年間約5000名の新患者が発生するという脊髄損傷。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
ここでは、その受傷直後から患者およびその家族がどのような思いを抱きながら治療に臨むのかを、時系列に沿ってご紹介します(執筆:丸山柾子さん)。
それに呼応する形で、医療関係者によるアプローチ、そして当事者の障害受容はどのような経緯をたどるのか、事例の展開に応じて、専門家が詳細な解説を示していきます(執筆:松尾清美先生)。
第1回 突然の電話
その知らせは突然でした。夜到着したはずの出張先の福岡の病院からの「ご主人が交通事故にあって運ばれました。意識ははっきりしていますが、首の骨を骨折していて手足に麻痺が見られます」という電話でした。
手元にあったメモ用紙には、それだけしか書いてありません。ほかには、病院の電話番号をメモしてあるだけです。最初の電話を受けた段階では、話の内容を深く考えてはいなかったというのが、正直なところでした。首の骨の骨折も、手足の骨折ぐらいにしか考えていなかったのです。
というより、知らなかったというほうが当たっています。直後に駆けつけてくれた友人(元看護師)から、「あんまり落ち着いているので、かえってびっくりした」と後になって聞きました。
2度目の電話を受けたメモには、「CT,MRI、呼吸中枢、4〜5折れ、ずれ、せき髄、圧迫、腫れ、出血、これからチューブ、ICU、楽観許さない・・」などと書かれているように、かなり具体的にその重大さが想像できるようになっていました。
「今は救命・整形・脳外科の医師で炎症が広がるのを全力で抑えていますが、今夜は遅いので、もうこれからでは来られませんよね」と言われたころから身体が震え出し、深夜飛んでいるはずのない、しかも遠い町の空港へ問い合わせの電話をかけたほど、冷静さを欠いていました。もちろん、つながりませんでした。
80キロ程離れた町に住む長女に連絡し、ともかく実家に戻ってくるように頼みました。ジャージ1枚の軽装で戻った娘も、留守番をするくらいかと軽く考えていたそうです。身体の震えが止まらなくなっていました。取るものも取りあえず、寝台列車で福岡へ向かいました。当時98歳で施設にいた義父に、「おじいちゃん、どうか代わってください」などと、誠に不謹慎ですが、夜通し祈っていました。
夫の様子は、全く想像できませんでした。一方で、死ぬということも考えられませんでした。大阪で二女も合流して博多へ向かいましたが、誰も何も喉を通らず、何も話せずに、夫が収容された病院に着きました。事故から12時間が過ぎていました。
手元にあったメモ用紙には、それだけしか書いてありません。ほかには、病院の電話番号をメモしてあるだけです。最初の電話を受けた段階では、話の内容を深く考えてはいなかったというのが、正直なところでした。首の骨の骨折も、手足の骨折ぐらいにしか考えていなかったのです。
というより、知らなかったというほうが当たっています。直後に駆けつけてくれた友人(元看護師)から、「あんまり落ち着いているので、かえってびっくりした」と後になって聞きました。
2度目の電話を受けたメモには、「CT,MRI、呼吸中枢、4〜5折れ、ずれ、せき髄、圧迫、腫れ、出血、これからチューブ、ICU、楽観許さない・・」などと書かれているように、かなり具体的にその重大さが想像できるようになっていました。
「今は救命・整形・脳外科の医師で炎症が広がるのを全力で抑えていますが、今夜は遅いので、もうこれからでは来られませんよね」と言われたころから身体が震え出し、深夜飛んでいるはずのない、しかも遠い町の空港へ問い合わせの電話をかけたほど、冷静さを欠いていました。もちろん、つながりませんでした。
80キロ程離れた町に住む長女に連絡し、ともかく実家に戻ってくるように頼みました。ジャージ1枚の軽装で戻った娘も、留守番をするくらいかと軽く考えていたそうです。身体の震えが止まらなくなっていました。取るものも取りあえず、寝台列車で福岡へ向かいました。当時98歳で施設にいた義父に、「おじいちゃん、どうか代わってください」などと、誠に不謹慎ですが、夜通し祈っていました。
夫の様子は、全く想像できませんでした。一方で、死ぬということも考えられませんでした。大阪で二女も合流して博多へ向かいましたが、誰も何も喉を通らず、何も話せずに、夫が収容された病院に着きました。事故から12時間が過ぎていました。