道なき道をゆく! オルタナコンサルがめざす 強度行動障害の標準的支援 第10回 児童期の予防的支援の大切さ②――本質
2025/07/11

この記事を監修した人

竹矢 恒(たけや・わたる)
一般社団法人あんぷ 代表 社会福祉法人で長年、障害のある方(主に自閉スペクトラム症)の支援に従事。厚生労働省「強度行動障害支援者養成研修」のプログラム作成にも携わる。2024年3月に一般社団法人あんぷを設立し、支援に困っている事業所へのコンサルテーションや、強度行動障害・虐待防止などの研修を主な活動領域とする。強度行動障害のある人々を取り巻く業界に、新たな価値や仕事を創出するべく、新しい道を切り拓いている。
前回の連載では、「強度行動障害」のある方への支援について、予防的なかかわりがいかに大切か、特に児童期の段階での予防的支援がどれほど重要かということをお伝えしました。
では、“児童期”というその大切な時間を、どのように過ごしていくのがよいのでしょうか。
今回は、その大切な時期である児童期の望ましい過ごし方や、子どもの発達にとって環境や支援がもつ意味に焦点を当てて考えていきたいと思います。
もう中学生……
まずは、私にとって、とても苦い、そして忘れられない経験からお話ししたいと思います。私が短期入所事業の管理者をしていた頃の出来事です。
その施設を幼少期から利用していたA君。彼には、重度の知的障害があり、自閉スペクトラム症の特性も強く現れているお子さんでした。とても甘えん坊で人懐っこく、何より“抱っこ”が大好き。時折、激しいパニックを起こすこともありましたが、不思議なほど、抱っこをするとすぐに落ち着きを取り戻していました。
そんなA君が15歳になったある日のこと。その日も、いつものように支援員のBさんに抱っこをせがみました。Bさんは、A君の幼少期からずっと支援に携わってきた方です。ですがその日はこう言ったのです。
「もう中学生なんだから、抱っこは卒業ね」。
その言葉とともに、抱っこをやんわりと拒否しました。確かに当時15歳のA君のからだは、成長して大きくなっており、物理的に抱きかかえることは難しくなっていました。けれどもA君にとってその言葉は、突然すぎる変化だったのかもしれません。
次の瞬間、大きなパニックが起こり、A君はBさんに大けがを負わせてしまったのです。
自問自答が尽きません
最近、強度行動障害の状態にある方の児童期の支援をテーマにした研修のご依頼をいただく機会が増えてきました。資料を作りながら、私はいつもA君のことを思い出します。
「どこに失敗があったのだろうか?」
「これは本当に“失敗”だったのか?」
「どうすれば、あの出来事を防ぐことができたのか?」
「そもそも、どの時点に立ち返ればよかったのか?」
考えれば考えるほど、自問自答は尽きません。あの日のA君の表情、Bさんの驚きと痛み、そして私自身の無力感が、蘇ります。
抱っこをテーマにしたわけ
この事例を通して、「抱っこをすることがいけない」と言いたいわけではありません。むしろ、A君にとっては“抱っこされること”が安心できて落ち着ける環境の一つであり、支援する側にとっても大切な支援だったと、今でも感じています。
私がここでお伝えしたいのは、あくまで自分自身の経験から得た教訓であり、同じように現場で悩みながら支援に取り組んでおられる皆さんと、その学びを共有したいという思いが強いのです。
ですので、今、児童期の支援に尽力されている皆さんの実践を否定する意図は一切ありません。むしろ、日々現場で支援を続けておられる皆さんに、心からの敬意を表し、私の失敗談を共有させていただきます。
いったい、何が問題だったのか?
