第20回 認知症の人とのかかわり方のヒント(10)−私たちには認知症の人のこころがわかるか?
初期の不安、喪失感
私が精神科の診療所を開業して数年がたったころ、ある高齢の女性が受診してきました。たいした実力のない私は、彼女を見たときに「あれ、この人、別に何の問題もなさそうだな」と感じたことを、今でもはっきりと覚えています。
でも、その後、彼女から聞いた言葉で目が覚めました。
「先生、私は先生の講演会に行って話を聞き、この診療所を受診しました。講演で先生は、認知症の人の多くは、ごく初期にはこれまでの自分と違うことに気づき、そのことで寄る辺なき(身の置き所のない)寂しさを感じていると言われましたよね。
私がそうなんです。これまで公立病院で看護師長を勤めてきました。その私がある頃からもの忘れを自覚するようになって、ずいぶん心細い思いをしました。でも、そのことをみんなに話しても『あなたに限ってそのようなことはない』とか、『気にしすぎだ』と話を聞いてくれません。私は身の置き所のない不安に襲われて、寄る辺なき身の寂しさを感じました」
確かに私は、講演ではそのように説明してきました。でも、実際に目の前で自分の心情を吐露して辛さを語ってくれたその人に出会うまでは、生身の人のありのままの感情として捉えていなかった自分がいたことに愕然としました。
でも、その後、彼女から聞いた言葉で目が覚めました。
「先生、私は先生の講演会に行って話を聞き、この診療所を受診しました。講演で先生は、認知症の人の多くは、ごく初期にはこれまでの自分と違うことに気づき、そのことで寄る辺なき(身の置き所のない)寂しさを感じていると言われましたよね。
私がそうなんです。これまで公立病院で看護師長を勤めてきました。その私がある頃からもの忘れを自覚するようになって、ずいぶん心細い思いをしました。でも、そのことをみんなに話しても『あなたに限ってそのようなことはない』とか、『気にしすぎだ』と話を聞いてくれません。私は身の置き所のない不安に襲われて、寄る辺なき身の寂しさを感じました」
確かに私は、講演ではそのように説明してきました。でも、実際に目の前で自分の心情を吐露して辛さを語ってくれたその人に出会うまでは、生身の人のありのままの感情として捉えていなかった自分がいたことに愕然としました。
認知症の人の心に耳を傾ける
それから10年たっても、彼女は診療所まで独りで通ってきます。他の医療機関でも診断を受けていますので、私だけが認知症であると勝手に思い込んでいるのではありません。でも、認知症の人すべてが彼女のように変わりゆく自分に気づくわけではありません。みなさんの周りにも「私は大丈夫。どこも悪いところなどない」と言い続けている認知症の人がいることは、これまでもこの欄に書いてきました。
でも、私たちは「認知症になるとどのような(特異な)世界が広がるのだろうか」と思うのではなく、むしろ彼女のように自分の変化に気づき、戸惑い、その不安から気分が沈みがちである人のことを想像することができます。
何か特別な人だけの特別な症状ではなく、誰でも持っているごく当たり前の喪失感と向き合っている認知症の人がたくさんいることを知ってください。そして完全に病気から来る症状によって、その人も振り回されている状況なのか、それともその人のこころがしっかりと見える状況なのかを把握することで、認知症に対する理解は広がっていくものです。「自分の心細さと同じような感じなのかな」と、その人のこころに耳を傾けてくれるあなたの存在こそ、認知症の人にとって何よりも心強い存在なのです。
次回は「認知症と成年後見制度」について考えましょう。
でも、私たちは「認知症になるとどのような(特異な)世界が広がるのだろうか」と思うのではなく、むしろ彼女のように自分の変化に気づき、戸惑い、その不安から気分が沈みがちである人のことを想像することができます。
何か特別な人だけの特別な症状ではなく、誰でも持っているごく当たり前の喪失感と向き合っている認知症の人がたくさんいることを知ってください。そして完全に病気から来る症状によって、その人も振り回されている状況なのか、それともその人のこころがしっかりと見える状況なのかを把握することで、認知症に対する理解は広がっていくものです。「自分の心細さと同じような感じなのかな」と、その人のこころに耳を傾けてくれるあなたの存在こそ、認知症の人にとって何よりも心強い存在なのです。
次回は「認知症と成年後見制度」について考えましょう。