第4回 在宅医療の課題 その2
国民の意識
本当は家で死にたいけれど…
「どこで死にたいですか」という質問に対して、「できるだけ自宅で過ごして、最期は施設に入りたい」「がんになったら、ホスピスや緩和ケア病棟に入って死にたい」と答える人は少なくありません。
本当は家で死にたいけれど、家族の負担や緊急時の不安を思うと、家で死ぬことは難しいと考えるのです。では果たして、私たちは本当に、希望した時に自宅から施設や病院に移り、そこで最期を迎えることができるのでしょうか。
本当は家で死にたいけれど、家族の負担や緊急時の不安を思うと、家で死ぬことは難しいと考えるのです。では果たして、私たちは本当に、希望した時に自宅から施設や病院に移り、そこで最期を迎えることができるのでしょうか。
希望する場所で最期を迎えることは困難?
終の住処として人気の高い特別養護老人ホームには、現在多くの待機者が存在します(図1)。さらに現在、老人施設で積極的に看取りを行っているのはそれほど多くありません。
図1 特別養護老人ホームの待機者の構成
図1 特別養護老人ホームの待機者の構成
また、自分が末期がんで治らないとわかった時、多くの人が入りたいと望むホスピス緩和ケア病棟は、がんの死亡者数と比べてわずかしか存在しません(図2)。国の財政には限度があるので、これらの施設や緩和ケア病棟を増やしていくことは、現状において困難です。
図2 がんによる死亡者とホスピスのキャパシティ
問題となっている社会的入院(治療の必要がないにもかかわらず、家庭の事情などで行き場がなく、病院で生活している状態)も、国は解消の方向で取り組んでいます。さらに多くの病院では、入院期間が長引けば長引くほど診療報酬が減らされるため、経営面から入院日数の短縮を余儀なくされています。
「それならば私は自宅で療養します」と言っても、日本では、終末期の在宅療養、在宅死を受け入れる体制が整った地域は少なく、その活動内容を理解する人も多くありません。近年、医療難民、介護難民、がん難民と呼ばれる人たちが増えてきたのは、このような背景があるためです。最近では「看取り難民」という言葉も聞かれます。
団塊の世代が後期高齢者に到達する2025年、高齢者人口はピークの3500万人になり、その後30年間は高齢者の数が減らないと予想されています。このような社会情勢を踏まえて需要と供給のバランスを考えれば、希望する場所で最期を迎えることは簡単ではないということがわかります。
自宅で死ぬ2つのカタチ
ここで「自宅で死ぬ」ことを考えた時に、2つのパターンがあることに気がつきます。1つは、施設や病院に入れないために「仕方なく」在宅を選択するケースです。これは、周囲の事情で決定される自主性を失った在宅死です。他者によって自分のいのちが翻弄され、傷つけられる可能性があります。
もう1つは、「住み慣れたわが家で、誇りと尊厳を失わずに、生活の延長線上で最期を迎えたい」という希望を叶えるために、さまざまな角度からしっかりと準備を行う、主体性をもった積極的な在宅の選択です。これら2つの間にある意識の差が、人生の締めくくりにおける満足度の差として現われます。
人は必ず死にます。「死」は他人事ではなく、自分自身の問題であるということを私たちはしっかりと自覚しなければなりません。「いざとなれば、誰かが何とかしてくれる」という妄想を捨て、自分自身がどうありたいのかを常に考えることです。そして「自分の死」という命題に正面から向き合い、自らが希望と権利を主張して行動を起こした時にはじめて、死の瞬間まで心豊かに生き抜くことができます。
次回は、3月16日(金)更新予定です。
もう1つは、「住み慣れたわが家で、誇りと尊厳を失わずに、生活の延長線上で最期を迎えたい」という希望を叶えるために、さまざまな角度からしっかりと準備を行う、主体性をもった積極的な在宅の選択です。これら2つの間にある意識の差が、人生の締めくくりにおける満足度の差として現われます。
人は必ず死にます。「死」は他人事ではなく、自分自身の問題であるということを私たちはしっかりと自覚しなければなりません。「いざとなれば、誰かが何とかしてくれる」という妄想を捨て、自分自身がどうありたいのかを常に考えることです。そして「自分の死」という命題に正面から向き合い、自らが希望と権利を主張して行動を起こした時にはじめて、死の瞬間まで心豊かに生き抜くことができます。
次回は、3月16日(金)更新予定です。