年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
第27回 僕たちには、ゴールはないんですよね
患者仲間からも、多くの刺激を受けていました。
「入院生活が3か月を経たある日のリハ室でのこと。退院のあいさつをしているKさんをみて、私は隣にいたO青年にふと、『マラソンで、後から来る人に次々と追い越されるときのようだね……』と、思いを漏らした。そのとき、少し間を置いて返ってきた言葉は、『ええ。でも、僕たちには、ゴールはないんですよね』というものだった。彼は私より1か月早い受傷、同じ頸椎4、5番の損傷の先輩患者である。私の息子と同じ28歳のこの青年の穏やかな言葉は、この重度の障害を負って打ちひしがれ、焦りと苦痛の真っただ中にあった自分にとって、雷に打たれたような衝撃であった。彼は既にリハビリを終わりのない営みと受け止めていたこと、自分の障害と正面から向き合っていること、リハビリの本来の意味を理解していること、焦っても意味がないこと、自分は自分のペースで進むしかないこと、しかし、一時も止まるわけにはいかないこと、希望を捨ててはならないことなどなど……。『僕たちには、ゴールがないんですよね』という言葉にたくさんの意味を込めていたのである」
「毎日のリハビリは、自分の今後に向けての希望と意欲が支えとなっていた。『リハビリは失ってしまった機能を取り戻すのではなく、いま自分に残っている機能を拡げていくことです』――、Uセラピストのこの言葉は希望の支えとはなったが、『……ダメなところはダメ、生き残ったところを活かす……』というくだりは、私が当初抱いていたリハビリへの誤った認識を変えるきっかけとなったし、リハビリの限界を思い知らされるきっかけにもなった」
「『リハビリの目的はなくした機能を取り戻すことでなく、いま残っている機能をこれからどれだけ拡げていくかにあると思ってください』――、セラピストが患者にかけるこの言葉を、私は聞き漏らすまいとした。彼らの一言一句が誰に向けた言葉であっても、注意を払った。『○○さん! 動きが戻るかどうか、3か月が勝負なんじゃ!』――、何かと理由をつけて、リハビリを早く切り上げようとする患者に向けた叱責の言葉である。既に3か月をとうに過ぎて手足の動きの戻っていない私が、一つの腹を決めたきっかけの言葉であった。『あきらめ』とは違う。その言葉を受け入れることができる状態にあったから、あきらめや失望に打ちのめされずに済んだのであろう。『リハビリテーション』の目的と限界をわきまえることができたセラピストからの間接的な一言であった」
と、夫は書き記しています。
そのような夫に復職への意思を確信した私は、一つの願いを伝えました。「あなたは、『障害を負った以上、俺は今度はそちらの世界で生きることになる』と言うけれど、そうじゃなくて、いままでのあなたにプラスαという形で生きてほしいと願っているの。いままでのあなたを変えるんじゃなくてね、障害という部分が加わった付加価値というかな」と。ずいぶん厳しい言葉だったかもしれませんが、私もまた夫とこれからどう生きていくべきかを探っていたのです。
術後4か月を過ぎて、急性期病棟から慢性期病棟に移動するときが近づいていました。急性期を見守ってくれた看護師長から、「丸山先生は見舞いを言われる立場だけで終わらないで。当たり前の、いままでの丸山先生に新しいものが加わったと思って活躍して欲しい」とエールをいただきました。私の考えは間違っていなかったと思いながら、それはとても嬉しい励ましになりました。
同じ頃、夫に関するカンファレンスがあって、「家庭復帰、社会復帰の意思が固いので、別の病院へ送ることなどは考えず、その復帰に問題がなくなるまで、ここで全面的にバックアップしましょう」と話し合われたことを、リハのN先生が聞かせてくれました。そして、「そのための環境作りに取りかかりましょう」と付け加えてくれました。感激でいっぱいで、心がとても強くなりました。
