生活支援考2 「ふつう」
先週、あがさんのコメントの中に『何を「ふつう」の生活』と考えるのか、人によって意見はずいぶん違うだろう。先週の「ほんい」と同じく、人の生活行動や大事にしていることは、実にさまざまだからだ」と書かれていた。
あがさんに限らず、こういう声をよく聞くので、僕なりの考え方を簡潔にのべたい。
こうした意見は誰にでも受け入れられやすいが、論点を曖昧にする。
人の生活はいろいろだとか、千差万別、十人十色、様々だと表現すると、何となくそう思え、共感や合意形成しやすい魔力をもっている。
でも人の生活行動はいろいろのように見えていることも、つめていくとそこには明らかに共通点があることがわかる。
氷山の一角ほどのいち例をあげるが、渋谷や新宿など多くの人が集まるところに行けばすぐわかる。みんな服を着て歩いている。少なくとも僕が知っている限りにおいては、地球上で服を着ていないヒトの方が圧倒的に少ない。
つまり「服を着て過ごす」という生活行動の共通点があるということだ。そしてそれを前提にして、その服を調達するにあたり、自分でたくさんの選択肢の中から選択権を行使した結果着衣している服装が、多様・いろいろになっているということだ。
あがさんが言う、人が大事にしていることも一人ひとり違うだろう。その通りだと思う。でも「大事にしていることをもっている」という共通点を見出すことができるのではないか。
こだわりなんかは典型的で、人によって何に・どんなふうにこだわっているかは違っても、こだわりをもっているという共通点を見出せるということだ。だから、こだわっている者同士がこだわっている「こと」には共感できなくても、こだわりを「もつ」ことには共感できるのもうなずける(枝の話:ただし、こだわりに対立を生む要素があると、同じようにこだわっている者がこだわりそのものを否定しかねない。宗教などはその部類に陥りやすいようだ)。
こうして考えていくと、服を着て過ごす、入浴では服を着ない、寝る時は服を着替える、服が汚れれば着替えるのが一般的な日本人の生きる姿だと言え、それを「ふつう」と置き換えても差し支えないのではないかということだ。
それを「どんな服装をするか」という「選択としてのいろいろ」までを含めて、生活行動は様々と言って「ふつう」を曖昧にしてしまうと、ものの尺度がわからなくなってくる。どんな服装であろうが、「服をまとう」という生活行動の共通点を「ふつう」と捉えて、そのふつうの姿で生きていけるように応援することを生活支援というのではないか。
そうやって「ふつう」を追いかける思考を「本位で考えること」といい、どの服装にするかにその人の意思が反映されるようにすることを「本意に基づいて」という。
僕ら、人が生きることを支援する職業人として大切なことは、「ふつう」というものさししをもつことであり、その「ふつう」を追究し、婆さん支援で追求することではないか。
誤解されないために書いておくが、服を着ないで過ごす人・入浴中も服を着て入る人・寝る時も着替えないでそのまま寝る人、汚れたままの服を着続ける人は、一般的な姿とは一線を画す姿をする人ではあるが、一般的ではないからといって、人でないということではないことも付け加えておきたい。
大いなる反論を待つ!
追伸
友人が送ってくれた言葉を紹介したい。アップルコンピュータ創始者スティーブ・ジョブ氏のコトバだそうだ。
クレージーな人たちがいる。
反逆者、厄介者と呼ばれる人たち。
四角い穴に、丸い杭を打ちこむように物事をまるで違う目で見る人たち。
彼らは規則を嫌う。彼らは現状を肯定しない。
彼らの言葉に心をうたれる人がいる。
反対する人も、賞賛する人も、けなす人もいる。
しかし、彼らを無視することは誰もできない。
なぜなら、彼らは物事を変えたからだ。
彼らは発明した。創造した。人の心をいやし、奮い立たせた。
彼らは人間を前進させた。
彼らは人と違った発想をする。
そうでなければ、何もないキャンパスの上に芸術作品は見えてくるだろうか?
静寂の中に、今までにない音楽が聞こえてくるだろうか?
