年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
第21回 大学へはいますぐにでも連れて行きたいくらいです
その5日後、ちょうど術後2か月目に主治医の告知を受けました。私がリハ室に付き添っていたところへ、主治医のM先生が来て話されたのでした。2か月目のレントゲンでも異常はなかったし、これからどうということもないと思うので、頸のカラーを外すということに続いて、「2か月経過しても大きな変化(痛みなど)が見えて来ないことなどから、おそらくいまのような状態で、このまま車いすの生活となるでしょう。なので、まず、奥さんの覚悟を決めたほうがいい。いたずらに希望を持ってかえって気持ちの回復が遅れてしまってはいけない」などと先日のナースに私が言ったことに関する話をされました。私は正直に「私は摘便が嫌だなどと言っているのではなくて、手足の麻痺などは見ればわかりますが、そのほかの目に見えない障害などについて知りたかっただけです。あのときは先が全く見えていなかったけれど、その後リハビリ室の前に下がっていたパンフを借りて読んでおおよそ見えるようになったので、今は少しわかります」と伝えました。未経験のことだったので、後遺症などについて全く知らなかったことも伝えました。「1年はかからないかも知れないが」とM先生が言われたので、こちらのほうが専念できるので、新潟へは帰らず、この病院で治療を続けて受けたいことと、家族の覚悟について話した後、「最後の1年は職場に戻したいと考えていますが、大学への復帰は難しいでしょうか?」と尋ねると、「車いすに座れるし、頭もしっかりしているし、しゃべることもできるんですから、いますぐにでも連れて行きたいくらいです。ぜひそうしてください。そのほうが励みになります」とむしろ賛成してくれました。その日の私の日記です。
「リハビリをしながら、M先生と私が話しているのを見ていた彼が『先生、何の話だった?』 と気にしていたので、後半の『大学へはいますぐにでも連れて行きたいくらいです』と言われたことだけを伝えた。彼はそれが嬉しそうだった。私にとっても味方ができたようでとても嬉しかった。しかし、前段の話はとてもショックで打ちのめされた。だが、それを彼に言うわけにはいかない。とても言えない。ドクターも『ご主人には言いません。それで落ち込んではいけないからです。段々わかって来ると思います。ただ、奥さんにはちゃんと覚悟を決めてもらわないと』と言われた。動揺しているのが自分でもよくわかる。彼に気づかれないように振る舞わなければ。幸いドクターが『いますぐにでも……』と言ってくれた言葉がありがたくて救われた思いだった。夜になって“さあ、リハビリ一直線だよ”と口では言うものの、気持ちの整理がなかなかつかない。気持ちが落ち着かない」
後の夫の手記からです。
「私にとって職場復帰など思いも及ばず、ただ絶望の淵にあったころ、妻は何とかこの人を職場に戻れるようにしたいとの一心を主治医に打ち明けていた。この言葉の前には『手足の動きは元に戻らないこと、立つ・歩くなどの望みはないこと』が告げられていた。妻は『いますぐにでも連れて行きたいくらいです……』という部分だけを私に伝えた。職場に戻り、学生の前に立つことができるという思いに勇気が湧き上がった。受傷から2か月目のことであった。既に主治医からは段階を踏んだ慎重な告知が進められていたようである。妻に告げられていた全情報は、その内容と状況によって小出しに私に伝わるようにしてくれていた。仲介の妻にとっても大変な重荷だったに違いない」
受傷以来、夫とは常に同じ方向を見て、同じ気持ちでここまで乗り越えて来た私にとって、目の前の夫に言えないものを抱え込んでしまったことは、この上なく辛いことでした。つとめて平静を装っていたつもりでしたが、夫はすでに見透かしていたような気もします。
告知を受け止めようと、受け止めなければと考えはするものの、気持ちがついていけなくて、またそれを夫に覚られないようにしなければならず、この時期は入院期間中で私の最も辛いころでした。