そうして、社会復帰への第一歩といわれた慢性期病棟へ転棟しました。「また、人の輪が広がるよ」と、ずっと担当してくれていたNナースも送り出してくれました。「いよいよ腰を据えて頑張ろうね」と、二人で気持ちを確認し合ったものでした。
これよりだいぶ経ってからのことです。夫も元気になってきていました。
ある日、若い頃のバスケットボールのチームメイトが遠くから見舞いに来てくれて、「先生はいままで健常者だった。今度は障害者になられたので、どうか橋渡しになってください」と励ましてくださいました。しかし、その数日後、「励ましてもらったことは嬉しかったけど、俺は、橋渡しは嫌なんだよね。“橋を渡す”ということは、そこに川とか溝とかがあるということなんだよ。そうじゃなくて、どちらも同じ平面で生きていかなくては、と思うんだよ。俺は、そのためにどうしたらよいかということを考えたい」と、夫は私に言ってくれました。
この言葉を聴いた私は、そこまで考えを発展させた夫を、とても誇らしく思えました。夫も最初からそう考えていたわけではなかったと思いますが、悩みながら夫なりに時間をかけてそこまでたどり着いていたのでした。
春休みも終わった、ある日の私の日記です。
「テレビで『命の授業』を見た。『100万回生きたねこ』という絵本の紹介、生まれた順序で死ぬ、健康の自己管理能力、新しい課題をもらって生まれ変わった……等が語られていた。その後で二人で話したこと。『100%生きたというふうに、人の心の中に残るような生き方をしたいなあ。寝る前に一人でしゃべっているんだが、“命の授業”って俺に話す資格あるかなあ。体験を誇張して言いたくはないけど、できれば子どもらにこんな話ができるといいなあ。学生もそうだけど』『最初からその姿だった人にもその資格はあると思うけど、あなたのようにいままでの姿とすっかり変わってしまったその身体で語るという別の意味の資格があるんじゃない?』意欲と意志力。人間性と専門性などに話が及ぶ」
とあります。
二人とも、もがきながら新しい生き方を探りさぐり、暮らしていたように思います。
しかし、このときすでに夫は前を向いていて、頭の中には授業案が練られていたことがわかります。
「入院生活が3か月を経たある日のリハ室でのこと。退院のあいさつをしているKさんをみて、私は隣にいたO青年にふと、『マラソンで、後から来る人に次々と追い越されるときのようだね……』と、思いを漏らした。そのとき、少し間を置いて返ってきた言葉は、『ええ。でも、僕たちには、ゴールはないんですよね』というものだった。彼は私より1か月早い受傷、同じ頸椎4、5番の損傷の先輩患者である。私の息子と同じ28歳のこの青年の穏やかな言葉は、この重度の障害を負って打ちひしがれ、焦りと苦痛の真っただ中にあった自分にとって、雷に打たれたような衝撃であった。彼は既にリハビリを終わりのない営みと受け止めていたこと、自分の障害と正面から向き合っていること、リハビリの本来の意味を理解していること、焦っても意味がないこと、自分は自分のペースで進むしかないこと、しかし、一時も止まるわけにはいかないこと、希望を捨ててはならないことなどなど……。『僕たちには、ゴールがないんですよね』という言葉にたくさんの意味を込めていたのである」
「毎日のリハビリは、自分の今後に向けての希望と意欲が支えとなっていた。『リハビリは失ってしまった機能を取り戻すのではなく、いま自分に残っている機能を拡げていくことです』――、Uセラピストのこの言葉は希望の支えとはなったが、『……ダメなところはダメ、生き残ったところを活かす……』というくだりは、私が当初抱いていたリハビリへの誤った認識を変えるきっかけとなったし、リハビリの限界を思い知らされるきっかけにもなった」
