支援と体罰・暴力
明けましておめでとうございます。
昨年末は、千葉県の障害者施設における虐待事案が明るみに出ました。虐待問題が人権擁護の観点から早急な克服を求められていることは間違いのないところです。しかし、福祉の支援現場の虐待だけでなく、家庭・学校・スポーツにおける体罰・暴力の広がりにまで思いをめぐらせたとき、これらの暴力は歴史的で社会的な根の深さをもっているのではないかと考えざるを得ません。
大阪桜宮高等学校のバスケットボール部の顧問が激しい体罰を繰り返し、キャプテンの生徒が自殺した事件から一年が経ちました。年末の朝日新聞(12月22~23日朝刊)は「彼が遺したもの」と題する特集記事を組み、この顧問が同校に赴任して以来の18年間、「部員を発奮させる」という理由で部員を殴り続けてきた事実があったと同時に、今回の一件が明るみに出た段階で、他の保護者からは「主将は代表して怒られて当然。先生を守りたい」と顧問を平然とかばう声があがったことを報じています。
この事件の後、元読売ジャイアンツの投手だった桑田真澄さんは、「スポーツマンとして許せない暴力」との主張をした(三輪定宣他編著『先生、殴らないで!―学校・スポーツの体罰・暴力を考える』、かもがわ出版、2013年の中に、桑田さんの主張の詳細なインタビューが掲載されています)一方では、王貞治さんは「古き良き日本が失われたから」と学校スポーツにおける暴力等について必ずしも否定しない見解を最近の週刊誌で披瀝しました(週刊ポスト1月1・10日号)。
私自身も中学の時代は柔道部に入っていて、数えきれないほどの体罰を顧問の教師と上級生から受けました。大阪市の大会を控えた朝練習の時間に顧問の教師だけが遅刻をしてきたのである部員が「先生遅刻ですよ」と言った途端に、部員全員がコンクリートの床に正座させられて、「ふざけるな、連帯責任だ!」といきなり往復ビンタを喰らうことなんて日常のことでした。私には、体罰については理不尽さの極みだという確信は残っても、それが自分を人間的に成長させたなどと感じたことは一度たりともありません。
つまり、広義の支援領域の一つである学校教育において、体罰や暴力を容認する風潮は今日なお根深く存在するのです。時にはやむを得ないものとして消極的に容認するものから、「あの時叩かれたからこそ強い人間になれた」というような「人格的成長」を根拠にする積極的容認までのスペクトラムの幅はあるでしょう。
昨日の報道によると(朝日新聞デジタル、1月5日配信)、大阪市の学校と管理職には体罰隠蔽の体質があったことを市委嘱の弁護士チームが明らかにしたそうです。つまり、教育における暴力の容認は、保護者をして体罰顧問をかばう行動に駆り立てるだけでなく、同僚の教師や教頭・校長の管理職に体罰を問題として取り上げない構造を作り出していたのです。
これらの学校スポーツにおける体罰の容認と隠蔽体質の問題は、千葉県立施設における虐待の隠蔽体質と、少なくとも文化的共通基盤があるのではないでしょうか。このように虐待や暴力が発生しているのは障害者の支援現場に限られた事象ではなく、私の個人的な体験の範囲内でさえ、児童・高齢者・障害等の利用者別やサービスの別に全く関係なく発生している事実を確認してきました。
ある児童関係の施設で実習してきた学生が「まるで“巨人の星”のようなところだった」と言います。そこで詳細を訊ねてみると、「現場責任者の指導員が子どもたちの振る舞いに腹を立てようものなら、ちゃぶ台はひっくり返す、ビンタはする…」などという事実を「実習報告」してきたことさえあるのです。実習する学生が人権上問題を感じる現場に共通する点は、まことに不思議なことですが、現場の管理職や職員の多くが「自分たちは頑張っている」と思い込んでいることでした。
障害者虐待防止法施行の最大の意義は、虐待という人権侵害を社会的に明らかにし、人権擁護に資する対応支援を実務的に進めることに法的根拠ができたことにあります。しかし、わが国が子どもの権利条約を1994年に批准し、児童虐待防止法を2000年4月に施行して以来の今日までの間に、児童虐待の発生そのものが減少に転じたことはないのです。虐待問題の社会的な克服には、虐待発生に関するメカニズムのさらなる解明とそれに対応する社会的手立ての構築を粘り強く積み重ねていく必要があるのです。
資格制度が確立してきた福祉領域の、契約にもとづく利用者主体のサービスの中で、利用者の人権が踏みにじられる虐待がなぜ発生するのでしょうか。福祉領域で見過ごすことのできない虐待の構造的問題は、虐待を被る人の人権侵害だけでなく、虐待行為者である家族内部の養護者・職業的支援者の人権侵害が交錯している点にあります。このような全体構造性が、実は、わが国の福祉における権利性の希薄さそのものでもあると考えます。
今年は、家族という親密圏や福祉・教育・医療等の支援領域における虐待・体罰・暴力の問題をより突き詰めて考えます。わが国の歴史的で社会的な問題としての体罰・暴力文化の考察とともに、福祉領域における暴力問題の特質を追究したいと願う私のお正月でした。
コメント
体罰についてコメントさせていただきます。私は広く報道されているような行き過ぎた体罰には全くもって反対ですが、体罰による成長もあると思っています。というのも私自身、中学時代に先生に頭をはたかれたことがあります。そうして諭されて、いかに自分が理不尽なことをしていたかを思い知らされました。あれは貴重な経験だったと個人的には思っています。ですから体罰の全面禁止までは必要なのか、と疑問に思っていました。しかしこのブログを機に「ズイショ」さんのブログを読み、考えが変わりました。このブログのとうり潜在リスクはとらないものなのです。人が育つといっても、自殺に追い込むことはあってはならないのです。やはり体罰は禁止され、こういった風習も過去のものにせざるおえないと思いました。
ズイショ http://zuisho.hatenadiary.jp/entry/2013/09/19/014718
私も中学生のときにバスケットボール部に所属していましたが、私は顧問や上級生から体罰のようなことを受けたことがありません。もちろん、体罰を受けていたらそれはとても問題があります。
