年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
第23回 何とか、もう一度学生の前に立たせたい
受傷2か月目、主治医であるM先生から告知を受けたとき、私は夫の職場への復帰について、その可能性があるかどうかを尋ねています。夫にこそ言いませんでしたが、その思いはせき損センターで診断書が出たときから私の考えていたことだったのです。
診断書には1年ほどの入院加療が必要と書かれていました。ということは、「1年が過ぎれば大学へ戻れる。定年退官には後2年あるから、残りの1年は大学へ戻れる」と単純に考えたことではありましたが、本当の気持ちはもっと深かったのです。
夫は大学卒業後、教育現場で体育の教師をしていました。その後は大学の付属学校で研究的な仕事を長年重ねてきました。それが評価されて教員養成大学に異動してからは、教員を目指す学部生や、全国から現職教員が大学院生として集まって来る大学院で体育科の教育についての研究に心を傾けていました。誠実で真摯な人が本当にやりたい仕事に巡り合えたように、私も思っていました。学生にも慕われていましたし、夫もまた学生を愛していました。同僚にも恵まれ、楽しく充実した毎日を送っている姿を見ながら、私は夫の「教育」に対する情熱を信じていたのです。それがあろうことか、一人のいかにも無謀な行為によって断絶されることがあまりに悔しかったのです。
「何とか、もう一度学生の前に立たせたい」と、一途な思いが私の中に膨らんだのです。「このままで終わらせるわけにはいかない!」と思いました。ですから、受傷直後に見舞ってくれた学長に、私は既に復職の話をしています。「診断書には1年とあるし、病院の方針としても1年ということなので、その後は、最後には職場に戻してやりたいと思うので……」と。
後遺症のことなど全く知りもせず、考えもしないで言ったことですから、「具体的には何も見えていなかったのに!」です。いま考えると、だからこそ言えたのかもしれません。
この私の願いに対して、学長からは「先生には定年まで頑張ってもらう」との返事をもらっていました。
M先生から復職が可能との意見を聴いて、私は本気になっていました。ちょうどその時期に初めて新潟へ帰った私は、大学へ行って夫の同僚の先生方にもそれを伝え、励ましの伝言をたくさん夫に届けました。
一方、病院ではMSWや医事課長にもその意思を伝えて協力してもらおうと考えていました。どちらも賛成してくれました。ところが、「そうか、また大学へ行けるか」と嬉しそうだった夫が、「近ごろ、先のことばっかり考えるんだ」と浮かない顔を見せるようになりました。リハビリも順調で「車いすは少しも問題ないですね。声も出るようになったし……」とM先生に言われていたころのことです。告知から20日程経っていました。「だけど、M先生の言われるように、いまできることを一生懸命やりましょう。その日その日を一生懸命過ごしましょう。お父さんは学校へ戻らなくてはならないんだよ」と言うと、「そうだな」と一言だけ返って来ました。そのまま口をつぐんでしまった感じでした。
2〜3日後、医事課長が医用工学研究所の松尾先生を紹介してくれました。「要はどんな生活がしたいですか。どんな仕事、どんな暮らしがしたいか、それがはっきりすれば道具はそれについていきます」と、松尾先生が言われました。その日は“あと2年の在職期間の最後の1年はぜひとも復職したい“旨だけ伝えました。初めて行った研究所の展示室にあったたくさんの機器や入浴、食事、排泄などの写真を見学しました。あらためて「大変なことだ」と私は思いました。夫も「こんなになるんか……」と重いつぶやきを漏らしていました。「私のため息は彼に聞こえないようにしなくては……」とその日の日記に書いたのでしたが、夫も、
「『丸山さんがこの身体でどのように生活していきたいか、道具は必ずそれについていきます』――。せき損センターには、院内に医用工学研究所が併設されている。これは、初めて施設を訪ねたときの主任研究員である松尾先生の言葉である。施設内に展示されている機器・器具の数々に目を奪われ、そしてそれらの機器に助けられている近未来の自分の姿を重ね合わせ、ある種のショックで気持ちが沈み込んでいたときであった。退院後の自分の生活を具体的に思い描くまでに至らなかったころでもあったし、そんな姿を否定したい気持ちでもあったころだけに複雑な気持ちで聞いた」
診断書には1年ほどの入院加療が必要と書かれていました。ということは、「1年が過ぎれば大学へ戻れる。定年退官には後2年あるから、残りの1年は大学へ戻れる」と単純に考えたことではありましたが、本当の気持ちはもっと深かったのです。
夫は大学卒業後、教育現場で体育の教師をしていました。その後は大学の付属学校で研究的な仕事を長年重ねてきました。それが評価されて教員養成大学に異動してからは、教員を目指す学部生や、全国から現職教員が大学院生として集まって来る大学院で体育科の教育についての研究に心を傾けていました。誠実で真摯な人が本当にやりたい仕事に巡り合えたように、私も思っていました。学生にも慕われていましたし、夫もまた学生を愛していました。同僚にも恵まれ、楽しく充実した毎日を送っている姿を見ながら、私は夫の「教育」に対する情熱を信じていたのです。それがあろうことか、一人のいかにも無謀な行為によって断絶されることがあまりに悔しかったのです。
