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和田行男の「婆さんとともに」

生活支援考1

 自立支援だと叫ばれ出し「生活支援」とか「生きること支援」など、さまざまに「生活」がキーワード化され、クローズアップされてきている。生活という言葉は幅広いように思えるが、これも突き詰めればわかりやすく、それを支援するというのも難しい概念ではない。
 難しくしているのは自分の中にもいる専門家だけで、頭から生活を眺めるのをちょっと脇に置いて、人々の生きる姿から生活を思い描き、その支援を考えてみてはどうだろうか。

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 平成11年だったか12年だったか忘れたが、グループホームが制度上草創期の頃、あるところから認知症グループホーム・セミナーの講師依頼があり、喋りに行った。僕ともう一人、別のグループホームの管理者が話すというセミナーだった。
 控室でもう一人の方の資料をいただき、それをパラパラめくりながら出番を待っていたのだが、その資料に週刊予定の日課表があった。それを見ていると、その表の中に週に2回だか3回「食事づくり」というのがあったので聞いてみると、1週間の予定行事として、食事を作ることに婆さんが参画できる日が設けられていたのだ。食事は一般的には1日3食・1週間で21回の機会があるが、そのうちの2~3食のみ婆さんがかかわり、それ以外は厨房でつくってきたものを食べさせているというのだ。

 そこのグループホームでは「食事を作ること」は日常生活上の行為ではなく、非日常生活上の行為ということになるのだが、どうにも僕的にはしっくりこなかった。
 僕は、「食事を作る=調達する」という行為は日常生活上欠かせないことであり、認知症になるまで当たり前のようにしていたことだから、認知症になってもできるなら自分で・自分たちでする方が当たり前だと捉え、そのことが成せるように応援していた。
 それは何も食事だけのことではなく、風呂も決められた曜日の決められた時間にしか入れない・入らさないのではなく、可能な限り毎日のように、しかも寝る前に入れるように応援していたし、出て行きたい時に出ていけるように、施錠をしなかった。
 そうしたことは日常生活のごく当たり前の感覚から、より日常生活に近い生活を送ることができるように専門的見地や実践力で応援していたということだ。
 つまり、日常生活をごく当たり前に送っていた人が当たり前のように送れなくなり、結果として24時間専門職がいる場所(特養でもグループホームでも)に移り住まわされただけのことであって、移り住んだ人=何もできなくなった人とは違う。だから「できない」を前提に考えるのではなく、「できるのか、できないのかを見極める」ことによって、「必要な支援は何か」と考えていくことが仕事であり、それが僕らの専門性のひとつだからである。
 だとしたら、週に2~3回しか日常生活上欠かせない食事を作る(調達する)ことがないシステムは、「2~3回なら機会を与えてもよい」と考えているか「2~3回しかできない能力だと決めつけている」か、いずれにしても「本人のそれまでの生活を考えて」とか「本人の能力に応じて支援する」といったような、人間としての生活を継続できるように応援するという自立的主体的な生活の継続に向けた「支援」の考え方ではなく、「認知症があるのだからあなたのことは私に任せておきなさい、悪いようにはしないから」といった保護(者)的な生活への転換を基本に置いた考え方だと言えるのではないか。
 僕はどっちでもいいとは思っているが、少なくとも後者は「生活支援」とか「生きることを支援する」とか「自立支援」とかといったこととは違うんだということを明らかにしてもらえればよいのではないか。どっちもが同じような言葉を使うとわかりにくいし、本質が曖昧にされてしまう。僕なら「ホテル並み生活」への転換をさせるのが僕の仕事ですと宣言する。
 つまり、与えられた食を与えられたままに食べている人は、食を自分で調達できない状態にあるか、調達できても調達させてもらえない状況に置かれているかのどちらかであり、一般的な人間の生きる姿とは違うということだ。前者の代表選手は「乳幼児」であり「発達障害という状態にある人」、後者の代表選手は「病院にいる病人」であり「刑務所にいる囚人」である。
 よく夫という立場にいる人が「俺は嫁さんに食を与えられている」という人がいるが、自分もそのために働いていることを忘れた発言だ。この国のほか、資本主義国でも社会主義国でも、政治経済体制の如何にかかわらず、食に必要なものとお金を交換する社会にいる者は、食うために「労働」する。食に必要なものを自力調達する社会にいる者は「耕す・狩り」をするのだ。だまっていて・じっとしていては食にはありつけないのが「ふつう」のことであり、それが「ふつうの生活者の姿」である。
 その「ふつうの姿」が壊れる要因の一つに認知症がある。
 だから僕らは認知症のことを知ろうとする・理解に努めようとすることで、認知症があっても「ふつうの姿」に戻れないかと考えるし、そのためにさまざまな手立てを編み出し実行する。生活支援とは、ただそれだけのことである。
 ただ、ただそれだけのことがとても難しいのは、生活の主体は本人しかいないからであり、その本人になりかわれないし代弁できない、支えるといえるほど物理的に支え手がないからだ。
 そのことを合理化して「生活支援」を語ると、人間が一般的に生きている姿から遠いところへ追いやっても、その違いに気づけないようになるのではないか。それを専門バカというのかもしれない。
 また、このセミナーに来ていた、これからグループホームをやろうとしている人からもらった「犬を飼うことが痴呆老人には効果があると聞いたが、なぜ和田さんのところでは飼わないのか」という質問にはたまげたが、その当時のこの国における支援策の到達点だと認識した。つまり、認知症に良いと思えることをするところがグループホームであるという捉え方が一般的だったように思う。だから「食事づくり」も普通の生活行為ではなく、認知症に効果があるプログラムということになってしまうのだと。
 僕は、グループホームや特養は、認知症になっても生活を主体的に送ることができる支援策のひとつだと考えている。もっとわかりやすく言えば、眼鏡のようなもので、眼鏡は目を治す道具ではなく、目が一般的な状態でなくなっても眼鏡があることで一般的な姿で生活できる自助具だということだが、それと同じだと考えている。
 僕は、専門バカにならないように「ふつうの感覚」を忘れないようにしたい。

