ひきこもりだった僕から(part2)
上山和樹氏の『「ひきこもり」だった僕から』によると、著者は中3から不登校となり、高校中退、フリースクールに通っていた。「強制されてやらされている」ことに十代半ばで気づいてから「ヤリタイコト」を必死で探したが、自らの強い性欲に途方に暮れるだけで、あとは底なしの空虚。「天職」を探しても「これだ、このために生まれてきた」と思える対象に、どうしても出会えない。生きていく自信の基盤がないので、息つく暇もなく探求した。何の意味付けも保障もない時間と場所に、一個の肉塊として、狂いたくなるほど放置されていた。
part1で「「与えられた自分」を「自分で選び取った自分」に転化させようとして失敗し、途方に暮れてしまったのが、あの状態だった…。」という言葉を紹介したが、虐待やいじめのトラウマがあれば、ぼくのように“怒り”という「負ののりしろ」でこの世に向かっていけるのに、それもない。“女性”というのりしろでも社会とつながっていない。人が奔放に女性と付き合っているのがうらやましくてしようがない。声かけてもらうこともあるんだけれど、「性」が怖い。離人感。今流行りの完璧な草食系男子。
ぼくも発病し入院して「途方に暮れる」前の浪人時代に、離人感に襲われた。ぼくひとりが穴の中に落ち込んで、行き交う人たちは上を通り過ぎていく。現実に触ることができない。実感がない。カップルがうらやましくてしようがない。心底寂しかった。
彼は空虚感の塊だった。ベビーカーを押す女性がいる。妊娠して、育てている。どうしたら「自己実現はこれでいい」と思えるようになったのか、コツを教えてほしい。バブル景気でのブランド志向の女性たちに対する「欲望」とないまぜになった激しい「憎悪」。「ぼくは今、自分に与えられた「本当の使命」に合致した努力をしている」と感じたかった。心の底から納得できるモチベーションがほしい。天職がほしい。
ぼくが離人症だったときには、そうではない、からだで知る「無駄な努力」が必要だと感じていた。なぜならぼくは、徹底した世間知らずだったから、世間を知るためには、からだで知らなければならない。だから肉体労働ばかりをしていた。そして、虐待の後遺症のニヒルな目標のない投げやりな気持ちを、自分のからだを痛めつけることで発散していた…。それが発病を準備するものとは、つゆほども思わなかったが、「このままでは自殺するか、犯罪者になるかどっちかだ」と、思い詰めていた。
「天職」なんて、今のぼくなら「天職なんて存在しない」と自信を持って言える。なぜなら、人も獣であり、欲望のままに遊ぶことが自然だからだ。就労は自分の遊ぶ時間を切り売りして、生活のためにイヤイヤやるものだから。しかし人生経験が乏しいと、「就労しないと自分の存在価値がない」とまで思い詰め、生きづらさの源の一つになる。
本の中から、登校拒否になった中学時代の印象的なエピソードを。父が1か月間家に帰ってこなかったことがあった。理由を母に尋ねると「なに言ってるの。毎日帰って来てるよ」。何と父はぼくが寝た後、夜中の1時頃に帰って来て、ぼくが起きる前、5時に起きて会社に行っていたのだ。心底ゾッとした。「大人になる」にはここまでやらないと許してもらえないのか。
ぼくも高校時代には「大人になることは自由を捨てて、社会の歯車になることだ」と思い込んでいた。大人の男の生活について、毎日同じことを繰り返す、父しか知らなかった。日本特有の、過労死するまで働かせる会社の仕組み。それが社会に出る前の中学生を怯えさせ、登校拒否の一因になっていった。
彼は「辛い体験を価値あるためのものに変える必然的欲望」を考え続けた。考えることに煮詰まってQ2ダイアルで知り合った娘と電話で遊ぶうちに暴力団からの脅し。親に30万円を頼るという最低の醜聞を引き起こした。
しかしこのくらいの失敗は若いうちにやっておいてよかったと思えるようになると思う。実際、母と違って父の対応は優しかったという。醜聞をきっかけに、「父子が本音で人生について語り合うきっかけがあったのになあ」とぼくは思う。その父も上顎ガンが発覚して、彼は「就職して食っていくため」の取り組みを始める。大学に復学して、ばかばかしい単位取りを続けた。病室で父が亡くなる前に発した一言。「好きなことやれよ」。「何と感動的なシチュエーションと感動的な言葉だろうか」とぼくは思う。
卒論を提出した夜明けに、神戸の大震災に遭う。足の踏み場もない散乱したガラスの中、お金なんか役に立たない状況だ。みんなで倒れたタンクを持ち上げたり、お隣さんから無償でジュースをもらったりする。感動的な高揚感。はじめて自分の力で自分の肺を使って呼吸することを許してもらったような開放感。しかしライフラインの復旧とともに、この感動的な協力体制も消え、再びお金の経済が始まり、彼の「窒息」の日常が始まった。
28歳、心理に興味があるから「精神科医」になろうと予備校代を出してもらうが、予備校生活に耐えられなかった。「法律」の資格をとろうと高額な教材を入手したが、もう完全に降参して30歳の誕生日を迎え、絶望の最後の仕上げ。「俺はお母さんの失敗作や。この世に適合できない人間として生まれてきた。ごめん、あきらめて」。
高校中退の関連で知り合った人を通じて友人ができ、京都で一緒に住むようになった。彼の社会活動を通じて大阪の「ひきこもり親の会」の会合に出席。5分間だけしゃべったことが好評で、初めて「明るい昼の世界」から求められた。チャンスと歯車が合い活動的な生活。数多い講演会や地域通貨の会や犯罪被害者の会との出会い。弟の結婚式で司会もやった。
ひきこもりの親たちからの依頼で「ひきこもりの訪問活動」を開始するが、ボランティアでは続かない。精神科医にも行政にも「本人をつれてこなければどうしようもない」と言われている親たちは、「お金をとって来てくれる」引出し屋に望みをつないだりする。しかし親から金をもらうイコール親の世界の住人、本人は会ってはくれないかもしれないと悩む。
でも、こうして社会に出せない彼の「ダークサイド」の情念の世界が、「ひきこもり」というキーワードを通じて「公の」明るい世界とどんどんつながっていく。
不登校のための家庭教師も引き受ける。そして初めての一人暮らしも。舞い込んでくる話をどんどんこなしていくだけで時間が過ぎていく。さすがに2度ダウン。ひょっとすると別の形で「優等生」をやろうとしていたのかもしれなかった。
雑誌記者からの「写真」と「実名」での掲載依頼を承諾。いままで聖域としてきた「熱過ぎる核」である実家の取材も決意するが母からの拒絶。もう引き返せない。
と、自伝はここで終わっている
上山氏は、ちょっとしたきっかけから歯車が合い始め、トントン拍子に行ったのだが、これがひきこもり者の特に典型であるはずもない。「ひきこもり」という共通項を除けば、一人ひとりすべてのことが違う。「自殺しないためにひきこもっている」とある精神科医が言っていたが、ひきこもりから出ることが本当に望ましいかどうか、今はひきこもりではないぼくには判断できない。ただ、欲望には正直になったほうがいい。そして「ひきこもり続けて、餓死した人もいる」という重い現実があることを忘れてはならない。
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