昔は先生から叩かれるとか正座させられるとかが当たり前だったかもしれません。しかし、それはとても不合理なことです。体罰を与えたからと言って生徒が言うことを聞くようになるとは限りません。むしろ、生徒を傷つけるだけです。体罰を与えることにはなんのメリットもないわけです。そのことをわかっているのにどうして未だに体罰を与える教師がいるのでしょうか。昔の当たり前が今でも通用するとでも思っているのでしょうか。
時代というのは移り変わるもので、風潮も変化するのも当たり前です。昔では当たり前だったことも、今では当たり前ではないということもあるはずです。そういうことを理解して行動すれば体罰は起きないはずです。体罰がなくならないのはなぜか私は不思議でたまりません。
近頃は教育の現場から体罰や言葉による差別など、さまざまな点において注意がなされています。教育現場から体罰がなくなることは望ましいことだと私は考えます。しかし、このような事件がある以上、まだどこかで問題は存在しているのです。体罰による問題が消えないのは人によって価値観や性格が違い、どこまでが体罰なのか線引きが異なるからではないでしょうか。自分では体罰ではないと思っていても、生徒のほうは痛みや苦しみを感じている、客観的に見て体罰に値する行動があるということです。特に体育・運動系の活動においては体罰が発生しやすいです。教師は生徒を思ってのことかもしれませんが、その行動が行き過ぎれば、生徒へ与えるものは脅威になってしまいます。体罰でなくても教育する方法はたくさんあるはずです。私たちが気づき、共に考えて体罰をなくすものだと私は考えます。
体罰の是非に関して私は基本的には反対です。「基本的には」というのは体罰それ自体を全否定することはないかなと思っているということです。
というのも確かに体罰はその行為に走る理由がどうであれ、立派な暴力です。体罰を受けた側は身体的にも精神的にも深い傷を負う可能性が少なからずあります。
私自身、小学1年生のころに授業で使う教科書を学校に持ってくるのを忘れたとき、先生から「下ろしてよし。」という合図があるまで両腕を挙げるように言われたことがあります。学生生活1年目にもかかわらず「学校」って怖いとこなんだなと思ったのを10年以上経った今でも覚えています。
その後もお尻を叩かれる、教科書の角で頭をぶつなど様々な罰(≒体罰)を受けました。本音を言えば辛かったし、痛かったし、やめてほしいと思うことが多かったです。また、子供と大人とでは当然、大人のほうが立場も上ですし腕力も子供は敵いません。だから今後、体罰はなくしていくのが理想的だと思いますが、忘れ物がなくなったりなど人間性が良い方向に改善されているのは、暴力を受けたくなくって忘れ物をなくそうとしたことも少なからずあると考えます。体罰にもメリットがあると考える人の意見にも耳を傾けることが重要です。
なので、宗澤先生のおっしゃるように「体罰」を全否定することはなくていいと思います。
数年前、大阪桜宮高等学校の事件をニュースで知り、とても大きな衝撃を受けたことを今でも覚えています。その当時、私もバスケットボール部に所属していたため、他人事とは思えなかったのです。実際のところ、運動部において、顧問からの体罰を受けたことがあるという人は少なくないのではないかと思います。私も、練習中に上手くプレー出来ず、顧問にボールを投げつけられたことがあります。一度そのような体罰を受けてしまうと、「また上手くプレー出来ずにボールを投げられてしまうのでは」と足が竦んでしまい、余計に身体が動かなくなります。まさに負の連鎖です。私は、体罰がプラスの方向に作用することなどないと思っています。
体罰とは、その人自身の勝手なエゴで行う理不尽な行為です。大阪桜宮高等学校の顧問も、部員を奮発させるため、などと自分の行為を正当化させるような理由づけをしていますが、体罰をうけた部員が苦痛に思う、ましてや自殺などしてしまっては、その行為は部員の為でもなんでもなくただの自己満足であり、絶対にあってはならないものです。
もし、周りに体罰を否定し守ってくれる大人がいたなら、こんな事件は起こらなかったかもしれないと考えると胸が痛いです。体罰はいけないものであるという認識を共有し、また体罰を受けている人が相談出来るような環境、施設作りが進んでいく世の中になることを切に願っています。
私自身は体罰を受けたことはないが、小、中学校のときに生徒を蹴ったり胸ぐらをつかんで責めたりする光景を何度か見たことがある。学校が少し荒れていたこともあって、厳しくする必要もあったと思う。しかし体罰をすることで生徒を怖がらせ、従わせることで、生徒にとってプラスになることはないと思う。今の教育現場では、体罰が許されず、理不尽なことを言うモンスターペアレントに押され、教師の権威も低下してきていると思う。だからと言って威厳を保つために体罰をするのは許されないことだし、隠ぺい体質もなくしていかなければならないと思う。
体罰は許されざるべきものだと私は考える。最近、学校や共同施設等での体罰が問題視され、メディアでも一つの事件として報道されることが多くなった。体罰の是非については、体罰が法で規制されるようになったことからも、社会的に反対の意を唱える者も多い。しかし、日本で体罰が教育・指導の一環として正当化されていた時期もあったために、体罰が行われている現状を黙視している人も中にはいる。そういった人々の意識を変えていき、体罰の正当性をなくしていくことも、今後の課題といえるだろう。
大阪の桜宮高等学校バスケットボール部キャプテンが顧問からの体罰が原因で自殺してしまったというニュースはとても悲しいことです。体罰をした顧問は自分が学生のころ体罰を受けていたのでしょう。その体罰で自分が成長したという間違った認識が心の中にあったがために自らも体罰を行ってしまったのでしょう。ブログにも書かれていましたが、他の保護者から先生を擁護する声があったようですが、保護者も顧問と同じように自分が学生の頃に体罰をうけ成長したと勘違いをしているのでしょう。“暴力で人は成長しない”この認識が浸透すれば確実に体罰は減ると思います。また、“昔はこれが当たり前だったから、今でもこれが正しい”という間違った認識が顧問になければこの事件は防げたのではないでしょうか。
