是枝さんは、特別養護老人ホーム「福音の家」勤務を経て、大妻女子大学で介護福祉学の教鞭をとってこられました。東京都介護福祉士会会長を長く務めるなど、介護の世界にはとても造詣が深い方です。
せっかく介護の仕事に就いたのにもかかわらず、辞めてしまう人が多いと聞きます。「もう辞めてしまおうか」などとお考えの人もいらっしゃるのではないでしょうか。
そうした人に向けて、是枝さんには、介護に関するコメントとともに、介護の仕事の素晴らしさが実感できるような、さまざまなエピソードをご紹介いただきます。
是枝さんご自身も、決してこの仕事が楽しくて楽しくて仕方がないということばかりではなかったとおっしゃいます。ご自身の経験も踏まえながら、そんな悩みに対して、一緒に考えていっていただきましょう。
せっかく介護の仕事に就いたのにもかかわらず、辞めてしまう人が多いと聞きます。「もう辞めてしまおうか」などとお考えの人もいらっしゃるのではないでしょうか。
そうした人に向けて、是枝さんには、介護に関するコメントとともに、介護の仕事の素晴らしさが実感できるような、さまざまなエピソードをご紹介いただきます。
是枝さんご自身も、決してこの仕事が楽しくて楽しくて仕方がないということばかりではなかったとおっしゃいます。ご自身の経験も踏まえながら、そんな悩みに対して、一緒に考えていっていただきましょう。
第1回 尊厳とは何か
悩むのが介護職
介護の仕事は、介護を必要とする人の生活を支えることですね。当たり前なことなんですけれど、これってほんとでしょうか。
「ほんとうにこれでいいの?」って悩んでいる人が多くいます。だって相手は人間なんですから、食事、排泄、入浴の介助を流れ作業のようにやっていても、相手も自分も満足できないんじゃないでしょうか。
たとえば、おむつ交換では、交換することが仕事だから、手早くおむつを交換できる人がプロ、でしょうか。
う〜ん、ここで悩む人は悩むし、悩まない人は悩まない。「悩まないほうがいい」と教える事業所もあるし、「悩まなきゃダメ」と教える事業所もあります。同じ「ケアをする事業所」なのに、人間への向き合い方が180度違う。
たとえば、お年寄りが恥ずかしそうにしていたら、どうすればよいか考えませんか。
お年寄りは、「下の世話になったらおしまい」と、かつて考えていたかもしれません。今も「早くお迎えに来ないかしら」と、おむつ交換のたびに頭のどこかをよぎってないか。そういうことを感じさせるケアは、するほうもつらい。
おむつ交換という「作業」から、「排泄行為の援助」をしているという意識をもつことはできませんか。この二つは、決して同じことではありません。利用者と介護職員の間に心が通っているかどうかの違いがあります。
ここで「同じことだ」と思ってしまったら、ケアはすべて「作業」になります。介護職員によって作業の質が変わっては問題ですから、マニュアルが必要になります。マニュアルには、おむつ交換の方法が書いてあります。でも、その人の心の中を覗いて、その人の心をケアする方法は書いてありません。
利用者の尊厳を支えることについては、耳にタコができるほど聞いていると思います。でも、じゃあ具体的な場面でそれをどう実践するかについては、マニュアルには書いてありません。心の置き方の問題ですから、漢字二文字で、ただ「尊厳」と書いてもわかりません。
「ほんとうにこれでいいの?」って悩んでいる人が多くいます。だって相手は人間なんですから、食事、排泄、入浴の介助を流れ作業のようにやっていても、相手も自分も満足できないんじゃないでしょうか。
たとえば、おむつ交換では、交換することが仕事だから、手早くおむつを交換できる人がプロ、でしょうか。
う〜ん、ここで悩む人は悩むし、悩まない人は悩まない。「悩まないほうがいい」と教える事業所もあるし、「悩まなきゃダメ」と教える事業所もあります。同じ「ケアをする事業所」なのに、人間への向き合い方が180度違う。
たとえば、お年寄りが恥ずかしそうにしていたら、どうすればよいか考えませんか。
お年寄りは、「下の世話になったらおしまい」と、かつて考えていたかもしれません。今も「早くお迎えに来ないかしら」と、おむつ交換のたびに頭のどこかをよぎってないか。そういうことを感じさせるケアは、するほうもつらい。
おむつ交換という「作業」から、「排泄行為の援助」をしているという意識をもつことはできませんか。この二つは、決して同じことではありません。利用者と介護職員の間に心が通っているかどうかの違いがあります。
ここで「同じことだ」と思ってしまったら、ケアはすべて「作業」になります。介護職員によって作業の質が変わっては問題ですから、マニュアルが必要になります。マニュアルには、おむつ交換の方法が書いてあります。でも、その人の心の中を覗いて、その人の心をケアする方法は書いてありません。
利用者の尊厳を支えることについては、耳にタコができるほど聞いていると思います。でも、じゃあ具体的な場面でそれをどう実践するかについては、マニュアルには書いてありません。心の置き方の問題ですから、漢字二文字で、ただ「尊厳」と書いてもわかりません。
ああいうふうに死にたいね(川田さん1)
介護の仕事って、ほんとうに楽しいと思います。
