道なき道をゆく! オルタナコンサルがめざす 強度行動障害の標準的支援 第9回 児童期の予防的支援の大切さ①

2025/06/25

この記事を監修した人

竹矢 恒(たけや・わたる)

一般社団法人あんぷ 代表 社会福祉法人で長年、障害のある方(主に自閉スペクトラム症)の支援に従事。厚生労働省「強度行動障害支援者養成研修」のプログラム作成にも携わる。2024年3月に一般社団法人あんぷを設立し、支援に困っている事業所へのコンサルテーションや、強度行動障害・虐待防止などの研修を主な活動領域とする。強度行動障害のある人々を取り巻く業界に、新たな価値や仕事を創出するべく、新しい道を切り拓いている。


 今回も、前回に引き続き「児童期の予防的支援の大切さ」について考えてみます。


それはどこで出会ったの?

 以前にもこの連載でふれているように、「強度行動障害」とは、状態を示している概念であり、対象となる人が生来もっている障害ではありません。「最初からもっているものではない」のであれば、いったいどこで出会ってしまったのでしょうか? 
 今回は、それをテーマにしてみたいと思います。


「生きてきた分だけ増えた世界が作る迷路」

 突然ですが、私は、BUMP OF CHICKENの曲をよく聴いています。「生きてきた分だけ増えた世界が作る迷路」——ある曲の歌詞にこんな印象的なフレーズがあります。この曲を聴くと、いつも自閉スペクトラム症の人のことを考えてしまいます。

 

 成長とは、本来、できることが増え、選択肢が豊かになり、その世界が広がっていくことではないでしょうか。しかし、自閉スペクトラム症の人にとっては、その「広がった世界」が必ずしも歓迎すべき世界の広がりとは違うのではないかと感じています。

 

 音や光、時間の変化、曖昧な言葉、人間関係の複雑さ──世界を構成するさまざまな要素――は、次第に本人の理解や予測の範疇を超えて複雑な「迷路」になっていきます。そして、その迷路の中で、混乱や不安が積み重なると、やがて「行動」として現実世界に表出し、私たちはその瞬間を目撃しているのだと気づきます。

 

 強度行動障害という言葉に向き合うとき、私たちは「課題となる行動」だけを見るのではなく、その背後にある世界との関係の難しさに目を向ける必要があります。「その世界と、いつ・どこで出会ったの?」――そんな難しい問いを立てることが、私たち支援者に求められているのかもしれません。


生理的要因の行動とコミュニケーションに関連する行動とは?

 BUMP OF CHICKENにだいぶ引っ張られましたね。失礼しました。では、「その世界といつ・どこで出会ったの?」を考えてみたいと思います。

 

 その前に、少し視点を変えてみましょう。

 

 強度行動障害と呼ばれる行動にはさまざまなものがありますが、ここでは2つのタイプに分けて考えてみます。ひとつは、睡眠などの生理的な要因が関係していると考えられる行動。もうひとつは、自傷・他害・破壊行為など、コミュニケーションの困難さに起因しているとみられる行動です。
 

 鳥取大学の井上雅彦先生は、強度行動障害のある人々のライフステージに注目し、「どのような行動が、どの時期に出現しやすいか」についての研究を行っています。その研究では、本人の保護者への聞き取り調査などをもとに、行動の種類と発出年齢の傾向が整理されています。

 

 井上先生の研究によれば、
・乳幼児期(0〜2歳頃)には、極度の多動や重度の睡眠障害といった“生理的な行動の困難さ”が目立っていた一方で、
・学齢期以降になると、自傷・他害・破壊行動といった“対人関係やコミュニケーションに関連する行動”が強く出てくる傾向がある
と報告されています。

 

 このように、行動のタイプによって「いつ・どんなふうに」困難が表出するかには違いがあり、早期からの適切な理解と支援が重要であることを示唆しています。

  ※参考:井上雅彦(2015)「強度行動障害を伴う知的障害者のライフステージにおける支援の実際」『知的障害研究』52巻,2号,p.97-108


私たちは「迷路」をどうとらえればいいのか?

 さて、このことから何がわかるのでしょうか?


 自傷や他害が、対人関係やコミュニケーションに由来する行動なのだと仮定すれば、この対人関係やコミュニケーションが本人にとって複雑化していくことが、強度行動障害の発出点なのかもしれません。まさに「生きてきた分だけ増えた世界が作る迷路」だと思いませんか?

 

 私たちはこの「迷路」をどのようにとらえ、どのように支援することが正しいのでしょうか?


 おそらく、その答えにはなり得ませんが、いつも私が大切にしている視点があります。それは、「行動」そのものを問題として見る前に、その行動が語っている“背景”に耳を傾けることです。

 

 自傷や他害といった行動も、それが「痛み」や「怒り」などではなく、「伝えたい」「逃げたい」「わかってほしい」といった至極まっとうな表出であるのなら、私たちが目指すべきは、それを抑えることではありません。むしろ、別のかたちで“伝えられる方法”を育てていくことこそが、支援の本質なのだと思うのです。


児童期はとても貴重なひととき

 児童期は、その“迷路”がまだ複雑になりすぎる前の、とてもとても大切な時間です。本人が世界とかかわる「回路」を、安心するなかで少しずつ育てていくことができる貴重な機会です。世界がどんどん複雑になり、彼らの理解できる範囲を超えて殺伐とした世界に変わってしまうその前に、私たちにできることは、きっとたくさんあります。

 

 つまり、“予防的なかかわり”こそが、将来の強度行動障害を未然に防ぐ鍵であり、そもそも「強度行動障害という状態」に陥らせないための、もっとも本質的な手段なのです。


支援ニーズが高いからこそサービスに結びつかない現実

 生活介護事業所や障害者支援施設(入所施設)などで働いていると、支援の限界や理不尽さを前に、無力感に包まれるような瞬間があります。

 

 たとえば、強度行動障害の状態にある方の利用を、やむを得ずお断りしなければならない場面です。自分の過去の経験でも、支援員の配置、個室の確保、日中活動スペースの制約など、さまざまな理由から、利用をお引き受けできなかったことが何度もありました。

 

 そんなとき、いつも思います。


 最も支援が必要な強度行動障害の状態そのものが、支援の機会を閉ざしてしまっているのです。強度行動障害という深刻なニーズがあるにもかかわらず、それゆえにサービスを利用できない。この構造的な矛盾こそが、支援の限界や理不尽さを強く突きつけ、私たち支援者に深い無力感をもたらしています。


だから児童期の予防が大切なんだ!っていう話

 とても難しい課題です。


 支援員の配置や個室の確保など、制度や環境を整えることで解決できる可能性のある課題もあります。しかし、現実的に見れば、それは簡単なことではありません。

 

 では、もしひとつでも乗り越えられる可能性があるとすれば……。それは、そもそも「強度行動障害の状態」に至る前に予防的な支援を行うことではないでしょうか。「迷路」が複雑になるその前に、そしてその中で迷い続けることが当たり前になってしまうその前に、私たちが届けることができる「手立て」は、きっと存在しています。

 

 それは、決して特別な支援技術だけを意味するわけではありません。むしろ大切なのは、子どもたちの困りごとに丁寧に耳を傾け、予測と安心を届け、彼らの中にわかりやすい世界を創っていく。そんな支援の積み重ねが、未来の強度行動障害を防ぐ大きな力になると思います。

 

 今回は少し抽象的な話になりましたね。次回は、少し具体的に「予防」について考えてみたいと思います。