記事を読ませていただきました。
私も小中高とスポーツを部活動で行っていました。教育の部活動という現場で、体罰を起こす指導者により、不幸が起こったことが残念で仕方ありません。
体罰をする指導者は、自分も体罰を受けて、指導されてきたというそうです。自分が体罰を受けてきてとても辛かったはずなのにどうして体罰をするのでしょうか。指導者も自分がされて嫌なことは人にしてはいけないと教えているはずです。教育現場から体罰がなくなることを願うばかりです。
私は、教師が児童生徒を教育するにあたって、必要なのは互いの信頼関係であると思います。子どもたちから見て尊敬に値する人でなければ、いくら“先に生きた”先生という立場の大人であっても、説得力や信頼感を持って教育を受けることができません。
だからこそ教師が子どもたちに対して絶対的な存在になり過ぎることは、児童生徒の自主性や可能性を紡ぐ結果になることが考えられます。つまり、どのような状況であっても、教師の暴力による教育は、正解とはいえないのです。“あのとき先生が手をあげてくれたから私は成長できた”という子どもがいたとしても、それは作り上げられた信頼という関係性を利用した、教師の権利の振りかざしであると、私は考えます。それが正しいと思わせる教育を行ってきたということが言えるからです。このような少しばかりの容認が、体罰を撲滅することのできない要因になっていることは間違いないと思います。
肉体的にも精神的にも成長過程にある子どもたちにとって、自らを形成していくための指標やお手本としての教師の存在の大きさは、親に匹敵するほどの責任を背負っているといっても過言ではないだろう。子どもたちがどのように成長していくのかを左右する立場にある教師は、これからの日本の文化をも握る重要な位置にいるということをさらに自覚する必要がある。暴力に頼ることのない教育が子どもたちに教授されていくことを切に願いたい。
正直なことを言ってしまうと、私は今までの人生の中で体罰というものを体験したことも、見たこともありません。私が体罰というものを認識するのはいつもテレビの向こう側であり、これから私が述べる意見も、あくまで私の体罰に対する偏見と憶測の域でのものです。そこでまず思うのが、先生側の立場です。なぜ暴力をふるう必要があったのか、生徒に問題があったからなのか、それともただの八つ当たりなのか。体罰が行われているのはその多くが部活の強い強豪校のように感じます。彼らはその目標を常に高いところに置き、他とはくらべものにならないような練習量をこなします。そんな中、教師と生徒の間で意識の差が出て体罰に至るのではないかと思います。体罰という教育方法を擁護するわけではありませんが、常に周りからの期待を受ける学校ならなおさらなのではないかと思います。しかし、生徒側からしてみれば、やはり体罰は苦痛を伴うもので、自分がされてもやはり嫌だと感じるものだと思います。だからこそ必要なのは生徒と教師の間の信頼関係の構築なのではないかと思います。綺麗ごとのようだと思いますが、彼らの間に信頼関係が生まれれば、生徒の大きな成長にもつながると思うからです。
体罰という言葉を聞くたびに、今までどれだけの児童が「教育のため」という大人の身勝手な名目のもと不当な暴力を受けてきたのかと思うと本当に心が痛くなります。世間では教師による児童の身体的に教えこむという”教育”はある程度必要ではないか、というまるで体罰を合法化するような意見もあると聞きますが、わたしはそんなことは決してないと考えます。「わたしはあの時先生に殴られて目が覚めました。」などという意見はその人個人が受けたあくまで個人的な意見であり全ての人がそのように感じるわけでは決してないのです。
私は体罰反対派であり、「叩かれることで人間的に成長することができた」という意見はある種の個性を否定するものであり独善的な意見だと思いました。また、児童関係の施設で人権上問題のある行動をしてきた職員たちの「自分たちは頑張っている」という考えについては努力のベクトルが適切な方向に向かなければ子供達にとって逆効果になってしまうことがよく表れていると思います。もちろん理不尽なことによってしか矯正できないこともあることと思いますが、すべてを理不尽で矯正しようとすると無理が出ることと思います。今後、体罰被害者が出ないことを祈ります。
ブログを読み、自分が過去に受けた体罰について思い返しました。小学2年生のとき、チャイムに気付かず授業に遅れてしまったとき、担任の先生は私と友人におもいきりげんこつをしました。びっくりするほど痛かったのを覚えています。記憶にある自分が受けた体罰はその一回です。そのことが今でも心の傷になっているということはありませんが、先生の名前や顔ですら思い出せないのに、そのことだけは鮮明に覚えているのは、幼い自分にとって、それほど衝撃的なことだったからだと思います。教師による体罰が子どもに与える影響は想像以上なのだと思います。大阪桜宮高等学校の事件で顧問を庇う人がいたように、まだまだ体罰を軽く考えている人も多くいると思います。体罰の問題はもっと重く受け止められるべきでしょう。
私も中学時代にバスケットボール部に所属していました。私が所属していたバスケットボール部では体罰はありませんでしたが、同じ体育館で毎日練習していたバレーボールでは体罰は日常茶飯事でした。しかし、部員達はたとえ暴力を振るわれても、そのコーチはとても尊敬していたし、信頼してついていっていました。またそのバレーボール部は毎年全国大会に出るほどの強いチームで、殴られながら練習しているチームはさすがだなと、私は思っていたし、強さの秘訣は暴力にあるとさえ考えていました。しかし、桜ノ宮高校の事件を知り、暴力について改めて考えさせられました。よく考えれると、暴力が強さの秘訣だなんて有り得ないし、そんな精神論的な考え方はもう古いものだと思いました。世間が暴力に対する考え方を改めて、このような悲しい事件は二度と起こってほしくないと思いました。
