【vol.2】彼女はまるで猫 | 私はミューズとゼウスのケアラーです
2025/04/09

韓国の介護現場で働く作家が送るケア文学
激しいスピードで高齢化が進む隣国で、 ケアの最前線に立つ作家による、初の日本語エッセイ連載スタート!! 昼は介護の仕事をして夜は文章を書く、作家イ・ウンジュの連載が始まります。日本の介護福祉士にあたる、「療養保護士」という韓国の介護の国家資格を持つイ・ウンジュさんは、自身もケアの現場に立ちながら、ケアに関する文章を韓国語で発表する数少ない作家です。
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そんなイ・ウンジュさんは韓国で、ケアについてのエッセイ三部作(『私は神々の療養保護士です』『こんなに泣いて疲れたでしょう』『東京因縁』)を出版して話題を集め、2023年には母親の在宅療養保護の経験を盛り込んだ『ケアの温度』を刊行しました。ケア三部作の『私は神々の療養保護士です』では、療養保護士として歩んだ療養院での日々から訪問介護に至るまでの道のりについて、『ケアの温度』では、誰かをケアする時の適切な距離感・温度感とレジリエンスについて、やさしい筆致で綴っています。この連載では、イさんの目に映った韓国の介護現場から、「ミューズとゼウス」のためのケアについて考えます。
3分おきにトイレに行く彼女は、「ミューズ・“ジュリエット・ビノシュ”」。徘徊、そしてまた、徘徊。歩き方も忘れたのか、つま先だけで歩くからすごく危なそうだ。仕方なく彼女の手を握って一緒に歩き回るしかない。
そろそろ立ち止まる頃なのにまったく座ろうとしない。しばらく座ると、再び飛び起きている。私は他の用事を済まし、冷蔵庫のドアを開けて、もしあればミューズたちのおやつを取り出して食べる。彼女のちょっとした動きにも驚いて、トイレに付き添い、徘徊する後を追いかける。不安が生じる。
夜も更けているのに、ミューズはまったく寝付けない。私は自分に注文をつけた。
「絶対に私が主体となる時間を過ごしてはならない」
しかし、すぐに失敗してしまう。
仕方なくラジオをつける。私は、難しかったその注文を捨ててしまう。
「まず、私が幸せにならないと」
私はバナナを食べ始める。「ミューズ・“ジュリエット・ビノシュ”」に一つ、私に一つ。二人でなるべく楽しい時間を過ごすことにした。
就寝薬はもうずいぶん前に飲んだのに、全然眠そうに見えない。看護師さんに就寝薬が全く効かないと報告したが、「強い薬を使うと、かえってベッドから起き上がった時に倒れる危険があるので、もう少し様子を見ましょう」という返事が返ってきた。それなら、夜明けまで一緒に歩くしかない。
くるくる歩いては目まいがして、すぐに息が詰まりそうな私は知恵を絞る。
若い時におしゃれが好きだったという彼女に口紅を塗ってあげる。手鏡をお見せすると、身づくろいを直す。ローションをたっぷり手にあげると、彼女は両頬にポンポンとつけた。化粧を終えた「ミューズ・“ジュリエット・ビノシュ”」の目が笑っている。薄い唇には笑みが広がる。
手鏡に彼女の顔と私の顔が浮かんでいる。私たちは鏡の中の自分たちに笑っていた。
こんなに簡単なことを私はなぜ今になって発見したのだろう。明日はもっときれいな色の口紅を持ってきて、夜のおめかしをしよう。
「さっきはイライラしてごめんなさい。そんな風にずっと歩き続けては膝が痛みます。体はきっと疲れていることでしょう」
私はもう一度自分に注文をつける。
「完璧を目指さなくていいから、 絶対に怒らないように」
たとえ私のミューズが便器の水を手でかき回していても、入浴介助する私に垢のついた爪で傷をつけても、ゆるくなった入れ歯のすき間からだらだら流れたよだれが私のズボンの上を濡らしても、彼女はまるで猫のような、私のミューズ。
著者紹介
イ・ウンジュ 이은주
1969 年生、作家、翻訳家。日本に留学し、1998 年に日本大学芸術学部文芸学科を卒業。20 代から翻訳家になることを夢見て、家庭教師として働きながら翻訳した『ウラ読みドストエフスキー』(清水正)で夢をかなえる。その後も仁川国際空港の免税店で働きながら、休憩時 間は搭乗口 31 番ゲートで訳し、仁川への通勤電車でも訳し続け、『船に乗れ!』(藤谷治)、 『人生で大事なことはみんなゴリラから教わった』(山極寿一)をはじめ、十数冊もの日本書籍を韓国に広める。おばあちゃんっ子だったイさんは祖母の逝去をきっかけに、高齢者施設でボランティア活動を始め、その後療養保護士の資格を取得。昨年からは認知症になった実母の介護を行う。「ケア」と「分かち合い」について、文学の一形態として追及してみたいという気持ちから、高齢者のケア現場についてのエッセイを三部作で発表し、韓国で共感を呼ぶ。現在、