虐待発生の理解と佐村河内ゴーストライター問題
大雪の中、静岡市障害者虐待防止研修に講師として参加してきました。現地は冷たい雨だったのですが、参加者には虐待防止に向けた熱い気持ちと姿勢を感じ取ることができました。
虐待防止の取り組みで、私がもっとも強調するのは次の点です。虐待対応を虐待防止につなげていくためには、問題を虐待者だけの問題に還元せず、丹念な事例検討から複数の発生関連要因を明らかにし、それらに相応しい手立てを講じていくことが必要だということです。ここでは、虐待対応に責任を持つ行政機関(都道府県や児童相談所など)の問題と虐待発生の問題を混同しないことが大切です。
障害者虐待防止法の正式名称が「障害者虐待の防止、障害者の養護者に対する支援等に関する法律」というのは、たとえ養護者が虐待者だとしても「養護者に対する支援」が必要であることを端的に示すものです。つまり、障害のある人に対する虐待の行為者が養護者であっても、養護者を単純に刑事的な「加害者」とするような理解に陥ることなく、どのようにして「虐待」するまでに追い込まれたのかを明らかにすることによって、虐待防止と養護者に対する支援の両方が必要であると法は定めているのです。
施設従事者等による虐待についても、一部の例外を除き(私見によれば、性的虐待)、支援者がなぜ虐待をするまでに追い込まれたかなど、養護者による虐待の場合と同様の視点による検討を深めることができなければ、虐待防止の取り組みにつながることはないでしょう。
このような考え方は、虐待者を免責するためのものではありません。虐待者の責任にのみ還元しようとするアプローチが不合理で間違いだということです。この点で、虐待発生の理解と防止の取り組みは、常に割り切れなさを伴う宿命を負うものだといえるでしょう。
静岡市の研修は、このように「割り切れなさ」がつきまとう虐待防止の取り組みについて、みんなで課題とイメージを共有していく一歩にすることができたのではないかと思います。当日の質問や自治体関係者の受けとめ方からこれを実感しました。
さて、この間、佐村河内守氏のゴーストライター問題が明らかになりました。広島の被爆者や東日本大震災の被災者を含む困難を抱えた人たちに、「被爆2世」「全聾の作曲家」「現代のベートーベン」と謳う人物が「希望」の音楽を作曲していたと受けとめられてきただけに、多くの人が戸惑い、怒りや残念さを抱きました。
佐村河内氏とゴーストライターはなぜ、どのようにして世間を欺く行為を重ねるようになったのかは、問題の個別具体性を明らかにする上で重要だと思います。ただ、虐待防止に資する問題理解と同様に、当事者の個別性の次元にとどまらず、今回のゴーストライター問題を当事者の責任にのみ還元しない視点から、その発生関連要因を深める必要があると考えます。
まず、ゴーストライターなんてものは、そこかしこに転がっている事実を私たちは正視しなければなりません。有名芸能人や一流スポーツ選手の「著書」にはゴーストライターを職業とするプロの手によって書かれたものも多数あるでしょうし、中央省庁の幹部職の「著書」の中には部下を寄せ集めて書かせただけのものもあると耳にします。ある大手一流企業に勤務する私の友人は、財界人として有名な社長の講演原稿やコラム原稿を「書かされている」としきりにこぼしていました。
このように、業界の区別なくゴーストライターは活躍しており、ここには契約によるものもあれば、浮世の義理や職場の力関係をテコに押しつけられただけのものまでを含みます。すると、ゴーストライターをビジネスから必要悪程度までに幅広く活用するわが国の社会的文化性は、佐村河内ゴーストライター問題の発生要因の一つであることを示しているのではないでしょうか。実際、ゴーストライター氏の告白は、「最初はごく軽い気持ちで引き受けていました」と明かしています(「週刊文春」2月13日号による。以下同様)。
確かに、佐村河内氏のゴーストライターに渡した「作曲指示書」にはいささか驚きました。譜面もなければ、コードの指示もない。作曲の依頼ですから、曲のモチーフやテーマくらいは記譜をして渡しているのではないかと、私は常識的に考えてしまったのです。しかし、この点についても、財界人のゴーストライターをさせられていた友人は「社長秘書からタイトルの指示だけ」と言っていましたから、中身のない指示をするのはゴーストライターの世界ではきっと特異な現象ではないのでしょう。