私は教師を志すものとして、この体罰問題について普段からよく考えています。私自身、ずっと剣道を続けていて、高校時代はかなり厳しい指導も多く受けました。しかし、それを体罰と感じることは一度もありませんでした。しかし、それを体罰と感じなかったのは、「私」だったからだと思います。私には苦痛でなくても「他の誰か」には苦痛かもしれません。そういった意味では体罰問題というのは論理だけで片付けることのできない、直接の関係やその時その場所だからこその問題も含まれているかと思います。体罰問題の解決には、他ならぬ現場に立つ指導者の質が大切なのではないでしょうか。
私も体罰が人を人間的に成長させることができるとは思ってはおりません。そのため、体罰にはもちろん反対です。
体罰は、しつけと言われてしまうと、その実際的な境界はあいまいな気がして、また隠ぺい体質などもあいまって体罰・虐待は発見が遅れてしまうものだと思います。
また、たとえば父親が子供をきつくしかることにおいて、家族の一員として本当に大切だと感じているからこその行動であると考えるが、それに対して先生が生徒に体罰を与えることにおいては、生徒のことを思っていないけれどもただ腹が立ったからという理由での行動という場合も多分にあるのではないかと思います。やはり、教育の現場に立つ者の適正というものは重要であると考え、新しく教師になる人だけでなく現場に立っている教師も含めて心理学の方面から暴力的な側面などがないかという観点からアプローチして適正を判断していくことも一つの対策として良いのではないかと思います。
私は中学生のときにサッカーのクラブチームに所属していましたが、普段はとてもユーモアがあって、選手に慕われている監督が、先輩を殴っているのを一度だけ見たことがあります。
なぜかというと、練習中に、その先輩がミスをして、監督に指導されたときに「どうせ俺は試合に出れないから関係ない。」と言ったからです。監督は、自分の実力を決めつけて、自分の可能性を否定したことに激怒し、つい手が出てしまったそうです。
そして殴られた先輩も「自分が悪かったと思うし、殴られなければ聞く耳を持たなかったと思う。むしろ体罰や暴力に厳しい今の時代に殴ってまでそれを教えてくれたことを感謝している。」と言っていました。
殴るという行為はよくないし、ほかにも方法はあったかもしれないが、この監督の場合は、その人のことを真剣に思って、考えていたからこそ手が出てしまったのだと思うので、この場合は殴ったことが悪いと言えないのではないかと感じた。
私は暴力・体罰にはもちろん反対であるし、禁止すべきだと思う。しかし、最近は暴力・体罰という言葉が簡単に使われすぎではないかとも思う。なので暴力・体罰にあたる事例が上がってきたら、ただ単に手をあげたから罰するというのではなく、手をあげるに至った経緯を調べ、暴力・体罰にあたるのかの判断をしてどう対処するか考えることが必要なのではないかと感じた。
体罰について、私自身が受けたことも、実際にその現場をみたこともありませんが、やはり強い運動部に所属していた友達の話を聞くと、テレビなどのメディアでは最近イチイチ体罰が行われていると報道されるけれど、実際中学でも高校でも体罰受けてたよね。という話を聞いたことがあります。その友達の部活が体罰によって強くなったとは言えませんが、厳しい指導なしでは強くはならなかったかもしれません。また、体罰というのもはっきりとした境界線がないため、とても難しい問題だと感じています。児童や生徒の体や心に変化があったとき(悪い意味で)は完全にいきすぎた指導で体罰と言えますが、子どもたちを強くさせるための言葉がけ指導ならありなのではないかとも考えました。
私も中学時代は部活をしていましたが自分は体罰は受けたことはありませんし、友人でも体罰を受けたという話は聞いたことがなく私にとっては体罰問題は身近なものではないように感じていました。しかし、桜宮高校の体罰問題のニュースを聞いたときには自分ももしかしたら当事者になっていたのかもしれないと思うと怖くなりました。人を指導する立場である教師が指導方法に体罰を選ぶというのはとても理解しがたいことであります。桜宮高校のように明るみに出たために大きく知られるようになったが世の中にはまだ知られていない体罰があるかもしれません。決して体罰は行ってはいけないことであるので教師全員がそのことをしっかりと踏まえて教壇に立ってほしいです。
体罰について、私自身が受けたことも、実際にその現場をみたこともありませんが、やはり強い運動部に所属していた友達の話を聞くと、テレビなどのメディアでは最近イチイチ体罰が行われていると報道されるけれど、実際中学でも高校でも体罰受けてたよね。という話を聞いたことがあります。その友達の部活が体罰によって強くなったとは言えませんが、厳しい指導なしでは強くはならなかったかもしれません。また、体罰というのもはっきりとした境界線がないため、とても難しい問題だと感じています。児童や生徒の体や心に変化があったとき(悪い意味で)は完全にいきすぎた指導で体罰と言えますが、子どもたちを強くさせるための言葉がけ指導ならありなのではないかとも考えました。
体罰は時としてやむをえないものであるという主張がなされることがあります。私はこれに賛成しますが、「時として」という言葉を忘れてはいけないのだろうと考えています。
たとえば、児童の行動があまりにも悪質で目に余り、静止の言葉に耳を貸さない時には暴力という手段に訴えることもしかたのないことだと思われます。そして、暴力に及んだ理由が十分に納得のいくものであったときに、児童は痛みを伴って正しい倫理観を身につけることができるでしょう。
しかしながら、行われた体罰が適切であったかどうかというのは、判断が非常に難しいもののように感じられます。体罰を与えた側も与えられた側も、手段として暴力が介在してしまった時点で多少ならず感情的であり、主観的であるからです。また、当事者が感情的であるからには両者の意見は対立し、第三者が適切な判断を行うことも困難でしょう。
このような側面から、個人的には時として体罰はやむをえないものではありますが、体罰が全面的に禁止されるのもまた仕方のないことだと思われます。
本文中の、『実習する学生が人権上問題を感じる現場では、”自分達は頑張っている”と職員が思い込んでいる』という一文が非常に強く印象に残りました。教育者として働いているからには当然、子供達を立派な人間に育てたいという志があるのだと思います。ではなぜ、虐待という非合理的な手段をとってしまうのでしょうか。
