとして考えていったほうがいいと思います。お気持ちはよくわかりますが、焦ってできるものではありませんしね」と穏やかに話されました。私たちは二人とも泣きそうになって、そのまま黙ってしまいました。
そのようなことがあっても、それでもなお私たちは何かにすがりつくようにして希望をつないでいたのでした。
術後50日も過ぎたある日曜日の午後、あるナースが病室に来て唐突に(と、私には思われました)、「入院期間がどんどん短くなってきている(急患が次々入って来る)ので、そろそろ、摘便の訓練(奥さんの)をされたほうがよいでしょう」と言いました。当時の私は、もちろん夫もですが、排便の困難がずっと続くものとは考えてもいませんでした。尿もいつかは通じるものと考えていました。摘便は一時的なものとしか考えていなかったものですから、「ということは? この怪我の場合、身体の機能の回復は目で見ればわかるけれど、排便や排尿についての機能回復は見えなくてわからない。私たちには見当もつかない。そういう場合にはこうなる……というような介助者(もちろん本人も含めて)への指導のようなものはないのでしょうか?」と尋ねたら、「基本的には担当ナースです。それもドクターの話があってからナースの出番がある仕組みです。ドクターの話がないと先走ることはできません。しかし、慣れておく意味で、いまから摘便の訓練などをやっておいたらどうかという意味です」と返って来ました。ただ「知りたい」と言っただけのことでしたが、このやり取りが「奥さん、摘便拒否」と連絡簿に記載されたのだそうです(後に別のナースが教えてくれました)。考えてもみなかった誤解でしたが、結果的にそれがドクターに伝わり、告知を受けることにつながりました。
このやり取りの直後、大量の排便がありました。処置してもらいながら「悲しいなあ」と涙している夫を見ながら、私も涙が溢れました。
「神経因性直腸・膀胱障害……。脊髄損傷がもたらす四肢麻痺から受けた心のダメージに必死に耐えて来た私は、少し遅れて入ってきたこれらに関する情報には、まさに心身ともに打ちのめされていった。将来ずっと自分の意志で排尿・排便のコントロールができない身体とその生活は想像を絶することだった」
と、夫は後に記しています。一番されたくないことをもしてもらわなければならないという、これは人間の尊厳にも関わる問題でしたから、彼が受けた最も大きな落胆だったと私は思っています。
まるで、タイミングを計ったように、翌日リハ室前の掲示板に『脊髄損傷の方の健康管理のしおり……労災年金福祉協会』という冊子が下がっているのを見つけました。セラピストのTさんの許可を得て、借りて一人で読みました。読み進めるほどに「これは大変なこと……」とわかってきました。ノートを買って必死でメモしました。怪我の全体像がおぼろげにわかってきました。読んでから気持ちが落ち着かなくなったのが自分でよくわかりました。「自分が精神的に疲れているのか、昨夜から読んでいる冊子が原因なのか。“先を思うことなかれ、いまできることを精いっぱいに”と気分不安定な自分に一生懸命言い聞かせる」と翌日の日記に書き記してあります。衝撃を受けていたはずなのに、誰かとそれについて話すこともなく、それだけの心のゆとりもなかったのでしょう。冊子を返したとき、「奥さん、読みましたか?」とセラピストに聞かれたときも、「はい」としか答えられませんでした。
夫の手記には、
「入院して間もない院長回診日。院長以下、担当主治医、整形外科部長、病棟看護部長、看護師長、セラピスト等、病室からあふれんばかりの人たちの回診訪問を受けた。大勢の人の顔、顔、顔が私を見下ろしている。院長は主治医の説明に聴き入りながら時々うなずいている。私はその言葉のやり取りを一言も聞き漏らすまいとしていた。『丸山さんには、手足に感覚が残っています。肛門の反応もあるので、希望があります……』当時絶望感の極みにあった自分にとって、それは心にちょっぴり灯がともった瞬間であった。いま、時間を経て考えてみれば、主治医は院長への説明のかたちで、間接的に私を絶望させまいとの気遣いのメッセージをくれていたように思う。もし、その場が専門家同士の正確な診療情報のやり取りの場だったなら、私にとって絶望的な内容であったに違いない。このときの希望が急性期の私の精神の支えになっていたのである」
とあります。
