認知がある
認知症の略称として「認知」と使われることがある。このことについて改めて考察してみたい。
先週のブログ記事にコメントを寄せてくださった“パートナーは認知症さん”から、「認知が入る」というのは業界用語なのかとお問い合わせをいただいたが、それが業界用語かどうかは別として、認知症を認知と略して使う人が多い。
以前にもブログで、認知と略して言うことにコメントを出したが、僕はそれには疑問だらけである。
まずは、改めて「認知」について調べてみたい。
『大辞泉』では
(1)ある事柄をはっきりと認めること。
(2)婚姻関係にない男女の間に生まれた子について、その父または母が自分の子であると認め、法律上の親子関係を発生させること。
(3)心理学で、知識を得る働き、すなわち知覚・記憶・推論・問題解決などの知的活動を総称する。
とある。
また、インターネット上の百科事典『ウィキペディア』では
(1)心理学等で、人間などが外科医にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする課程のこと。
(2)法概念としては、摘出でない子について、その父または母が血縁上の親子関係の存在を認める旨の概念の表示をすること。
とある。同時にウィキペディアでは「一般社会において認知症の略称として認知という言葉が使われる」ともあったが、それは使われている状況を表しているだけのことなので「意味」とは別物である。
「認知症とは」についていえば、介護保険法第五条の二に「認知症(脳血管疾患、アルツハイマー病その他の要因に基づく脳の器質的な変化により日常生活に支障が生じる程度にまで記憶機能及びその他の認知機能が低下した状態をいう。)」とある。
これらを照合すれば一目瞭然である。
誰にも認知する能力があるという点からいえば「認知がある」のは普通のことであり、疾患等によって普通の状態を脅かされている認知症の状態にあるのとは真逆である。
特別養護老人ホームを「とくよう・とくろう」、サービス付き高齢者住宅を「さこじゅう」、ケアマネジャーを「けあまね」、サービス提供責任者を「させき」など、何でもかんでも略して言いがちなのはどこの業界でも同じだろうが、認知症を認知と略すのは正しくない。
そればかりか「にんちがある」という言い方に偏見を感じるのは僕だけだろうか。
しかも、そういう正しくない略称の向こう側で、婆さんの言動の理由を探ることもなく、脳が壊れるとはどういうことかを考えることもなく、自分が環境不適応を招いていることに気づくこともなく、「行動異常」「周辺症状」「問題行動」といった非人間的言葉をまことしやかに語っている業界だけに、なおさら「にんちがある」という言い方には、ひとことふたことみこと言いたくなる。
認知症という状態にある人のことを総称として「婆さん」と呼び・書いている和田の言うことだから説得力はないかもしれないが、不本意にも認知症という状態になりながら、それでも人としての人生を全うしようとする人に対して敬意をもってすれば、認知症という状態になっていることを「(正しくない)にんちがある」とは略せないはずである。
「認知症=認知がある」は、良いとか悪いとか、好きとか嫌いとかの問題ではなく、正しくないのだ。正しくない呼称を人に対して使っているということである。
わけがあって行動しているにもかかわらず徘徊者のレッテルをはり、いやなことをされたら嫌がる・怒るのは当たり前なのに介護に抵抗するとか、暴言・暴力と被害者を加害者にして平気な顔をしているこの業界を正していく、認知症を正しく理解することの第一歩は「正しく認知症と語ることにある」と僕は考えている。
使っている人はご一考を。
コメント
認知症⇒にんちがある
この事について、確かに違和感があります。
かなり『にんち』という言葉を使っている人が多い印象です。
最近出合った人で、アルツハイマーのことを『あの人アルツだから』と言っている人に出会い、最初相手が言っていることが分からず私の思考はしばらく『???』でした。
・・・何でも略しすぎですし、差別用語にも感じてしまいます・・・
確かに、「認知」と略して使用する場面はありますね!自身も反省すべき点と痛感しました。
略する事で意味が違ってくること、話する側も安易に言っていたと反省ばかりです。
誰もがなりたくて、なるわけじゃありませんからね!
本当に改めて職員に伝えようと思います。
ありがとうございました。
確かに、自分では気づかず、失礼な事を言っておりますし、何気ない日常の会話でも聞いて、普通に聞いていた事を、恥ずかしく思います。
意味も理解せず、使っている言葉もある。
反省です。
和田先生ありがとうございます。
ただ、ただ反省。
言葉の意味や重みもわからないで、使っている言葉。そんな自分が怖いです。
「あの人認知があるので・・・」よく聞きます。私も以前からずっと思っていました。担当者会議で然り、新規利用者の紹介時に然り、認知症ケアの研修でのグループワークの席で然り、実によく聞く言葉です。特にケアマネジャーの方が良くお使いになられます。果ては、市の高齢者福祉課の課長さんまでお使いになられます。ずっと違和感を持っていました。
何だかすっとしました。言葉の問題だけでなく、認知症を理解することに更なる努力をしたいと思います。今週末、我が家での勉強会で改めてみんなと確認しあいたいものです。
ありがとうございました。
ふと感じる私の疑問を取り上げてくださって、ありがとうございました。
「認知症」と言わないで「認知がある」や「認知が入っている」といわれると、自分は、認知症については「通」で、「認知症」を一般の疾病とは差別している
という意識を感じてしまいます。
仕事として、認知症の人を扱うのに慣れてくると、
正式名称では面倒で、略して「認知」というようなるのかもしれません。
「パートナーは認知症」さん。
>仕事として、認知症の人を扱うのに慣れてくると
この「慣れてくる」という意味も『適当にあしらうのが上手くなってくる』という方々でしょうね。
本当の意味で認知症について学んで、適切な対応を考えている者なら、絶対に「ニンチ」なんて呼び方は出来ないと思います。
四年前に千葉市認知症指導者の方にも認知症の状態にある人を最近、『認知』という略語が出ると疑問を言ってくれました。
その時、言葉の意味をしっかり理解した上で、使うべきと思いました。
思い返すと色々な言葉を略して言葉の意味合いが変化している思います。
専門用語も安易に使うとその人という人間を伝えられないと思います。
言葉って難しいです。
和田さん。勝手にブログを見て勉強させて頂いています。長文になり申し訳ございませんが、ありがとうございます。
先日は大変勉強させていただきありがとうございました。
認知症を改めて考えたく、検索していたら偶然(運命かな?)和田先生にたどり着きました。
認知とは一般的に「物事を確認し理解する」でしょうか。そのことが十分にできないことを、俗に認知症などというようですね。
物事に対し理解、認識などというのは、疾患の有無に関らずその人の価値観により大きく異なるものであると思います。
その事を多くの方に理解していただくことが、認知症への偏見、「認知症」という言葉の乱用抑止に繋がると私は思います。
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