教師とか、接客業とか、人間と人間が関わり合う仕事はたくさんあるけれど、介護ほど深く人間の内面に触れる仕事はほかにないかもしれません。人間のすべての面が介護に現れます。相手の心の奥にあるものだけじゃなくて、こちら側の内面まで洗いざらい出てくるのが介護です。こちらの心を深くして接すると、相手の心も深く現れる。
だから、介護の仕事には感動もあるし、悩むことも傷つくこともあります。介護は出会いの場だし、心と心のぶつかり合いです。
特に看取りは、何度経験しても緊張します。慣れるということはありません。でも、看取りの経験を通して、どれだけ人生というものを教えていただいたかわからない。だからといって、「人生ってこういう意味よ」って説明できるわけではないけれど、看取りは、私にはかけがえのない心の学校でした。
私も、「死ぬときは、こんな死に方をしたい」と考える人にたびたび出会いました。こんなふうに死にたいと思わせることは、こんなふうに生きたいと思うことでもあります。
たとえば、90歳近くで亡くなった川田さん(仮名)はとても印象に残っています。人間的に立派な人だったと思います。私が特養「福音の家」で仕事をしていたとき、看取りをした最初のころの人です。
川田さんは、お酒が好きで、月に一度開かれていた居酒屋(もどき)に必ず顔を出していました。居酒屋といってもお酒はほんの少ししか出さないのですが、金曜日の夜の雰囲気を楽しむ人たちのたまり場でした。たとえごちそうがなくても、栄養士や調理師の心づくしのおつまみがあって、何だかみんな酔っ払ったような雰囲気でおしゃべりして楽しみました。川田さんは“筋金入り”の常連でした。現役のサラリーマン時代は、結構飲む方だったようです。
川田さんはクリスチャンで、入浴が一部介助のほかは自立度が高く、杖で歩いていました。ベッドの脇には聖書と草花の本が置いてあって、目は悪いのですが、ときどきページを開いていました。ベッドの上の壁には、十字架にかけられたイエスの絵が飾られていました。
末期がんで亡くなる間際、お医者さんが、「川田さん、痛いでしょ? 薬で止めましょう」と耳元で聞くと、イエス像を指さして、「大丈夫、あれに比べたら」と、かぼそい声で答えました。
イエスは当時の処刑法で十字架に釘ではりつけにされ、数時間、死ぬまで放置されて亡くなったそうです。川田さんは自分の苦しみをイエスの苦しみに重ね合わせていたのでしょうか。「明治の男」だから我慢強くもあったと思いますが、もしかしたら、あの痛みって、川田さんにとって大切なものだったのかもしれません。
人間の心って計り知れないものです。
教師とか、接客業とか、人間と人間が関わり合う仕事はたくさんあるけれど、介護ほど深く人間の内面に触れる仕事はほかにないかもしれません。人間のすべての面が介護に現れます。相手の心の奥にあるものだけじゃなくて、こちら側の内面まで洗いざらい出てくるのが介護です。こちらの心を深くして接すると、相手の心も深く現れる。
だから、介護の仕事には感動もあるし、悩むことも傷つくこともあります。介護は出会いの場だし、心と心のぶつかり合いです。
特に看取りは、何度経験しても緊張します。慣れるということはありません。でも、看取りの経験を通して、どれだけ人生というものを教えていただいたかわからない。だからといって、「人生ってこういう意味よ」って説明できるわけではないけれど、看取りは、私にはかけがえのない心の学校でした。
私も、「死ぬときは、こんな死に方をしたい」と考える人にたびたび出会いました。こんなふうに死にたいと思わせることは、こんなふうに生きたいと思うことでもあります。
たとえば、90歳近くで亡くなった川田さん(仮名)はとても印象に残っています。人間的に立派な人だったと思います。私が特養「福音の家」で仕事をしていたとき、看取りをした最初のころの人です。
川田さんは、お酒が好きで、月に一度開かれていた居酒屋(もどき)に必ず顔を出していました。居酒屋といってもお酒はほんの少ししか出さないのですが、金曜日の夜の雰囲気を楽しむ人たちのたまり場でした。たとえごちそうがなくても、栄養士や調理師の心づくしのおつまみがあって、何だかみんな酔っ払ったような雰囲気でおしゃべりして楽しみました。川田さんは“筋金入り”の常連でした。現役のサラリーマン時代は、結構飲む方だったようです。
川田さんはクリスチャンで、入浴が一部介助のほかは自立度が高く、杖で歩いていました。ベッドの脇には聖書と草花の本が置いてあって、目は悪いのですが、ときどきページを開いていました。ベッドの上の壁には、十字架にかけられたイエスの絵が飾られていました。
末期がんで亡くなる間際、お医者さんが、「川田さん、痛いでしょ? 薬で止めましょう」と耳元で聞くと、イエス像を指さして、「大丈夫、あれに比べたら」と、かぼそい声で答えました。
イエスは当時の処刑法で十字架に釘ではりつけにされ、数時間、死ぬまで放置されて亡くなったそうです。川田さんは自分の苦しみをイエスの苦しみに重ね合わせていたのでしょうか。「明治の男」だから我慢強くもあったと思いますが、もしかしたら、あの痛みって、川田さんにとって大切なものだったのかもしれません。
人間の心って計り知れないものです。