第27回 近江富士(3)
御上神社の手前から裏登山道へ
「背くらべ地蔵」を見て、しばらく道なりに行きますが、野洲高校の手前の「行畑」で左折し、JR東海道線を横断して西林寺の横を通ります。ここまで駅からのんびり歩いても20分ほどですが、お江戸日本橋(現東京都中央区)から埼玉、群馬、長野、岐阜4県の野道や山中を経て、旧東海道・草津宿(現滋賀県草津市)まで続いている旧中山道とあって、往時がしのばれます。
要所ごとに、江戸情緒満点の常夜灯(じょうやとう)が設置されており、いかにも野洲のまちならでの風情です。さすがに、ここまでくると、めざす近江富士もその全容をのどかな田園風景の向こうに見せています。
西林寺の横を過ぎると、車の往来が激しい国道8号線に出ます。その右手前方のこんもりした森は、近江富士こと三上山の守護神の御上神社です。さらに、その国道を横断すると、裏登山道の入り口を記した案内板と「天保義民碑」が見えてきます。
この碑は、江戸時代後期の1833〜1839(天保4〜10)年の大飢饉の際、地元の農民とともに天保一揆を成功させ、役人に不正な検地を中止させた庄屋、土川平兵衛らの偉業をたたえたものです。
俵藤太は正式には藤原秀郷(ふじわらの・ひでさと:生没不詳)といい、平安時代の武将でした。
地元の野洲市観光物産協会のホームページなどによると、当時、琵琶湖に架かる近江国(現滋賀県)の瀬田唐橋(せたのからはし)の上に長さ20丈(約60メートル)もあるかと思われる大蛇が横たわっていました。だれもが通れなくて困っていることを知った藤太は、恐れもせず、大蛇の背中を踏んで通り過ぎていきました。
これを橋の下に住む竜神が見ており、藤太に「三上山で暴れまくっている大ムカデを退治してほしい」と頼みました。藤太は早速、湖の水辺に立ち、三上山をにらみつけると雷雨が鳴り響き大ムカデが現れました。
そこで、藤太は、持っていた3本の矢のうち、2本を射ったのですが、ビクともしません。しかし、最後の矢に唾をはきかけ、祈りを込めて眉間を狙うと左の目から喉を射抜き、大ムカデは息絶えました。
多くの人が恐れていた大ムカデを退治してくれるよう、頼んだ竜神は大喜びで、米の俵や錦、釜、鐘を藤太に贈りました。
その1つが比叡山(大比叡:848メートル)の麓にある園城寺(おんじょうじ:三井寺)に現存する「弁慶の引摺鐘(ひきずりがね)」といわれています。また、俵からはいつまでも米が出続けることから、「俵藤太」と呼ばれるようになったそうです。
あくまでも言い伝えにすぎませんが、いざ、登山道に足を踏み入れると、なるほど、大ムカデでも出そうな雰囲気ではあります。