私は、児童に対して虐待を行ってしまう教育者は自分を客観的にみる機会を失っているのではないかと思います。
どのような形であれ、自分が頑張っている分だけ生徒が成長していると錯覚してしまっているのではないでしょうか。
教育現場は閉じた空間になってしまっていると思います。教師、児童、保護者以外が教育に参加し、風通しをよくしていくべきなのではないでしょうか。
教育者が正しく教育を行うことができるような社会の仕組みができることを期待しています。
体罰について
大阪桜宮高校バスケットボール部の顧問が行ったような激しい体罰には断固反対です。生徒が自殺まで追い込まれるような行き過ぎた体罰はあってはなりません。しかし、ある程度の体罰は必要であり、人を成長させるためには少なからず必要だと思います。最近、体罰を受けず、甘やかされて育っている子供たちが増えていき、忍耐力がなく、すぐキレたり、物事を投げ出したりしてしまうような子供たちが増えている傾向にあります。そのような子供たちのためにも体罰が必要ではないかと思います。
私の中学、高校の学校の生徒指導部が年配の先生で、理不尽な怒り方はしないけれど多少叩くなどして分からせることが教育であると考えておられる方たちでした。しかし、実際にそのような体罰などされても、された側としては、反省するよりも叩かれたことに対する反発や衝撃のほうが大きく残った記憶があります。
子供の教育というのは、体罰などの暴力行為とは全く異なるものだと思います。しかし、現に体罰はなくなっておらず、次々と問題として浮上してきます。今後体罰という教育のまがい物がなくなることを願います。
部活動での体罰についてコメントさせていただきます。私は中高一貫校に通い、そこで6年間ソフトテニス部に所属していました。私の学校は、スポーツ推薦等を行っている私立の学校にはどうしても劣ってしまうけれど、それ以外の私立や公立の学校の中では群を抜く程度の成績の、ちょっとした強豪校でした。というのも、指導をしてくださった顧問の先生が、先生自身もテニスの輝かしい功績を所持しており、指導者としても優秀な方だったからです。部員はほぼ毎日休みもなく練習をしていました。そこで感じたことが、部活はある一種の宗教団体みたいだということです。教祖のような顧問の先生の言うことは絶対で、ちょっとした体罰を受けても先生を憎む部員など1人もいませんでした。むしろ先生への崇高は変わらぬままで、部へ功績を残すことで先生に花を持たせよう、貢献しようと考える部員ばかりでした。正座をさせられようと、頭を叩かれようと、体罰について懸念を示す余地などありませんでした。これは、スポーツを通じて生徒の心身の発達を試みようとする部活動の本質的な存在意義からはずれ、いつしか功績を残すためだけに生徒はテニスをしている、つまり手段が目的化してしまったことに問題の根幹があるのだと思います。体罰について多くの人が注意を向けている今こそ、部活動の本質的な存在の意義について確認する必要があると思います。
顧問による激しい体罰により生徒の命が奪われてしまい、とても悲しく思います。
私は、中学校・高校と運動部に所属し、練習に励んでいました。私は部活動を通して、仲間と協力して一つの目標に向かっていく楽しさや達成感を学びました。もちろん、そこには顧問や上級生による体罰はいっさいありませんでした。
部活動というのは、自己を心身ともに成長させたり、やり遂げたという達成感を経験できる大切な場であると思います。その大切な経験や人の命までも奪ってしまう体罰は絶対に起きてはいけないことです。体罰がなくなり、生徒一人ひとりが意味のある部活動ができる環境が整って欲しいです。
障害者に対する虐待の事件は、私も心が痛みました。将来障害のある人々と関わる仕事につきたいと思っているので、なぜ世間からこのような悲しい事件がなくならないのか追及していきたいです。その根底にはまだ昔ながらの障害者差別の考えが未だに存在しているのではないかと思います。一人一人に障害のある人への理解を得るのには、まだたくさんの時間と人々の支援が必要になってくるのではないかと私は考えます。また、虐待はここだけではなく部活などの場面でも存在するとありました。私も桜宮高等学校の事件は耳にしたことがあります。先生もおっしゃっているように、昔は今でいう「虐待」と呼ばれる行為は日常茶飯事で行われていて、それが当たり前でした。なぜ今は同じ行為をとっても「虐待」と叫ばれ事件になっていまうのでしょうか。それは弱い若者と、その若者を擁護する環境を作ってしまった社会に少なからず責任があるのだと思います。
体罰には反対です。教師が良かれと思って行った行為でも、生徒からしたら耐え難い体罰だということがありうるからです。体罰は授業中よりも部活内で多くみられる気がします。それは、トレーニングと称して体罰を与えることができるからだと考えます。そうすることにより体罰だといわれても、部活内のトレーニングの一環だと言い訳できます。広辞苑によると体罰とは「身体に直接苦痛を与える罰」と記載されています。私は中学生の時、所属するバレーボール部で「一人一人、自分のチームに貢献した数(+)とミスの数(-)を記録して、マイナスだった人はその分階段ダッシュとランニングをする」というものを体験しました。正直とても辛かったし、平等ではないと感じていましたが、その時は自分の基礎体力の向上のため、と頑張っていました。今思えばあれも体罰の一つなのではないかと思えます。しかし、体力がアップしたのも事実。こう考えるとどこからが体罰でどこまでがセーフなのか・・・難しい問題だと思いました。
私も中学校、高校と部活動に所属していました。その中で体罰を受けたことは1度もありませんでした。そして今となって考えてみても体罰の必要性というものは一切感じません。
校則や規則を破ったということに対して、正座させる、殴るといった体罰的なやり方が今後のその生徒の態度を更生させるためのやり方としては非常に無意味なやり方であると思います。
もしもその後態度が更生したとしてもそれは「体罰の恐怖」から来るものであるので本当の更生ではないと思います。