追伸
 先週の「ほんい」にはたくさんのコメントをいただいた。おそらく過去最高ではないかと思う。皆さんの「ほんい」への関心の高さをうかがい知ることができたので、またの機会に、僕が深めている「本意と本位」について書きたいと思う。

※和田行男さんのブログ「婆さんとともに」は、原則月曜日更新です。


コメント


 自宅で暮らす90歳の婆さんが、1日3食365日ごはんを食べているでしょうか?
 1か月後の食事のメニューが決まっていることが普通でしょうか?
 「食べる楽しみ」を奪っていないのでしょうか?
 食べたくない時だってありますよね。食べたいものを食べたい時に食べるのが普通ですよね。
 ある爺さんから、「俺には休みがない」と言われました。食堂に行くのがチョット遅れたら「どうしたんですか?食事の時間ですよ」と何度も言われたり、さっきある介護士に「今日はいらない」と言ったのに、また違う介護士が来て「ごはんですよ」と言う。「さっき、食べないって言ったよ!!」と言いたくもなるよね。
 お風呂も同様。色んな人が何度も誘いに来る。「全く自分には気が休まる時がない」と。みんなは日課を意識して生活していますか?「管理された生活」から少しでも「普通の生活」に近づきたいですよね。そのためには、まずは自分たちが変わることと、あきらめないことかな。


投稿者: 特養ホーム・ICHI | 2009年06月30日 14:33

 何を「ふつう」の生活と考えるのか、人によって意見はずいぶん違うだろう。先週の「ほんい」と同じく、人の生活行動や大事にしていることは、実に様々だからだ。
 食事だって、自分で食事を作るのが「ふつう」の人もいるけど、すべて外食で済ませるのが「ふつう」の人もいる。昼夜二食とか、夜はアルコールだけとか…僕の周囲の知り合いを見ても千差万別だ(中高年の独身男性などは、かなり無茶苦茶なのが「ふつう」かも?)。
 ところが施設やグループホームに入ったとたんに、それぞれの「ふつう」として定められた日課を強制されてしまう。一つ屋根の下に住む以上、集団のルールに従うしかないとも言えるけど…
 暴論かも知れないが、ホームの形態をもっと弾力化して、近隣の商店街(銭湯と居酒屋があればOK)とタイアップした下宿屋型みたいのがあってもいいと思う。いろんな「ふつう」が選べたら、ということを期待するのは無理だろうか?


投稿者: あが | 2009年07月02日 07:35

7月1日横須賀で行われた講演会に参加させていただきました。
第1部で『なりたくても認知症になれない、なりたくなくてもなってしまう。』と話されていた事がとても印象に残りました。
和田さんの講演は上方漫才のようなリズムで身振り手振りを交え、最後まで集中して聴く事が出来ましたが…
2部で「自分は認知症にならない為に努力しているが、どうしたら認知症にならないか?」と質問が出た時に、始めは1部の記憶が残っていないか理解出来なかった為か…と残念に思いましたが、
会場の皆さんにも『思い詰めるより友達つくろう…!』と和田さんの解ろうよ!の気持ちがより強く伝わったと感じました。
質問に答えてくださり有難うございました、以前よりこんな時はどうしたらいいのかと答えが出ずモヤモヤしていましたが、スッキリしました。
(ワニのシャツとても似合っていましたよ♪)


投稿者: しーちゃんです♪ | 2009年07月02日 09:15

 訪問介護サービスにおいても、「ふつうの生活者の姿」という考え方は同じですよね。 でも、現在の訪問介護サービスの提供時間や報酬単価はそれを想定しているのかな??と。 また、ケア者もそれを意識しているのかな??と。 
 以前に和田さんがお話されていた「認知症対応型訪問介護」というサービス区分でもあれば、また、変わってきますかね?


投稿者: 宅老のひとり言 | 2009年07月02日 15:12

 グループホームで働いています。以前、療養型施設で働き、生活からかけ離れている事に居心地悪く、グループホームに逃亡してきました。
 そうすると、いくらでも一人ひとり入居者の自宅生活を継続できるように…と欲がでてしまってます。その日のスタッフの人数、時間帯、力量に関係なく求めて突っ走ってきたのですが…。
 残業は1時間2時間は当たり前の容量オーバー状態。去年から軌道修正に取り掛かっています。築き上げたものは大切にしながら…。何かアドバイス頂けますか?


投稿者: みーこ | 2009年07月04日 11:50

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
和田 行男
(わだ ゆきお)
高知県生まれ。1987年、国鉄の電車修理工から福祉の世界へ大転身。特別養護老人ホームなどを経験したのち97年、東京都で初めてとなる「グループホームこもれび」の施設長に。現在は大起エンゼルヘルプでグループホーム・デイサービス・小規模多機能ホームなどを統括。東京都地域密着型サービス事業者連絡協議会代表としても活躍。2003年に書き下ろした『大逆転の痴呆ケア』(中央法規)が大ブレイクした。

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タイトル:『認知症になる僕たちへ』
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