私たちは、そんな人たちのために道具を作る。
クレージーと言われる人たちを、私たちは天才と思う。
自分が世界を変えられると本気で信じる人たちこそが、本当に世界を変えているのだから。
コメント
和田さん、皆さん、おはようございます。
先々週に私がコメントさせていただきました内容「出来る事や知っていることを行わないのは怠惰だ」と今も自分に言い聞かせて支援しています。
先週の和田さんのブログ内容、「素うどんが食べたい方に素うどんしか食べさせない」という事は本意というベールにくるまれた私は怠惰だと思います。
確かにその方の本意は叶えましたが、では、栄養的にはどうだろうか? それで、それだけで御腹はいっぱいになられたのだろうか? それを考えていくのが支援なのではないでしょうか?
今週の和田さんのブログでの言葉「服を着ないで過ごす人・入浴中も服を着て入る人・寝る時も着替えないでそのまま寝る人、汚れたままの服を着続ける人」そのいった方に対して、服を着ていただけるように、入浴中に服を脱ぐように、寝るときに服を着替えるように、汚れた服を着替えるようにお手伝いしていくことが支援なのではないでしょうか?
それをいかに、その人にとっての本意を大切にしながら、嫌な思いをさせないで行うのが支援だと思います。その人の拘りをいち早く見つけ、それを大切にしながら支援していく事が大切なのではないでしょうか?
和田さん、いつも済みませんが、ブログをお借りいたします。失礼します。
かゆしさまへ
お返事、遅くなり大変済みません。九八才のAさん話…とても素敵ですね。
私、とても色々と考えさせられました。支援させていただく御爺さん、御婆さんに本当に寄り添えているのだろうかと…皆さんの沢山の素敵なコメントを読み考えさせられ、支援の仕方が変わりました。今は、それぞれの方と、以前より深くお付き合いできるようになれた気がします。本当に有難うございます。
Makoさまへ
審判…大変考えさせられました。それがゆえ…直ぐに、お返事できなくて大変済みません。私…審判していました…。今は、絶対にしていないとは言い切れませんが、そうだったんだな…と思えました。教えていただいて本当に有難うございました。大変有難いです。
それと、今は御婆ちゃん、御爺ちゃんとちゃん付けにすることは大変失礼なのだと思えていますが、名前以外の呼び方に対しては…やっぱり悩みますね…。
7月6日、横浜まで講演を聞きに、大阪から追っかけしていまいました(*^。^*)
日々業務に追われ忘れていた新鮮なものを思い出させてもらいました。ありがとうございます(^_-)-☆
老健で1年勤務された中で、利用者を基地まで行き仕事をして帰ってくるという、我老健ではありえない発想、行動力です。
日々の散歩、レクだけでも行き詰まっている現実です。写真のようになるまでにはスタッフ、家族の説得、理解、またリスクの問題などあったと思いますが、いきさつなど教えてください。
このままではあかんと思いながらも、何もできず悩んでいます。一緒に新幹線乗りたかったな♪
ご期待に応えて反論させてもらいます。
和田さんの主張のポイントは、次のところでしょうか。
『僕ら、人が生きることを支援する職業人として大切なことは、「ふつう」というものさしをもつことであり、その「ふつう」を追究し、婆さん支援で追求することではないか。』
和田さんの言いたいことはわかります(たぶん)。
一般社会と広く通じ合える、共通ベースの「ふつう」とは何かを考え、具体的な支援の目標として取り組もうとするのが、和田さんの言う「ものさしをもつ」ということの意味でしょう。
でも、今の福祉・介護の現場では、まだまだ昔の収容施設から受け継がれている変な空気や変な常識が横行しています。
そういう現場で和田さんの言葉が受け止められると、「ふつう」の中身を考え直さないまま、「ものさしをもつ」部分だけが取り出され、本人の気持ちを無視した支援を正当化する理屈に使われかねない、と僕は感じるのです。
だからこそ、僕はあえて「ふつう」が様々であることを強調しておきたい。
認知症介護の世界にありがちな「認知症って、こうだよね」とか「これが普通だよね」という決め付けや思い込みを否定したいのです。