ここで、A君の事例をもう少し深く掘り下げて考えてみます。
「抱っこをすることがいけなかったのか?」と問われれば、私はそうは思いません。むしろ、幼少期のA君にとっては、“抱っこをされること”が安心感を得るために大切な支援だったのだと思います。
けれど、15歳になったA君に対しても同じ支援が適切だったのか、と考えると……、正直、「う~ん」と悩んでしまうところがあります。
たとえば、5歳のときに“適切”とされていた支援が、15歳になった時点では“適切ではない”ものになってしまう。言い換えると、幼少期に学習した行動やかかわりが、年齢を重ねたときに、「強度行動障害の状態」につながってしまう可能性があるということです。
多くの行動は学習されたもの
前提としてお伝えしたいのは、「強度行動障害」とされる行動の多くは、本人の内在的な問題だけではなく、さまざまな“環境とのかかわり”のなかで学習された行動である、ということです。まずは、何よりその視点に立つことが大切です。
つまり、強度行動障害の背景には、くり返されてきた“間違った学習”や“不適切なかかわり”が積み重なっている場合が少なくないのです。それは本人が悪いのではなく、その人が生きてきた環境の中で、必要に迫られて身につけてしまった行動なのだと認識する必要があります。
この視点に立つと、「行動障害そのものを“治す”」という発想よりも、いかに“誤学習”を防ぐか、どのように“適切な学習機会”を積み重ねていくかという視点が、より重要になってくるはずです。
A君が僕に教えてくれたこと
A君に話を戻しましょう。私自身、このA君の事例を通じて、強く反省したことがあります。
そして同時に、「こうしておけばよかったのでは」と感じたことを、支援に携わる皆さんと共有したいと思います。
まず、「抱っこ」についてです。もし、A君が5歳の時点で、「この子が15歳になったときのこと」を具体的に想像できていたら、「抱っこをすれば落ち着く」という支援をそのまま続けてはいなかったと思います。
つまり、年齢を重ねたときに継続できない支援であれば、できるだけ早い段階から別の形に移行する準備を始めるべきだったのです。当時の私は、“今、この場をどう乗り切るか”に意識が向いてしまっていて、将来を見据えた視点を持ちきれていませんでした。
強度行動障害の多くが“学習された行動”であるという前提に立つならば、その誤った学習を防ぐ環境を整えることこそが、予防的支援の本質なのだということにあらためて気づかされます。
つまり、予防的な環境の中で、適切な学習経験を積み重ねていくことが、その人の将来の状態像を大きく左右する。この視点を、私たち支援する側は、もっと意識的に支援の設計に取り入れていく必要があったのだと、A君とのかかわりから強く学びました。
そもそも地域連携体制の課題では?
こうした話をすると、「それは愛着の問題では?」という声が聞かれることがあります。
確かに、愛着形成の支援は、子どもの発達において非常に重要な要素のひとつです。そして、情緒の安定や信頼関係の構築にも深く影響します。
ですが、ここでいったん立ち止まって考えてみたいのです。愛着形成を担うべき存在は、果たして支援員や教師なのでしょうか? もちろん、日々かかわる中で信頼関係を築くことは支援の一環として大切です。ですが、本来の愛着形成は、家庭の中で、家族との関係の中で築かれていくものです。
つまり、家族が安心して子どもと向き合い、安定した関係を築いていけるように、私たち支援者が家族を支えていくことこそが、愛着支援の本質だと思います。愛着の問題を、支援現場だけで引き受けるのではなく、地域の中で、福祉・医療・教育・行政が連携して、家族を支えていく仕組みが必要だと思うのです。
今回は、児童期における予防的支援について、A君の事例を交えながら考えてきました。お伝えしたかったのは、予防的支援とは単に「適切な環境を整えること」や「学習の機会を与えること」にとどまらない、ということです。
何より大切なのは、誤った学習が起こらないような“環境づくり”そのものです。
そしてその環境とは、一つの事業所や一人の支援者だけで築けるものではなく、福祉・医療・教育・行政が地域の中で手を取り合い、連携しながら育てていくものだと、私は考えています。
今回は少しマクロな視点で児童期の予防的支援を見つめ直してみました。次回は、具体的な支援の工夫や日々のかかわりのなかでできる「ミクロな支援」の話をしてみたいと思います。