道なき道をゆく! オルタナコンサルがめざす 強度行動障害の標準的支援 第3回 障害とは何か? その本質を考える(その1)

2025/03/27

この記事を監修した人

竹矢 恒(たけや・わたる)

一般社団法人あんぷ 代表 社会福祉法人で長年、障害のある方(主に自閉スペクトラム症)の支援に従事。厚生労働省「強度行動障害支援者養成研修」のプログラム作成にも携わる。2024年3月に一般社団法人あんぷを設立し、支援に困っている事業所へのコンサルテーションや、強度行動障害・虐待防止などの研修を主な活動領域とする。強度行動障害のある人々を取り巻く業界に、新たな価値や仕事を創出するべく、新しい道を切り拓いている。


 突然ですが、みなさんは、「障害」という言葉を聞いて、どんなことを想像するでしょうか?「できないことが多い」「特別な支援が必要」「普通ではない言動や行動をする」……。もしかしたら、そんなふうに考えている方もいらっしゃるかもしれません。

 

 でも、そもそも「障害」とは何なのでしょう? 

 

 今回のテーマは、これです。当たり前の話を、当たり前に整理する時間にしたいと勝手に考えています。では、一緒に考えていきましょう。

 

障害は優劣ではなく単なる違いである

 ウィクスラー検査(WAIS・WISC・WPPSI)は、知能(IQ)を測るための心理検査です。そのなかに「リンゴとバナナの共通点は?」のような質問が登場します。さて、これは何を問うているのでしょうか?

 

 おそらく、その回答の大半は「果物である」だと推察します。ただ、果物だと答える一方で、ごくまれに「ゴリラが好きな食べもの」や「皮をむいたら中身が白い」と答える人もいるかもしれません。実は、ここに障害の本質が隠されています。

 

 もちろん、この質問だけで知能(IQ)が測定されるわけではありませんが、この質問だけを切り取れば、「果物である」以外の回答者のIQは、「果物である」の回答に対して低く出ることになります。ちなみに知的障害の定義の一つは、「IQが70以下」ということになっています。雑に表現するのであれば、「果物である」と答えた人は健常者で、それ以外の回答をした人は障害者ということにもなります。ずいぶん乱暴に書きましたが、気を取り直して、大切なのはここからです。

 

 さて、みなさんに伺います。
 「果物である」という回答は正しいとして、「ゴリラが好きな食べもの」や「皮をむいたら中身が白い」は間違いでしょうか? 「果物である」という回答に対して劣っているのでしょうか? 
おそらく、間違っているわけではありませんし、もちろん劣っているわけでもありません。ここまで説明するとこの質問が何を問うているのかが、ご理解いただけると思います。

 

 つまり、障害の有無は、優劣といった価値の問題ではなく、大多数に対する単なる「違い」に過ぎません。「優劣ではなく、単なる違いである」というシンプルな地点から、支援はスタートされるべきだと私は考えています。

 

 

当たり前のことを当たり前に考えてみる

 さて、みなさん、少し想像してみてください。
 例えば、下肢に欠損のある方がいたとします。その方に「歩いてこっちに来てください」とは誰も言いませんよね? 同様に上肢に欠損のある方にペンを渡して、「ここに名前を書いてください」なども言いません。

 

 これ、ある意味、当たり前です。
 では、知的障害のある方に対してどんな応対をしているでしょうか?

 

 例えば、公共の場所で大声を出してしまう人、何度も何度もくり返し同じことを確認してくる人。知的障害者の施設に従事している支援者であれば、割と日常的に目にする光景ではないでしょうか。その場合、ついつい「静かにしてください」とか、「さっき言いました!」と強めの応対をしていませんか? かくいう私も、ついついそんな応対をしがちだったりします。

 

 でも、冷静に考えると、その「静かにしてください」や「さっき言いました!」という応対は、「普通になってください」とか、「言葉を理解してください」と、同じ意味になると考えられませんか?

 

 下肢に欠損のある方に「歩いてこっちに来てください」や、上肢に欠損のある方にペンを渡して「ここに名前を書いてください」と何が違うのでしょう? 普通に振る舞うのが難しい人たちに「普通になってください」と問いかける行為は、決して当たり前の応対ではないということに気づくべきだと思います。

 

無意識のバイアスが社会的障壁をつくる

 障害を優劣でとらえてしまう無意識の言動・偏見(「アンコンシャスバイアス」ともいいます)は、時に障害者に対する社会的な差別や障壁を生んでしまうのではないかとずっと心配しています。劣っているものを優れているものに合わせようとするバイアスは、時に人の気持ちをネガティブなところに追いやるのだと思います。

 

 なぜなら、その対象となる人にとっては、自分の意思に関係なく頑張ってもできないことにチャレンジさせられ、しかも困っていることの理解もしてもらえないのですから、ネガティブになるのは当たり前です。

 

 そのネガティブな体験は、やがて本人の「あきらめ」などのモチベーションの低下や、場合によっては強力な抵抗感につながります。彼らが困っている姿は、大多数からすれば、「社会を困らせている行動」に見えるかもしれません。そして、困らせているように誤解される言動をくり返すのですから、社会的な無理解は、進むわけです。さらにそれが進めば、もっと困った人に見えてくるのも必然のように感じます。そうやって社会の壁は高くなってしまうのでしょう。

 

 強度行動障害の状態になる方々の支援に越えるべき壁があるとするならば、障害を優劣でとらえてしまうバイアスと、そこから派生する社会的な無理解ではないでしょうか?
これらは、今もなお、無視できない壁として支援者の前に立ちはだかっています。

 

 さて、高い壁の前で私たちは、何を考えて、何をしたらいいのでしょうか?
 いったい支援とは何でしょう? そして、ゴールはどこなのでしょうか?

 

 次回は、「支援のゴール」についてまとめてみたいと思います。