おもいがけず、自分が大事な人をみおくる事になったばあちゃま。「私、ボケとるんだろうけど、今はボケられない。」と真顔で言われた。大事な人の命が少しずつ消えていく。多くの人がそれぞれの立場で関わり、支援している。私は何をすべきか。
ばあちゃまが、大事な人を大事にみおくりできるために、ばあちゃまの体調維持やばあちゃまが気持ちを自分で表現できるよう支援しようと決めた。
ばあちゃまが大事な人を大事にみおくりできる事が、ばあちゃまがこれから生きていく力になると信じて。
生活は十人十色で様々。みんな違って当たり前。
人間は、群れでないと生きられない生き物。基本、夜行性ではなく、体内リズムが崩れると、心身機能に支障が起きる。
ふつう を考えたら浮かんできました。
疲れました。
おやすみなさいませ。
人をふつうに支援していくためには、その人のふつうを知らなくてはならないと、いつもおもっています。
認知症の方に限らず、いつも寝るときは下着の人に、その上からパジャマを着せて寝かせようとする…なんてことをしたら、『パジャマを脱いでしまう』暑くてやっていても、『やたらに裸になりたがる』等といわゆる『問題行動』として片付ける事に…
結果人それぞれに『ふつう』は存在すると考えます。
和田さん、皆さん、こんにちは。
和田さん、済みませんが、まんまるさんにコメントさせてくださ…。
まんまるさまへ
コメント読ませていただきました。うまく表現できませんが…泣けてきました…。素敵な内容の文…有難うございました。
「本意と本位」の話しはとても考えさせられます。私が今まで体験した、職場内の意見の食い違いも全てここにある気がします。私は本意を尊重したいと思っています。例えば転ぶかもしれないお年寄りが立ち上がろうとした時、気にはするが、なるべくなら手を出さずに立ってもらおうとする職員と「危ないから座ってて!」と制止する職員がいます。多少のリスクを負ってでも自由に行動する権利があるはずだと考える職員と、安全を第一に考えるのが鉄則だと考える職員。例えば醤油をかけたいというお年寄りに、好きな味付けで食べる権利があるはずだと考える職員と、健康管理の為には減塩等、好きにさせないのが仕事だと考える職員。どちらも一理ある気がします。バランスの問題なのでしょうか? そもそも答えは無いのでしょいうか? それとも突き詰めれば答えがあるのでしょうか? 人間には管理が好きなタイプと嫌いなタイプがあるのでしょうか?
私の母は、裸で就寝することを20年続けています。将来、施設に入所したら、“夜になったら裸になる困った人”として、何とかしてパジャマを着せられることでしょう。こんな人もいて大丈夫と思って頂ける社会福祉になって欲しいと思う反面、困った人と思われたくないので、今からパジャマを着て寝て頂戴と、母にお願いしています。
素うどんの件ですが、それだけで満腹にはなるでしょう。足りなかったらおかわりすれば良い。
ただ、そこで認知症の支援者として、栄養バランスにも配慮しなければいけない。御本人がそそられる様な、おかずを、「こんなのもあるよ。」と添える事がが大切ではないでしょうか?だって、その時だけ善ければヨシではなく、御本人の人生には未来があるから…と考えます。
普通って、その人その人の価値観のことでしょうか?
服を着たままお風呂に入るって言うのは別として、パジャマに着替えないで寝る人、何も着ないで寝る人、明日着る服を着て寝る人は身近な人のなかにもいます。
それは、その人にとっては普通のことで、だからと言って、誰に迷惑を掛けるわけじゃないのに、それが認知症になって、集団で生活しなければならなくなって、お世話をしてもらわなくてはならなくなったとき、お世話をしてくれる人の価値観で、
「寝るときはパジャマに着替えるもの」
それが普通!と言われたら、70年以上もパジャマを着たことのない人はずっと普通じゃなかったわけで、いくら「パジャマなんか着たら、気持ち悪くて寝られない!」と拒否しても、普通に近づけるために毎日毎日「パジャマに着替えましょうね!」と『パジャマに着替えて寝させる』と言うことが職員間の援助目標となり、パジャマに着替えさせることができた人が、いい介護者だとしたら、それはどうなんだろうと、私は思いますけど…。
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