『ルポ虐待』
杉山春著『ルポ虐待-大阪二児置き去り死事件』(2013年9月、ちくま新書)は、この事件が報じられた当初から私が強い関心を持ってきた(2010年8月12日ブログ参照)虐待ケースを詳細にルポルタージュした労作です。虐待は単純な事象ではなく、複雑に錯綜する発生関連要因によるものであることを丹念に描いています。
この事件が明るみに出た当時、マスコミは「鬼のような母親」と「もっと早く適切に介入すべきだった児童相談所」への非難に彩られることが多かったと記憶しています。虐待に関するマスコミの報道は、虐待行為をした人と監督官庁の責任をヒステリックに血祭りに上げる傾向が未だに続いています。このルポのように、虐待の発生関連要因を丁寧に明らかにしようとする姿勢が脆弱です。
この本は、世間の関心の高い事件であったことと質の高いルポとなっていることから、すでにさまざまなところで書評に取り上げられました。このルポの扱った「大阪二児置き去り死事件」をもって現代の虐待ケースの典型例とは決していいませんが、地域社会と家族の歴史的な変容を背景に発生する今日の虐待を考える上で、まことに読み応えのある書でした。多くの皆さんに一読することをおすすめします。
さて、このルポからこの虐待事案について考えさせられたのは次の2点です。
まず、この虐待ケースは、あらゆる発生関連要因のほぼすべてが出そろっていることです。もう一つは、市町村や児童相談所が介入するための情報や契機に著しい難しさのあったケースだという点です。
では、虐待の発生関連要因のデパートのような点について。不適切な養育・虐待の世代間継承、離婚、シングルマザー、貧困、風俗、解離性スペクトラム、アディクション等のすべてが登場します。
この事件を引き起こした母親の幼少期は、自身の母親から不適切な養育を受けて「死んだ魚のような眼」(「凍てついた凝視」のことでしょう)をしていました。安心と信頼にあふれた両親とのアタッチメントが形成されないまま、子ども期には妹たちの母親代わりまでしていましたから、この母親自身の子ども期が実質的に剥奪されていたということになるでしょう。思春期から顕在化した解離性障害に対しては、少年院の鑑別による問題指摘がありながら、誰一人適切な理解と対応をしなかったことが、それ以降の困難を拡大しました。そして、自らの空虚さを埋めるような異性関係へのアディクションと不安定な結婚、自分の弱さや脆さに「助けて」と言えなくした周囲と時代の価値観など。
これらの背後には、地域社会と家族の変容があることを提示しています。
現代は地域社会が教育力を喪失し、学校だけが次世代を社会化し職業に振り分ける装置となり、学校への不適応がすなわち社会への不適応となるような「生きづらさ」を今日の子どもたちは抱え込まされています。この母親もその一人でした。
この母親の父は、県の最底辺校に位置づけられる高校で、ラグビー部を花園に出場する常連校にまで盛り上げた監督をしていました。ラグビー部を花園に出す父親の活躍は、「産業構造の中で敗者に位置づけられた人たちのルサンチマンを解消する役割を担っていた」(同書100頁)と指摘します。
ラグビー部の指導方針は、敗者になることを許さない価値観を貫いたもので、「頭を空っぽにして、先生に絶対的に従わせる、軍隊的な指導」でした。このラグビー部の卒業生は、不況のさなかでも就職に引く手あまただったと言いますから、「組織の兵隊」よろしく文句一つ言わず耐えて働きぬく人材の養成機関にラグビー部がなっていたのでしょう。まさに、スポーツの部活で軍隊調の指導が正当化される所以ですが、このスピリットが娘の子育てにも貫かれていました。
離婚をして母親一人で子どもたちを育てることになる親族の話し合いは、虐待死亡事件に至る分岐点を構成するものでした。この母親の解離性障害について、関係者はまったく理解してはいませんが、だからといって、日常的な行動と自己のあり方が一定しないこの母親一人に、子どもたちの養育責任を負わせることには無理があると誰も考えなかったのでしょうか。
離婚に伴う養育の問題について、子どもの最善の利益から考えようとした大人は皆無だったのです。それでいて、この母親の裁判の中で元夫の親族は、被害者遺族の立場からこの母親に対する極刑を望むとの意見を陳述するのは、私には釈然としません。
もう一つは、児童相談所などが介入するための情報ときっかけの乏しさについてです。
母親としての弱音を吐けないように親族一同から追い込まれたことに加え、解離性に由来する異性とのアディクションや引っ越しがありました。自分から「助けて」とはほとんど言えないし、住民票が夫婦関係のあった時代の桑名市に置いたままになっていたため、行政機関からのアプローチが行き詰っていました。
児童虐待防止法の施行以降、「野戦病院」と化した児童相談所は詳しい情報のある重症度の高い虐待ケースに走り回っています。受理会議さえ開催できないときまであるのです。ここに、情報の乏しいケースが紛れ込んでも、なかなかそれに労力と時間を割くゆとりは、児童相談所の現実にありません。
このルポには、次のような津崎哲郎さんのインタビューがあります。
「所在不明で児童扶養手当が渡せていないのならば、実家を探して聞く以外ない。(…中略…)行政の虐待防止に関する業務は申請主義ではありません。相手にニーズがなくても動かなければならない。そこが2000年に虐待防止法ができて仕事の質が百八十度変わった点ですが、まだ現場は慣れていません。人や予算の具体的な手立てがない。動ける手立てをもたないと、形だけになってしまいます。」(同書199~200頁)
私見によれば、深刻化する一方の虐待の現実を前に、児童相談所の機能と役割を拡大していくことに反対です。とくに、臨検・捜索の手立てまで児童相談所の役割や権限に入って以来、児童相談所の「福祉警察化」が一段と進むことに伴う副作用も拡大したのではないかと懸念してきました。
強力な権限を持って介入し、子どもを一時保護するような緊急性の高い虐待ケースの初動段階を担う機関を新たに起こし、児童相談所はその機関とは別に親と子を専ら支援するために登場するような形にした方がいい。場合によっては、親の意向に反してまで子どもを一時保護する機関でありながら、次のステージでは「私たちは支援する相談機関です」と同じ顔ぶれで親に接近しても、こう着状態になりがちなのは当たり前ではないでしょうか。
最後に、このルポルタージュは「二児置き去り死事件」を引き起こした母親が、実は「母親であり続けることを望み」、「私は一人では子どもを育てられない」と周囲に伝えることができなかった点に、この虐待事案の一つの重大な発生要因を認めています。ここで、「母親」に強要される子育て役割の性別分業の問題に、シングルマザーをとりまく様々な困難が重なっていたことは間違いありません。
杉山さんは「『母親を降りる』という選択」もまた大切ではなかったか、「少なくとも、母親だけが子育ての責任を負わなくてもいいということが当たり前になれば、大勢の子どもたちが幸せになる」と本書を締めくくっています。この点に私も異論はありません。
ただ、私の子育て経験から言えば、母親であるか父親であるかにかかわらず、「親を降りるという選択」を自己決定することはあり得ないことのように思います。親だけが子育ての全責任を背負いこまされることの不合理とは別に、「親であること」は、当事者にとって、「逃げようのない役割」です。
本来的に完璧な親など誰一人としていないのです。だから、それぞれの人にふさわしい親でありさえすればいいのです。しかし、このことを実現するために必要な子育ての協働や制度的な手立ては圧倒的に貧しいから、「母親を降りる選択」にリアリティのある人はいないでしょう。このことが「もっと完璧な親であろう」と努力させる強迫性となり、親の意図に反した「逆説的な虐待」を発生させているのです。
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