学校のような教育の場ではこのような上辺だけの態度を改善させるような教育の方法は現代においては不必要であると思います。
体罰を受けた生徒は、体罰を受けたという事実を言いづらいと思います。なぜなら部活動内での体罰であれば、それが公表されれば部の存続にかかわるものであると思ってしまうからです。
だから外部の人たちが部活動や学級の状態に対して常に目を傾けることでお互いに暴力を抑制し体罰を減らしていくことが大切だと思います。
体罰・暴力という話題は多く聞きます。私は昔のような指導員の気まぐれで行われる不合理な体罰には大反対です。しかし個人的な考えですが指導を効率的に行うことも重要なのではないか、と考えます。ただ自分の言う通りにならないからといって暴力によって服従させたりするのではなく、正しい道へと誘導するために暴力・体罰には行きすぎない程度の指導は必要なのではないかと思います。
ブログを見て今もまだ昔のような体罰が行われていることに多く考えさせられました。昔のような指導をすればうまくいく、全部自分の言う通りにすればうまくいくというのは教師の自己満足であると思います。もっと生徒と向き合って効率よくその人に合った指導を展開していくべきだと思います。福祉領域においてももっと個人の人権を尊重し、その人と同じ目線で一緒に歩んでいくことが必要なのではないかと感じます。そうすればもっと人と人がわかりあった社会を作り出せると私は信じています。
体罰問題は、最近になって騒がれ始めたなという印象を自分は感じています。体罰についての意見は、人によって様々ですが、自分は、体罰は不必要なものであると思います。体罰問題は、主に部活に関したものが多いですが、体罰をうけて人間的に成長するかどうかといったら、自分はしないと思います。成長させてくれるのは、部活という活動を通して経験したものであり、体罰ではないと思います。
子供たちを教育するうえで体罰というものは、必要はないと思います。頭を軽くはたくぐらいならまだしも、ビンタなどはいきすぎた行動だと思います。これからの教育として、体罰を無くすべきだと自分は思います。
体罰についてコメントします。
私が通っていた中学校では体罰というものは全くありませんでした。海外にいたので特別な環境だったということもありますが、生徒も不祥事を起こすことも少なく平和な学生生活でした。 先生から聞いた話ですが、「自分の息子が悪いことしたら、どうぞ殴ってやってください、体罰とは思いませんから…」と言う保護者がいたらしいです。 実際に本当に先生が生徒に体罰をふるったら保護者はどの様な対応を取るでしょうか。子供に痣ができ泣きついてこられたら保護者は怒りを覚え抗議してくるのではないだろうかと私は思いました。その先生もそう言われても絶対に手を出すことはできないと言っていました。
大半の教師がわかっていながら保護者の「私は教育の為なら何でも…」の様な見栄を張り中途半端な態度も問題点であると感じました。
支援と体罰・暴力を読んで、私も体罰は理不尽極まりないという意見です。体罰によって好きで始めたスポーツをいつからかやりたくないと思うようになり、稽古の中でも先生の目を意識して行わなければならないといった様になります。私は今まで体罰を受けることなくのびのびと競技を続けてこれました。その為、きついと思うことはあってもやめたいと思うことはありませんでした。体罰は不快にさせるだけでなく精神的にもダメージを与えてしまうと思います。なので私は体罰や暴力には反対ですし、生徒の気持ちを理解してやれる指導者になりたいです。
体罰について、これにおいては加害者が被害者に対して要求したいことを言葉に出せないために暴力という形で、体で表現しているわけなのではないかと考えます。このようなものは幼児性そのものであり、決して正当化されるべきものではないでしょう。
また、古き良き、とか言って体罰があった時代を正当化しようとしていますが、はたしてそんないい時代があったのか?ととても疑問に思います。喉元過ぎれば熱さを忘れる。昔は誰もが思っているよりも暗くて汚い時代だったのではないでしょうか。
桜宮高校の件で、保護者から「先生はよくぞやってくれた」などのような声もあったらしいのですが、本来は保護者が子どもをサポートし、場合によっては叱る、そのようなことをするべきなのではと考えます。こうやって考えてみると、子どもの「権利」というものがいかに無下にされているかがわかります。親権や教育権、さまざまな権利を改めて思い浮かべることができました。
体罰に関するコメントです。
私は基本的に、体罰というものには否定的な考えを持っています。自分も幼い頃に体罰を幾度も受けてきましたが、それによる人間的な成長を感じたことがないからです。
しかし現状として、親など周囲の大人による暴力などは根強く残っています。虐待防止法によってこのような事態が明るみに出た、とありますが、先の保護者の意見のように(極端に言えば)肯定的な態度を示すコミュニティも現実としてある訳です。その場合、法律と現実とが噛み合っていないことになります。体罰に関するコメントです。
私は基本的に、体罰というものには否定的な考えを持っています。自分も幼い頃に体罰を幾度も受けてきましたが、それによる人間的な成長を感じたことがないからです。
しかし現状として、親など周囲の大人による暴力などは根強く残っています。虐待防止法によってこのような事態が明るみに出た、とありますが、先の保護者の意見のように(極端に言えば)肯定的な態度を示すコミュニティも現実としてある訳です。その場合、法律と現実とが噛み合っていないことになります。
果たしてこの法律が今の世の中に合っていると言えるでしょうか。様々な活動を通じて、もっと根本的な思考の改善を社会に訴えていく必要があると思います。
私も体罰には反対です。私自身が本格的な体罰を経験したということはないのですが、そのような話を聞くたびに、どうして体罰を与えるのか、疑問に思い、怒りを覚えます。ましてや保護者が、他の生徒に体罰を与え自殺にまで追い込んだ先生を擁護するというのは、まったく意味が分かりません。もしも自分の子が、「人としての成長のためだ」という理由から体罰を受け、自殺してしまったとき、その保護者は同じように先生を許し、擁護することができるのでしょうか?
