死をことほぐ社会へ向けて 第5回

2025/04/04

健康第一より生活第一 ……健康は生活の一部に過ぎない

誰にもいずれ「死」は訪れる。多死社会を迎えた現在の日本において、いずれくる「死」をどのように考え、どのように受け止め、そして迎えるか。医療、介護・ケアの問題とあわせて、みなさんも一緒に考えてみませんか。


名郷 直樹(なごう なおき)
武蔵国分寺公園クリニック名誉院長

1961年、名古屋市生まれ。自治医科大学卒業。へき地医療に従事した後、2011年に西国分寺で「武蔵国分寺公園クリニック」を開業。2021年に院長を退き、現在は特別養護老人ホームの配置医として週休5日の生活。
著書に『いずれくる死にそなえない』(生活の医療社)、『これからの「お看取り」を考える本』(丸善出版)など。
人生の困難さに対処する方法を、YouTube(名郷直樹の診察室では言いにくいこと)で発信中。

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不思議な「健康第一」社会

 「健康第一」はあちこちで聞かれるフレーズだ。しかし「生活第一」というのはあまり聞いたことがない。このことは、私たちがどんな社会で生きているのかを端的に表しているような気がする。「生活より健康」という社会である。考えてみればこれは不思議なことだ。健康を重視するのは、日々の生活を維持、改善し、快適に生きるためであって、健康のために生活が困難になっては、何のための健康かよくわからなくなってくる。健康はあくまで生活の一部であるにも関わらず、健康を優先する社会がある。
 現実を見ればさらに明らかだ。テレビのコマーシャルでは、糖や脂肪が何か悪のように取り上げられる。本当は食べたいんだけど、我慢しなければ・・・、そんなふうに思う人も多いだろう。罪悪感を持ちながら、ロースかつ定食を食べる、チャーシュー麺を食べるというような現実である。食事の楽しさが半減する。我慢という日々の苦労もある。
 また別の現実もある。アルコールのコマーシャルである。糖質ゼロのビールのコマーシャルが多くあるが、見ていて意味がわからない。糖質とアルコールのどちらが健康に対して問題を引き起こすかと言えば、アルコールに決まっている。アルコール依存症、飲酒運転という大きな問題もある。アルコールを飲まなくても健康でいられるし、むしろその方が健康である。反対に、糖をとらなければ低血糖になってしまう。「健康第一」は物を売るための手段に過ぎなくなっている。実は健康には良くない物をあたかも良い物のように宣伝する、健康よりも物を売ることを優先する社会である。物が売れることを優先する社会もまた生活を破壊する。「生活第一」より「お金第一」という現実だ。健康のために糖質ゼロのビールを飲む、まったくばかげている。そんなバカげたコマーシャルを見て、なるほどと思うねじれた社会である。
 私自身の経験でも印象に強く残る患者がいる。糖尿病を長く患う患者が亡くなった後の妻の一言である。「タバコ吸ったらダメ、これ食べちゃダメ、飲んじゃダメ、そんなことばっかり言ってきたけど、最期にタバコの1本でも、好きなラーメンでも食べさせてあげればよかった」と言って涙ぐんでいる。
 ただ逆のこともある。ファッションモデルには健康を害するレベルまで痩せている人が多い。女性のマラソン選手では生理がなくなる人が多いとも聞く。これは生活のために健康が犠牲になっている。この場合は、生活というより人生といったほうがいいかもしれないが、健康と日々の生活・人生には相反する部分がある。極端な健康志向、極端な生活・人生優先はどちらも不幸である。

 

介護・ケアが支える「生活第一」への転換

 生活ばかりを重視していて健康を害すれば、快適な生活が困難になる。しかし、行き過ぎた健康志向は生活を犠牲にする。ただ世の中の現状は、健康ばかりを心配して、健康志向が行き過ぎているように感じる。介護・ケアが必要な現場では、より「生活第一」にした方が快適であると思うのだが、「健康第一」が主流の世の中は、介護・ケアの現場にも侵入し、介護・ケアが必要な人に対しても、医療に対する過剰な期待と依存、介護・ケアに対する無関心、拒否を生み出している。
 本題にたどり着いたところで紙面が尽きてしまった。とりあえず結論だけ述べておこう。介護・ケアの軽視や拒否は、介護・ケアの不十分さだけが原因ではない。その不十分さも個々の介護・ケア提供者の問題というより、介護・ケア提供のシステム、社会の問題である。介護・ケアの現場で、まず「生活第一」を目指そう。さらには社会全体が、「健康第一」から「生活第一」へと移行していくことにつなげていこう。そしてそのために、少なくとも高齢社会になればなるほど、医療より介護・ケアの方がはるかに役立つということを、世に向けて訴えていくことが重要だ。