小便老人の変心
2008年11月17日 09:00
ある施設では徘徊対策のために
外界と触れあい自由行動できる
「バルコニー」を設けたそうだ
するとバルコニーの曲がり角で
認知症の老人が小便をしだした
懐かしい密やかな格好な場所?
介護するプロはどうするのか?
「小便禁止」の掲示をするのか
縄張りか 叱責か 拘束か…
いやいや そうではありません
「お地蔵さん」を置いたそうな
すると あの問題の「小便老人」
しゃがんで静かに祈りを捧げる
「敬虔老人」に変心したそうな
「小便老人」にも変身させるし
「敬虔老人」にも変心させるし
認知症ケアは「とんち」くらべ
◎本日の話は別府市にある「総合ケアセンター泰生(たいせい)の里」での逸話である。総長は雨宮克彦先生、施設長は雨宮洋子(ひろこ)さん(現在は理事長)であり、ご夫婦そろって認知症ケアの実践を先駆的に長年されてきた。はじめて訪問したとき、「福祉は文化、文化は福祉」(11月3日のブログ「福祉文化」参照)という一番ヶ瀬康子先生の思想を実践されていたので、その施設文化に感動したことを思い出す。
総合ケアセンター泰生の里の実践は、『図解 バリア・フリー百科』(日比野編著、1999)に洋子さんが「痴呆高齢者ケアの世界的モデル施設づくり」として紹介しているし、長崎純心大学で博士論文にまとめている(主査は一番ヶ瀬教授)。泰生の里のホームページ参照。
◎「泰生の里」の意味は、やすらかに生きるところ、である。人間が老いていくとき、しかも認知症になるとき、「変身と変心の関係」はどうなるのだろうか。思索の秋に相応しいテーマである。
コメント
福祉文化というと、人類が人類自身のために生活生存空間を開拓し創造する過程で、人類社会には現れた種々の社会現象である。その中で、人類に感動され追求されたものなら、いつか将来に必ず実現できるもので、人類に受けられたものなら、現実に最も需要なもので、人類に唾棄されたものなら、いつか月日が経てば淘汰されるものだろうと理解しています。
「小便老人」を「敬虔老人」に変心させることは、人類に追求されるそのものであろう。
認知症高齢者へ注意を促すのではなく、環境からアプローチすることで、認知症高齢者にとって優しい援助が可能であると思います。
認知症高齢者にとって、環境を整えることがどれほど大切なことか、ブログを拝見させていただき、改めて感じました.+゚ヽ(・c_,・。)ノ.+゚
やはり、人は誰でも潜在的に心の安らぎを求めているのではないでしょうか。対立したり、強制したりするのではなく、その人の心の居場所を見つけてあげられたら、きっと心穏やかに過ごす事が出来るのでは、と思います。
認知症老人のケアについては、生理的ケアより心理的ケアはもっと一層大切なものと思います。 自分的世界で日々過ごしている人に対して、どうやってこの世界を壊さないように豊かに生活できるのか大事の話だと思います。それとも、ケアということは一体なんですか?何がやったらだめですよ、これは禁止ですよっていうよりもっとプラス言葉を考えて使うのか、もっと暖かくてさせてあげるのか、認知症高齢者達は自分の生きがいを引き出すじゃないかと思います。
10年ほど前に私も日比野先生たちとこの施設を見学させていただき、このベランダで、このお話を聞きました。
今改めて考えると、この施設の整備目的をしっかり定めているからこのような先駆的なことができるのだと思います。
認知症高齢者のために「泰生の里」を整備して、これにより認知症高齢者が快適に暮らしていけるようにすることがしっかりとした理念としてあります。
ですから徘徊対策にベランダをつくり、おしっこしはじめたらお地蔵さんが置ける。
決して問題解決のために「徘徊できないように」はしない。
こんなところだったらどんな出来事がおこってもきちんと入所者のために対処できると思います。
課題に対してどう取り組むか、目的をしっかり定めて課題解決方法の軸がぶれないようにできるよう私も見習いたいです。
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