「『リハビリの目的はなくした機能を取り戻すことでなく、いま残っている機能をこれからどれだけ拡げていくかにあると思ってください』――、セラピストが患者にかけるこの言葉を、私は聞き漏らすまいとした。彼らの一言一句が誰に向けた言葉であっても、注意を払った。『○○さん! 動きが戻るかどうか、3か月が勝負なんじゃ!』――、何かと理由をつけて、リハビリを早く切り上げようとする患者に向けた叱責の言葉である。既に3か月をとうに過ぎて手足の動きの戻っていない私が、一つの腹を決めたきっかけの言葉であった。『あきらめ』とは違う。その言葉を受け入れることができる状態にあったから、あきらめや失望に打ちのめされずに済んだのであろう。『リハビリテーション』の目的と限界をわきまえることができたセラピストからの間接的な一言であった」
と、夫は書き記しています。
そのような夫に復職への意思を確信した私は、一つの願いを伝えました。「あなたは、『障害を負った以上、俺は今度はそちらの世界で生きることになる』と言うけれど、そうじゃなくて、いままでのあなたにプラスαという形で生きてほしいと願っているの。いままでのあなたを変えるんじゃなくてね、障害という部分が加わった付加価値というかな」と。ずいぶん厳しい言葉だったかもしれませんが、私もまた夫とこれからどう生きていくべきかを探っていたのです。
術後4か月を過ぎて、急性期病棟から慢性期病棟に移動するときが近づいていました。急性期を見守ってくれた看護師長から、「丸山先生は見舞いを言われる立場だけで終わらないで。当たり前の、いままでの丸山先生に新しいものが加わったと思って活躍して欲しい」とエールをいただきました。私の考えは間違っていなかったと思いながら、それはとても嬉しい励ましになりました。
同じ頃、夫に関するカンファレンスがあって、「家庭復帰、社会復帰の意思が固いので、別の病院へ送ることなどは考えず、その復帰に問題がなくなるまで、ここで全面的にバックアップしましょう」と話し合われたことを、リハのN先生が聞かせてくれました。そして、「そのための環境作りに取りかかりましょう」と付け加えてくれました。感激でいっぱいで、心がとても強くなりました。
そうして、社会復帰への第一歩といわれた慢性期病棟へ転棟しました。「また、人の輪が広がるよ」と、ずっと担当してくれていたNナースも送り出してくれました。「いよいよ腰を据えて頑張ろうね」と、二人で気持ちを確認し合ったものでした。
これよりだいぶ経ってからのことです。夫も元気になってきていました。
ある日、若い頃のバスケットボールのチームメイトが遠くから見舞いに来てくれて、「先生はいままで健常者だった。今度は障害者になられたので、どうか橋渡しになってください」と励ましてくださいました。しかし、その数日後、「励ましてもらったことは嬉しかったけど、俺は、橋渡しは嫌なんだよね。“橋を渡す”ということは、そこに川とか溝とかがあるということなんだよ。そうじゃなくて、どちらも同じ平面で生きていかなくては、と思うんだよ。俺は、そのためにどうしたらよいかということを考えたい」と、夫は私に言ってくれました。
この言葉を聴いた私は、そこまで考えを発展させた夫を、とても誇らしく思えました。夫も最初からそう考えていたわけではなかったと思いますが、悩みながら夫なりに時間をかけてそこまでたどり着いていたのでした。
春休みも終わった、ある日の私の日記です。
「テレビで『命の授業』を見た。『100万回生きたねこ』という絵本の紹介、生まれた順序で死ぬ、健康の自己管理能力、新しい課題をもらって生まれ変わった……等が語られていた。その後で二人で話したこと。『100%生きたというふうに、人の心の中に残るような生き方をしたいなあ。寝る前に一人でしゃべっているんだが、“命の授業”って俺に話す資格あるかなあ。体験を誇張して言いたくはないけど、できれば子どもらにこんな話ができるといいなあ。学生もそうだけど』『最初からその姿だった人にもその資格はあると思うけど、あなたのようにいままでの姿とすっかり変わってしまったその身体で語るという別の意味の資格があるんじゃない?』意欲と意志力。人間性と専門性などに話が及ぶ」
とあります。
二人とも、もがきながら新しい生き方を探りさぐり、暮らしていたように思います。
しかし、このときすでに夫は前を向いていて、頭の中には授業案が練られていたことがわかります。