急性期の思いがけない身体の変化や痰の苦しみの上に、身体に思いが伝わらない歯がゆさから「あのとき、いっそ死んでいたほうがよかった」「夢の中では自由に動き回っている自分がいるのに、朝、目が覚めると天井をにらむしかできない、寝返りも打てない現実がある。朝は嫌いだ。目が覚めないようにするにはどうしたらいいか」などと口走ることも度々ありました。やりきれない気持ちの持って行き場所がなかったのでしょう。
1か月も経ったある夕方、夫の気持ちが落ち着かず、私も心身ともに疲れていたせいか、二人の間に小さな諍いが起きました。気まずい雰囲気になったその直後、泌尿器科の若い先生がふらっと病室に来られました。様子を聴かれた後、「私の場合、上と下でつながりが切れているのですか?」と尋ねた夫に、「そう考えていいと思います。それよりむしろ、そういう状態を受け入れたほうが、それよりよくなったら儲けものという考えができるからいいですよ。社会復帰もスムーズにいけると思います。いまはあるものをこれ以上なくさないように心がけるのです。食べることも眠ることも……。そして、3か月後からはプラスのものとして考えていったほうがいいと思います。お気持ちはよくわかりますが、焦ってできるものではありませんしね」と穏やかに話されました。私たちは二人とも泣きそうになって、そのまま黙ってしまいました。
そのようなことがあっても、それでもなお私たちは何かにすがりつくようにして希望をつないでいたのでした。
術後50日も過ぎたある日曜日の午後、あるナースが病室に来て唐突に(と、私には思われました)、「入院期間がどんどん短くなってきている(急患が次々入って来る)ので、そろそろ、摘便の訓練(奥さんの)をされたほうがよいでしょう」と言いました。当時の私は、もちろん夫もですが、排便の困難がずっと続くものとは考えてもいませんでした。尿もいつかは通じるものと考えていました。摘便は一時的なものとしか考えていなかったものですから、「ということは? この怪我の場合、身体の機能の回復は目で見ればわかるけれど、排便や排尿についての機能回復は見えなくてわからない。私たちには見当もつかない。そういう場合にはこうなる……というような介助者(もちろん本人も含めて)への指導のようなものはないのでしょうか?」と尋ねたら、「基本的には担当ナースです。それもドクターの話があってからナースの出番がある仕組みです。ドクターの話がないと先走ることはできません。しかし、慣れておく意味で、いまから摘便の訓練などをやっておいたらどうかという意味です」と返って来ました。ただ「知りたい」と言っただけのことでしたが、このやり取りが「奥さん、摘便拒否」と連絡簿に記載されたのだそうです(後に別のナースが教えてくれました)。考えてもみなかった誤解でしたが、結果的にそれがドクターに伝わり、告知を受けることにつながりました。
このやり取りの直後、大量の排便がありました。処置してもらいながら「悲しいなあ」と涙している夫を見ながら、私も涙が溢れました。
「神経因性直腸・膀胱障害……。脊髄損傷がもたらす四肢麻痺から受けた心のダメージに必死に耐えて来た私は、少し遅れて入ってきたこれらに関する情報には、まさに心身ともに打ちのめされていった。将来ずっと自分の意志で排尿・排便のコントロールができない身体とその生活は想像を絶することだった」
と、夫は後に記しています。一番されたくないことをもしてもらわなければならないという、これは人間の尊厳にも関わる問題でしたから、彼が受けた最も大きな落胆だったと私は思っています。
まるで、タイミングを計ったように、翌日リハ室前の掲示板に『脊髄損傷の方の健康管理のしおり……労災年金福祉協会』という冊子が下がっているのを見つけました。セラピストのTさんの許可を得て、借りて一人で読みました。読み進めるほどに「これは大変なこと……」とわかってきました。ノートを買って必死でメモしました。怪我の全体像がおぼろげにわかってきました。読んでから気持ちが落ち着かなくなったのが自分でよくわかりました。「自分が精神的に疲れているのか、昨夜から読んでいる冊子が原因なのか。“先を思うことなかれ、いまできることを精いっぱいに”と気分不安定な自分に一生懸命言い聞かせる」と翌日の日記に書き記してあります。衝撃を受けていたはずなのに、誰かとそれについて話すこともなく、それだけの心のゆとりもなかったのでしょう。冊子を返したとき、「奥さん、読みましたか?」とセラピストに聞かれたときも、「はい」としか答えられませんでした。