また、仮に体罰を受けた5人に4人が成長したとしても、1人が自殺してしまった場合、その教育は正しいといえるのでしょうか?もちろん、体罰が人を成長させるものだとは思っていないので、自分の観点からすれば、体罰はマイナス面しか持たないものであり、社会から排除すべきものだと考えます。自分にはこの件に関して客観的に見ることが少し足りていないのかもしれません。ですが、きっとどのように考えても、人の命を奪う可能性のある教育を許すことができるとは到底思えません。
体罰に対しての早急な意識改革と対処をそれぞれの機関で実施してほしいものです。
子供の未来を創る教育者が本件の場合間接的なものでありますが、命を奪うというのはあってはならないことであります。私は以前まで体罰は悪いものではないと考えていました。何が正しく何が間違っているのか分からない生徒を指導する上で時として体罰は必要であると。昔はよく体罰が行われていました。しかしかつての体罰は心から生徒を正しい道へ導きたいという愛のあるものでした。しかし、本件のような体罰は教育者という立場を使い個人的感情をぶつけるだけのものです。しかもそれを自分の中で正当化しているというのがさらに恐ろしいことです。このようなニュースを耳にすると体罰は無くさなければならないと思います。しかしその一方で体罰が許されなくなり、厳しい言葉も言葉の暴力として許されなくなったら、生徒は教育者を見下し教育者は威厳を失うのではないかと危惧してしまいます。生徒を正したいという気持ちの一方で体罰禁止という言葉に縛られてしまうのではないかと。かつてのように学生が教育者に敬意を抱いていたようになるには体罰は必要なのかこれからも考えていきたいです。
体罰、体に苦痛を味わせる罰、体を鍛え技術を磨き訓練している現場にはひそかに存在する。とはいえども、ひそかにと表現できるのは、ここ数年に至ってのものであり、そのまえまでは教育の現場において、欠かせないものとして認識があったといっても過言ではない。特に学校のスポーツに関連する部活においては生徒がミスを犯すたびに体罰を与え、不当な理由であっても生徒は黙認しざるをえなかった。私自身も10年以上も野球に身を授けたため、数え切れぬほど体罰をうけ、苦痛を味わってきた。指導者からだけではなく先輩からも受けるなど、部活本来あるべき姿を失い、ただ目上の人の機嫌をさぐる日々であった。今現在に当たって教育現場における体罰が注目され問題視されることは非常に良いことである。しかし昔その体罰を受け続け生きてきた数多くの大人はこういう、「そのくらいの体罰ごとき…」と。わたしは彼らにこう問いたい、「もし当時のあなたであればそのようにいえるのか」と。いま必要なのは、その体罰を耐えぬくように導く言葉ではなく、教育現場の改善である。
大阪桜宮高校の事件は大々的に報道されましたが、体罰による自殺や死亡事件は、今に始まったことではありません。それでも今日体罰がなくならないのは、日本の教育における、古い体罰容認の体質が根強く残っているからでしょう。ですが、やはり体罰は許されざるものだと思います。例えば、公園で遊んでいる子供を通りすがりの大人が殴り飛ばせば、10人が10人それを非難するでしょう。ではなぜ、教育的指導という名のもと、教師が生徒を殴り飛ばすことは、その賛否が分かれてしまうのか。先の事件で、「主将は代表して怒られて当然。先生を守りたい。」と、平然と顧問教師をかばった保護者がいたそうですが、人一人死んでいるのによくそんなことが言えたものだと憤りを感じました。この「古き悪しき」伝統を、これから教師になっていく方々が断ち切ってくれることを願います。
教育現場において、特に運動部の部活動において行われる暴力が、現代になってもなくならないのは、強くなるためにはやむを得ない、やる気を出させるには仕方がないという根拠のない言い分が広く承認されているからだと思う。黙って耐えることで根性がつき、耐えられないものはどうしようもない脆弱であるという風潮が次世代に受け継がれることで、暴力が強固な人間形成において不可欠な要素であることが正当化され、負の連鎖が続くのではないか。確かに、指導者としてある程度の「怖さ」は必要であるが、それを暴力によって形成するのは間違っている。このような構造的な問題には、やはり個人単位の意識改革と、暴力現場の管理体制を見直すことが必要だと感じる。
部活動の体罰についてコメントさせて頂きます。私も先生と同じ境遇を体験しており、幼い頃から柔道に携わってきました。私自身の経験上、柔道は特に体罰が多いと考えます。殴る、蹴るといった行為を一教育者が行うことはどういう意図で行っているのかが当時はずっと不思議に思っていました。根性論という言葉があり、苦しみに耐え、己の精神を鍛えるために生徒に暴力を振るうことが平然と行われてたこと自体が間違っていると思います。今後、学校教育で部活動の展開をもっと深く考えるべきです。
私は中学生、高校生時代に幸か不幸か部活に積極的に取り組む顧問の先生ではなかったので、体罰的な指導はまったくありませんでした。
さらにいえば、当時の部活の先輩方や同期も勝利を目指すという意気込みを欠いていた部活でした。ただなんとなく程よく練習して、試合で負けて、悔しがることもなく、部活に燃えるといったこともなかったです。
他方、他の部活の友達は丸刈りや朝練を強要されながら、顧問の先生の授業では自分の受け持つ部活の生徒だからと言って、他の生徒とは違うノルマを与えたり、難しい問題をやらせたりしていました。当時の自分は友達にご愁傷様という気持ちしかありませんでしたが、今考えると不公平でいじめなのではないかと思うことも多々あります。
こうしたことは、部活動という狭い空間の中で顧問という絶対権力者に従わざる得ない生徒にとって大きな負担になるでしょう。
つまり、部活動や児童施設といった小さいコミュニティの中で、大人の影響力は計り知れないものがあります。隠ぺい体質やかばう人間がでてくるのもそういったことが要因の一つだと思います。
監視役としての副顧問を設置したり、他部活と練習時間帯を被らせたりすることが当面の対応策となるでしょう。根本的には意識改革が必要となるでしょう。指導する側もされる側も今までのような形ではなく、健全な人間関係を構築しながら人格形成の一環として部活動に取り組むことを再認識すべきです。
