年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
第4回 転院受け入れ
落ち着かないまま、あちこちに電話連絡をしている間に、飯塚市にある総合せき損センターが受け入れてくれることが決まったそうで、担当医は「私はそのほうがよいと思っていました。すぐに行きましょう。医者はいつも最悪のことも含めて考え、話すものです。希望を持ってください」とおっしゃいました。
この病院にいた間の処置や手当に感謝の言葉を自然に言えて、結構落ち着いていることに自分でも驚いていました。実際よくやっていただいたから、ここまで元気でいられたのだと思ってもいました。
総合せき損センターに転院して、10日も経ってから、この転院の経緯がわかりました。突然の電話を受けた直後から力になってくれていた私たちの友人のお子さんの先輩で福岡在住の人が心配して職場の上司に相談を持ちかけてくださり、それを聴いた上司がさらに働きかけてくださった、さる医療コンサルタントの力添えがあったことを知りました。巡り巡って、全く顔も知らない多くの人たちに助けられたと知って、感動と感謝の気持ちでいっぱいになったのでした。
救急車で、総合せき損センターへ向かいました。点滴をしたままの夫、救命の医師、検査資料を抱えたナース、運転手、それに家族が同乗しました。車が揺れるたびに、医師は夫の頭を浮かすように支えて、「大丈夫ですか?」と聞きます。彼はしっかりした声で「大丈夫」とそのつど応えました。彼の息づかいさえ心配なうえに、悪路と渋滞でなかなか進まず、頭が痛くなりました。
1時間15分後、総合せき損センターに着きました。
赤レンガ造りの広い空間でした。無事に到着した安堵感が同化していくような不思議な安らぎを感じました。救急車からベッドごと下ろされた夫は、ネクタイを締めた何人かの人に囲まれるように運ばれました。また検査をしているのだろうか、案内された静かな広い廊下でしばらく待ちました。落ち着いた雰囲気に前の病院の様子が重なりました。家族は三人とも無口になっていました。
夫は直ちにX線、CT,MRIと再検査が続いていたらしく、その途中ナースさんが来て、「手術になるので必要な準備品を売店で揃えるように」とおっしゃいました。同時に手術前の血液検査の同意を求められて、何故聞かれるのかわからなかった私が「気になりません」と答えたら、「ですよね」と快活に答えが返って来ました。その人が担当ナースに決まったNさんでした。
検査後すぐに手術が決まり、主治医となったM先生の説明を三人で聞きました。
「頸椎4番が前に飛び出しているために、脊髄が圧迫を受けている。物理的にその圧迫を取るために骨を正常な状態にするための手術をする。その上で脊髄がどれくらい回復するか。脊髄の治療というのは今まではない。骨は戻るが、そのほうは期待値しかない。わずかに残る感覚も、不完全麻痺の状態。呼吸も難しくなって止まる可能性もあるが、人工呼吸器をつければ心配はないし、それも次第に取り除くことができる」と冷静に説明されたのを、前の病院で聴いたことが繰り返されたと思えないほど聴くほうも冷静に聴きました。手術の応諾書にサインをして廊下に出たら、夫はもう手術室へ運ばれるところでした。不安と安心が半々の気持ちで、あわただしく送りました。
「じゃ、行ってくるぞ」と夫は繰り返し、「待っているからね」と三人が同じ言葉を繰り返して、ドアの向こうの長い廊下へ消えて行くのを見ていました。
このときも死んでしまうなどとは考えも及びませんでした。家族のための控室に案内されて、見当もつかない不安に脅えながら待ちました。何も食べられず、喉も渇きませんでした。出張先の先生が二人来てくださってずっと付いていてくださいました。気の毒に思いましたが、そのことがとても心強かったし、嬉しかったものです。
この病院にいた間の処置や手当に感謝の言葉を自然に言えて、結構落ち着いていることに自分でも驚いていました。実際よくやっていただいたから、ここまで元気でいられたのだと思ってもいました。
総合せき損センターに転院して、10日も経ってから、この転院の経緯がわかりました。突然の電話を受けた直後から力になってくれていた私たちの友人のお子さんの先輩で福岡在住の人が心配して職場の上司に相談を持ちかけてくださり、それを聴いた上司がさらに働きかけてくださった、さる医療コンサルタントの力添えがあったことを知りました。巡り巡って、全く顔も知らない多くの人たちに助けられたと知って、感動と感謝の気持ちでいっぱいになったのでした。
救急車で、総合せき損センターへ向かいました。点滴をしたままの夫、救命の医師、検査資料を抱えたナース、運転手、それに家族が同乗しました。車が揺れるたびに、医師は夫の頭を浮かすように支えて、「大丈夫ですか?」と聞きます。彼はしっかりした声で「大丈夫」とそのつど応えました。彼の息づかいさえ心配なうえに、悪路と渋滞でなかなか進まず、頭が痛くなりました。
1時間15分後、総合せき損センターに着きました。
赤レンガ造りの広い空間でした。無事に到着した安堵感が同化していくような不思議な安らぎを感じました。救急車からベッドごと下ろされた夫は、ネクタイを締めた何人かの人に囲まれるように運ばれました。また検査をしているのだろうか、案内された静かな広い廊下でしばらく待ちました。落ち着いた雰囲気に前の病院の様子が重なりました。家族は三人とも無口になっていました。
夫は直ちにX線、CT,MRIと再検査が続いていたらしく、その途中ナースさんが来て、「手術になるので必要な準備品を売店で揃えるように」とおっしゃいました。同時に手術前の血液検査の同意を求められて、何故聞かれるのかわからなかった私が「気になりません」と答えたら、「ですよね」と快活に答えが返って来ました。その人が担当ナースに決まったNさんでした。
検査後すぐに手術が決まり、主治医となったM先生の説明を三人で聞きました。
「頸椎4番が前に飛び出しているために、脊髄が圧迫を受けている。物理的にその圧迫を取るために骨を正常な状態にするための手術をする。その上で脊髄がどれくらい回復するか。脊髄の治療というのは今まではない。骨は戻るが、そのほうは期待値しかない。わずかに残る感覚も、不完全麻痺の状態。呼吸も難しくなって止まる可能性もあるが、人工呼吸器をつければ心配はないし、それも次第に取り除くことができる」と冷静に説明されたのを、前の病院で聴いたことが繰り返されたと思えないほど聴くほうも冷静に聴きました。手術の応諾書にサインをして廊下に出たら、夫はもう手術室へ運ばれるところでした。不安と安心が半々の気持ちで、あわただしく送りました。
「じゃ、行ってくるぞ」と夫は繰り返し、「待っているからね」と三人が同じ言葉を繰り返して、ドアの向こうの長い廊下へ消えて行くのを見ていました。
このときも死んでしまうなどとは考えも及びませんでした。家族のための控室に案内されて、見当もつかない不安に脅えながら待ちました。何も食べられず、喉も渇きませんでした。出張先の先生が二人来てくださってずっと付いていてくださいました。気の毒に思いましたが、そのことがとても心強かったし、嬉しかったものです。