入院当初から、何らかの知識を得たくて怪我について書かれた図書などを探してみましたが、目に留まるものはありませんでした。ようやく出会ったのがあの薄い冊子だったのです。本当のことを知りたいと思っていながら、いざ告知を受けると、思っていた以上に動揺してしまったわけですが、それでもやはり、できれば泌尿器のことも含めて早い時期にしっかり教えていただきたかったという思いはいまでも変わりません。告知による動揺はある意味当然と思えます。その動揺を乗り越えるための支援を各仕事の領域ごとにしっかり連携されていれば、むしろ患者にとっては(家族の者にとっても)ありがたいことだと思います。
患者個々によってそれぞれ違った症状と障害が残るということも、知っておけば患者同士あるいは付き添い人同士の交錯した情報に振り回されなくて済んだかも知れません。私がもっと積極的に知りたいと言えばよかったのかもしれませんが、知りたいことが何なのかさえわからないのが正直なところでしたから。
「リハビリをしながら、M先生と私が話しているのを見ていた彼が『先生、何の話だった?』 と気にしていたので、後半の『大学へはいますぐにでも連れて行きたいくらいです』と言われたことだけを伝えた。彼はそれが嬉しそうだった。私にとっても味方ができたようでとても嬉しかった。しかし、前段の話はとてもショックで打ちのめされた。だが、それを彼に言うわけにはいかない。とても言えない。ドクターも『ご主人には言いません。それで落ち込んではいけないからです。段々わかって来ると思います。ただ、奥さんにはちゃんと覚悟を決めてもらわないと』と言われた。動揺しているのが自分でもよくわかる。彼に気づかれないように振る舞わなければ。幸いドクターが『いますぐにでも……』と言ってくれた言葉がありがたくて救われた思いだった。夜になって“さあ、リハビリ一直線だよ”と口では言うものの、気持ちの整理がなかなかつかない。気持ちが落ち着かない」
後の夫の手記からです。
「私にとって職場復帰など思いも及ばず、ただ絶望の淵にあったころ、妻は何とかこの人を職場に戻れるようにしたいとの一心を主治医に打ち明けていた。この言葉の前には『手足の動きは元に戻らないこと、立つ・歩くなどの望みはないこと』が告げられていた。妻は『いますぐにでも連れて行きたいくらいです……』という部分だけを私に伝えた。職場に戻り、学生の前に立つことができるという思いに勇気が湧き上がった。受傷から2か月目のことであった。既に主治医からは段階を踏んだ慎重な告知が進められていたようである。妻に告げられていた全情報は、その内容と状況によって小出しに私に伝わるようにしてくれていた。仲介の妻にとっても大変な重荷だったに違いない」
受傷以来、夫とは常に同じ方向を見て、同じ気持ちでここまで乗り越えて来た私にとって、目の前の夫に言えないものを抱え込んでしまったことは、この上なく辛いことでした。つとめて平静を装っていたつもりでしたが、夫はすでに見透かしていたような気もします。
告知を受け止めようと、受け止めなければと考えはするものの、気持ちがついていけなくて、またそれを夫に覚られないようにしなければならず、この時期は入院期間中で私の最も辛いころでした。
入院当初から、何らかの知識を得たくて怪我について書かれた図書などを探してみましたが、目に留まるものはありませんでした。ようやく出会ったのがあの薄い冊子だったのです。本当のことを知りたいと思っていながら、いざ告知を受けると、思っていた以上に動揺してしまったわけですが、それでもやはり、できれば泌尿器のことも含めて早い時期にしっかり教えていただきたかったという思いはいまでも変わりません。告知による動揺はある意味当然と思えます。その動揺を乗り越えるための支援を各仕事の領域ごとにしっかり連携されていれば、むしろ患者にとっては(家族の者にとっても)ありがたいことだと思います。
患者個々によってそれぞれ違った症状と障害が残るということも、知っておけば患者同士あるいは付き添い人同士の交錯した情報に振り回されなくて済んだかも知れません。私がもっと積極的に知りたいと言えばよかったのかもしれませんが、知りたいことが何なのかさえわからないのが正直なところでしたから。