この記事を読ませてもらい、僕も中学・高校と部活動をやってきたので体罰について考えてみました。大阪桜宮高等学校の体罰問題があってから、他にも部活動での体罰問題がいくつか公になりました。その中で僕は陸上部だったので、同じ部活の記事にすごく関心を持ったことを1年たった今でも覚えています。その覚えている記事とは、兵庫県の西脇高校と愛知県の豊川高校の陸上部の顧問の体罰問題でした。2校とも全国優勝をした経験がある程の強豪校なので、その当時な“流石強豪校。顧問の指導が厳しいから強くなれるんだ。”と軽い考え方をしていました。しかしこの記事を読んだりこの授業を履修してみて“厳しい”ということと、“体罰をする”との間にはなんの因果関係もないんだと思いました。選手を鼓舞するなら、わざわざ手を出さなくても他の強い選手の話をしてみたりするなど、いろいろ方法があるはずです。手を出すのはただ単に自分のイライラした感情や選手にぶつけているだけにすぎないと思いました。また学校側の隠そうとするのもいくら結果を出しているからってそれは明らかに間違っていると思いました。指導するということは、人それぞれによってどのようにすればその人にあっているのかは違うので難しいと思うが体罰というやり方だけは決して行ってはいけない指導方法だと思いました。
学校でだけではなく、家庭内でも同様だとは思いますが、暴力でその暴力を受けた側を何か変えようと思っても難しいと思います。今まで私は、一度だけ、塾の先生の機嫌を損ねて引っ掻かれたことがあるのですが、それ以外は厳しく怒られたことや、優しく諭されたことしかありません。塾の先生に対しては、もし仮に私が悪いことをしてしまっていたのだとしても、ただの反抗心や自分が痛い目にあった、という恐怖感しか生まれませんでした。確かに、ビンタなどをして、目を覚ませ、という意味にはなるかもしれません。しかし、暴力を振るわなくても、説教をされるだけで、自分は悪いことをした、と反省できると思います。体罰から何かを得るということはないだろうし、反対に、体罰を受けた側には傷しか残らないと思います。そのため、体罰を隠ぺいするというような風習を全面的に禁止するべきなのでは、と思います。
体罰はとても難しい問題だと思いました。体罰を食らった人の中には「愛のムチだった」「あれで気付かされた」という声もあります。けれどやはり体罰は理不尽なものだと思いますし、いいものだとも到底思うことができません。(介護支援者や教師に殴られるのとお父さんから殴られるのでは訳がちがいますもんね…)本当にその子のためになるものであったらそもそも、その子は自分の中で叩かれたりしたことを体罰だとは思わないのではないでしょうか。
ストレスや疲労で介護支援者さんが利用者さんに手をあげてしまったという話はよく耳にします。正直、介護体験に行った身として、気持ちが分からなくもない場面に遭遇しました。しかし、自分は介護をする立場だということ、安易に人に暴力を振るってはいけないという当たり前のことを忘れてはいけないと思いました。
日本では、最近ではようやく体罰が問題視され始めましたが、少し前までは当たり前のように行われてたと思います。自分の周りの人から、学生の頃は忘れ物をしたら普通に先生にビンタをされていた、と聞いたことがあり、とても驚きました。虐待をされて育った人は、自分の子どもにも虐待をしてしまうことがある、と聞いたことがあります。体罰の問題に関してもそれと似た傾向があるのかも知れないと思いました。この負の連鎖を断ち切るためには、どうしたらよいのか、しっかり考えていく必要があると思いました。
私は中学校、高校とバスケットボールに所属しており、キャプテンを務めたこともあったので上記の事件はとても他人事とは思えません。私の高校も部活に力を入れており、厳しい指導の連続でしたが、体罰を受けていると思ったことはありません。
教育者や指導者とは難しいもので、生徒に介入できる範囲が限られています。言葉や態度で教育しなければいけないし、プライベートには介入できないといった難しさも抱えています。そのような中でいかに生徒の心に入り込めるかが教師や指導者の腕の見せ所だと思うのですが、体罰という形になってしまっては、もともとの「この子たちのためになりたい」という思いが水の泡になってしまします。もちろん、体罰をした教師も体罰するつもりはなかったかもしれません。しかし、このようなことが起きるということは、社会が体罰を事情によっては受け入れるという風潮があるからではないかと考えました。
私は生徒に体罰をして学校からいなくなってしまった先生を実際に見たことがあります。その先生はどうしても言うことの聞かない生徒を殴ってしまいました。後でその先生の様子を見たら、とても後悔をしているようでした。その先生の中では体罰はいけないものだという認識があったと思います。
しかし体罰をしてしまったということは、その先生の中では体罰という選択肢があったということで、そう考えると体罰をするという風潮はまだなくなってはいないということだと思います。体罰をしても傷つくだけ(場合によってはした側も)なので、体罰をするという風潮が完全になくなるべきだと思いました。
体罰は、昔は当たり前に行われていたということですが、教育の現場において体罰はぜったいにいらない要素だと思います。ブログに書かれている通り、体罰をすることによって精神的に成長したというようなことはないと思います。なかには、保護者が昔からの考えを持ち体罰を容認しているような場合は、子どもが体罰によって成長したなどと考えることもあるかもしれませんが、やはり教師によって体罰を受けるということはいくら保護者が容認していても子どもにとっては苦痛であると思います。教師は、ただ授業をするだけの存在ではなくときには相談に乗ったりするなど精神的な面でも子どもを支えることが必要だと思います。そのような存在が暴力によって子どもを制圧するということは許されてはいけないことだし、学校が隠蔽するなどということはあってはならないことだと思います。体罰を容認している人たちにら体罰が子どもに与える苦痛などを理解してもらい一刻も早く体罰がなくなることを願います。
体罰についてコメントさせていただきます。まず私はいかなる場合においても体罰(暴力に)反対です。相手のためだとか、愛だ、教育だといろんなことで正当化しようとしますがそれは間違っていると思います。なぜならその暴力行為を行った瞬間は教育よりも怒りの感情のほうが強いはずだからです。私も小さいころから何度も体罰による教育を受けてきましたが、殴られた後に先生が冷静になって、何が悪かったのか注意してくれたことの方が何倍も理解できました。本当の教育者なら冷静に正しいことを教えることができるはずです。暴力を振るわずに、人を育てることができるような教育者であってほしいと強く思いました。
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。