「何とか、もう一度学生の前に立たせたい」と、一途な思いが私の中に膨らんだのです。「このままで終わらせるわけにはいかない!」と思いました。ですから、受傷直後に見舞ってくれた学長に、私は既に復職の話をしています。「診断書には1年とあるし、病院の方針としても1年ということなので、その後は、最後には職場に戻してやりたいと思うので……」と。
後遺症のことなど全く知りもせず、考えもしないで言ったことですから、「具体的には何も見えていなかったのに!」です。いま考えると、だからこそ言えたのかもしれません。
この私の願いに対して、学長からは「先生には定年まで頑張ってもらう」との返事をもらっていました。
M先生から復職が可能との意見を聴いて、私は本気になっていました。ちょうどその時期に初めて新潟へ帰った私は、大学へ行って夫の同僚の先生方にもそれを伝え、励ましの伝言をたくさん夫に届けました。
一方、病院ではMSWや医事課長にもその意思を伝えて協力してもらおうと考えていました。どちらも賛成してくれました。ところが、「そうか、また大学へ行けるか」と嬉しそうだった夫が、「近ごろ、先のことばっかり考えるんだ」と浮かない顔を見せるようになりました。リハビリも順調で「車いすは少しも問題ないですね。声も出るようになったし……」とM先生に言われていたころのことです。告知から20日程経っていました。「だけど、M先生の言われるように、いまできることを一生懸命やりましょう。その日その日を一生懸命過ごしましょう。お父さんは学校へ戻らなくてはならないんだよ」と言うと、「そうだな」と一言だけ返って来ました。そのまま口をつぐんでしまった感じでした。
2〜3日後、医事課長が医用工学研究所の松尾先生を紹介してくれました。「要はどんな生活がしたいですか。どんな仕事、どんな暮らしがしたいか、それがはっきりすれば道具はそれについていきます」と、松尾先生が言われました。その日は“あと2年の在職期間の最後の1年はぜひとも復職したい“旨だけ伝えました。初めて行った研究所の展示室にあったたくさんの機器や入浴、食事、排泄などの写真を見学しました。あらためて「大変なことだ」と私は思いました。夫も「こんなになるんか……」と重いつぶやきを漏らしていました。「私のため息は彼に聞こえないようにしなくては……」とその日の日記に書いたのでしたが、夫も、
「『丸山さんがこの身体でどのように生活していきたいか、道具は必ずそれについていきます』――。せき損センターには、院内に医用工学研究所が併設されている。これは、初めて施設を訪ねたときの主任研究員である松尾先生の言葉である。施設内に展示されている機器・器具の数々に目を奪われ、そしてそれらの機器に助けられている近未来の自分の姿を重ね合わせ、ある種のショックで気持ちが沈み込んでいたときであった。退院後の自分の生活を具体的に思い描くまでに至らなかったころでもあったし、そんな姿を否定したい気持ちでもあったころだけに複雑な気持ちで聞いた」
と書いていました。
そして、翌日の私の日記です。
「昨日の気分が続いている。『近ごろ、自分の将来の姿が段々見えてきて、ちょっと憂鬱だ』と彼は言う。『そんなこと言っているとリハに支障をきたすよ。元気出して』とは言ってみるものの、励ましにもなっていない。『その色紙の通りだな』と、またひとこと言っただけで黙ってしまった。痛いほどよくわかる。辛くて不安なのは私だって同じなのだ。病室には、娘の友人の書家がお見舞いに書いてくれた“生命あるところ希望あり”の色紙をかけてある。“希望あり”がなかなか実感として湧いてこなかったが、“生命あるところ”は全くそう実感できたのだった。1センチずれていたら……とか、無事せき損センターに着くことができたら命は助かると言われたこととか……」
と書いています。自分の想いを喚き散らしたり、人にぶつけたりしたことのない夫がやっとの想いで辛さに堪えていたのだと思うといまでもやりきれなくなります。
そして、翌日の私の日記です。
「昨日の気分が続いている。『近ごろ、自分の将来の姿が段々見えてきて、ちょっと憂鬱だ』と彼は言う。『そんなこと言っているとリハに支障をきたすよ。元気出して』とは言ってみるものの、励ましにもなっていない。『その色紙の通りだな』と、またひとこと言っただけで黙ってしまった。痛いほどよくわかる。辛くて不安なのは私だって同じなのだ。病室には、娘の友人の書家がお見舞いに書いてくれた“生命あるところ希望あり”の色紙をかけてある。“希望あり”がなかなか実感として湧いてこなかったが、“生命あるところ”は全くそう実感できたのだった。1センチずれていたら……とか、無事せき損センターに着くことができたら命は助かると言われたこととか……」
と書いています。自分の想いを喚き散らしたり、人にぶつけたりしたことのない夫がやっとの想いで辛さに堪えていたのだと思うといまでもやりきれなくなります。