次に、今回のゴーストライター問題で大きな要因であると考えるのは、クラシック界の調性音楽の復権に対する民衆的ニーズが蓄積されていたという点です。それは、不協和音が連続する現代音楽への「予想外の」アンチテーゼではなかったのでしょうか。
現代音楽の大御所である武満徹さんの曲は、私の音楽的な耳の力で何とかギリギリについていける数少ない現代音楽です。武満さんは「日本の松林を通り抜ける風の音を表現できる曲を作りたい」と言い続けた作曲家です。そこで、不協和音に由来する音楽の抽象性だけが独り歩きしない曲の作風を感じ取るができると、私は感じてきました。それでも、この現代音楽を毎日聞きたいかと質問されると私は返事に困ります。
現代クラシック音楽界の高度な作曲を理解できるような耳は、残念ながら、多くの人にはないのです。映画やドラマで不安や緊張を演出するためのBGMでは、不協和音によって構成される音楽は一般的ですが、その曲だけをじっくり聞くことは難しい。
現代音楽のコンサート・チケットとキャリーパミュパミュまたはAikoのチケットのどちらかを買わなければならないとしたら、私は迷うことなくキャリーパミュパミュかAikoのチケットを選択します。1970年代に、指揮者のレナード・バーンスタインは、「不協和音の連続する現代音楽よりも、サイモンとガーファンクルのサウンドに対して現代の音楽としての魅力をはるかに感じる」と公言していました。
交響曲第1番『HIROSHIMA』を芥川作曲賞の最終ノミネートに残すよう主張していた作曲家の三枝成彰さんは、「クラシック音楽の20世紀は不毛の時代だったことに対する復権の交響曲だ」とNHKの取材インタービューで発言していました(私が見たのは、日付は覚えていませんが、間違いなく夕方の「首都圏ニュース」です)。
「20世紀に入ると、(…中略…)機能和声的調性(いわゆる調性音楽-宗澤注)はその歴史的役割を終えた」(音楽之友社『新音楽辞典-楽語』368頁)とする音楽界の「学識」は、少なくとも、クラシック音楽を愛する多くの民衆のニーズや音楽的感性と甚だしいギャップがありはしないのか。この点を三枝成彰さんは率直に指摘したのだと、私は理解しているのです。
『HOROSHIMA』や『鎮魂のソナタ』のCDは、クラシック界では異例のセールスを記録しました。被爆者や被災者への祈りと希望のメッセージを「全聾の天才作曲家が贈る」という美しいストーリーに「踊らされて」売れたのだという指摘は多く見受けられます。
しかし、クラシック音楽を愛する民衆は、曲を選好する土台に音楽の上質さを聞き分ける耳を持っているものです。美しいストーリーをいくら振りまかれたとしても、「聴けないものは聴けない」のです。ストーリーに「踊らされた」とする理解は一面的な決めつけに過ぎず、そういう一面を仮に持ち合わせていたとしても、他面においては、クラシック音楽愛好家が待ち望んでいたサウンドであったという点が確かであるからこそ「異例のセールス」になったのではないでしょうか。
そこで、今回のゴーストライター問題は、調性音楽の復権の契機であったという文脈からはじめて理解できる事象ではないかと考えます。クラシック界のプロの世界では、もはや時代遅れで、場合によっては、次元の低い音楽とされてきた調性音楽を復権させるためには、岩盤のような「学識」の定説を押し流すほどの「津波のような」力を持った特別のストーリーが必要だった。今回の「現代のベートーベン」ストーリーがまさにそれだったのではないか。そして、残念ながら、この「津波の被害」はまことに大きいものだった…。
音楽業界の現実は、一面では「金の世界」です。そこで、今回のゴーストライター問題をめぐり、業界は損害賠償責任等のもめごとを避けて通ることはできないでしょう。しかし、そのような泥仕合は音楽を愛する民衆にとってはどうでもいいことなのです。もし、音楽業界の関係者が音楽で生きていることに誇りをもつのであれば、「異例のセールス」となった「調性音楽復権の曲」を葬ることだけは止めてほしいと願っています。
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