「夢の痕」から考える
さいたま新都心には、ビルに囲まれた巨大な空き地があります。これは、東京タワーに替わる新タワーの建設候補地を東京都墨田区と争って破れた「夢の痕」です。
写真1 さいたま新都心の巨大空地
新タワーの建設には、様々な立場から有象無象の夢を託されていたに違いありません。しかし、私の凡百の人間としての感想は「新タワーが来なくてよかった」に尽きます。旧与野市に隣接する地域に古くから暮らしてきた多くの住民にとっては、固定資産税の急激な上昇や街の騒々しさをひとまず回避できました。それはとりもなおさず、このあたりの地域に障害のある人や高齢者がこれからも暮し続ける可能性が残されたということでしょう。
さて、このさいたま新都心地区のバリアフリーは、実に行き届いています。確か、県の高官で今や「品格の女王」の誉れ高い方が、さいたま新都心では「日本に類例をみないバリアフリーを実現する」とおっしゃられたとか。
JR「さいたま新都心」駅(京浜東北線)と「北与野」駅(埼京線)を結ぶ間は、地上の歩道と高架歩道橋のすべてにおいて、段差のない造り・直線で構成される点字ブロックの敷設等が徹底され、高架歩道橋には「けやきひろば」という憩いの空間を設けつつ、地上に降りるためのエレベーターも要所ごとに設置されています。
この地区の点字ブロックは夜間、交差点やエレベーターの設置箇所ごとに赤いライトが灯る工夫まで施されており、いかにもお金をかけた造作になっています。
写真2 夜に光る点字ブロック
ただ残念なことに、この地域は多くの市民にとって日常の暮らしとは縁の薄いところです。そこで、この地区のバリアフリーの恩恵にあずかる人はさほど多いとは思えません。地域の暮らしを支援する観点からバリアフリーを考えると、地域特性や街づくりの目標との関連で計画的に実現していくことが重要ですから、「既存不適格」の箇所を多く含む暮らしに密着した市街地こそ優先的に進められるべきでしょう。バリアフリー新法にいう「重点整備地区」はまさにそれに該当します。
それでも、前回のブログで示した「マンホールの蓋のでたらめな管理」がみられる北浦和駅周辺は「重点整備地区」ですし、都市部における重点整備地区の多くは過密による弊害を避けることのできない地域です。歩道を自転車が行き交い、不法駐輪の自転車は溢れ、時間帯によっては通勤や買物の人でごった返すところですから、物理的な設計・施工・管理の面だけからでは、バリアフリーの実現が難しい性格をもつのではないでしょうか。
つまり、このようなわが国の都市部の地域特性を踏まえて地域生活保障を展望する場合、バリアフリーの実現には、「設計の力によって障壁を乗り越える」発想だけではなく、ガイドヘルパーのような人的支援を含めての推進が必要不可欠であると考えています。
下の写真は、デンマークのコペンハーゲンの街角で、電動車椅子に乗る障害のある女性とパーソナルヘルパーがともに街に出かける光景です(北九州市立大学・小賀久先生提供)。
写真3 パーソナルヘルパーの外出支援-コペンハーゲン
写真4 コペンハーゲン市庁舎前広場の点字ブロック
点ブロックの敷設のあり方を含めて、コペンハーゲンはさいたま新都心のようなバリアフリーの行き届いた地域ではありません。物理的なバリアフリーも追求されてはいますが、外出に伴う困難の社会的克服には人的支援を併せて重要視してきた国です。公共事業の「設計・施工」のあり方を工夫するだけでは真のバリアフリーが実現するとは考えないのでしょう。
デンマークの「パーソナルヘルパー」は、障害のある人の意思と生活ニーズに即して日常生活上のあらゆる支援を行います。日常生活の多くを共にしながらちょっとした居宅支援に外出支援、暮らしの中での話し相手・相談相手としての役割を含め、支援の範囲や重点は障害のある人の自己決定に委ねられています。
対して日本では、ホームヘルパーがガイドヘルパーとして外出支援することを禁じているように、生活ニーズを生活のトータリティーから断片化した上で、それに対応する断片化されたサービスを提供するという仕組みの問題があります。ホームヘルパーは身体介護と家事支援、ガイドヘルパーは外出支援というように機械的に分けてしまうのです。
障害のある利用者の側から言えば、個人的で私的な暮らしの中に入りこんで支援を提供する人がヘルパーですから、お互いの性格や癖も知った上で信頼のもてる関係性を築かなければ、安心したサービス利用にはなりません。ホームヘルパーとガイドヘルパーが異なる人で、障害のある人の側がそれぞれの人に質の異なる気遣いをしなければならないとすれば、窮屈な暮らしに疲れて果ててしまうでしょう。
例えば、自宅でヘルパーとお好み焼きを作ろうとしたときに、お好み焼きソースと青海苔がないことに気づいても、そこにいるヘルパーと一緒に買物に出かけることさえできない制度上の制約があるのというのは全くの不合理ではないでしょうか。
生活を切れ目なく支援しつつ、街でともに暮らす内実をゆたかにしていくこと-ここに、地域でともに生きることを阻む障壁を乗り越えていくというバリアフリーのスピリットがあると考えます。
さて、「夢の痕」の今後についての私見です。ここには高層ビルなどを建てるのではなく、新宿御苑のような森のある公園の中に、グループホーム・保育所・特別養護老人ホーム等が点在するような街にするというのはいかがでしょうか。新都心に働く人と子どもたち・障害のある人・高齢者がともに暮らす「夢のようなノーマライゼーション・ゾーン」を目指すのです。すると、この地区の見事なバリアフリーは世界の注目を集めるでしょう。
コメント
こんにちは。ブログを読んでいて個人的に思い出したことがあるのでコメントを書かせていただきます。
日本のヘルパー制度は、ホームヘルパーとガイドヘルパーに分かれている、と初めて知ったのですが、先日介護実習でデイサービスに研修で行ったのですが、このようなお話を聞きました。
そのデイサービスでは、デイで利用者さんの支援を行う方と、利用者さんが自宅へ帰った後支援を行うホームヘルパーの方が働いているらしいのですが、話を聞いたところデイでのヘルパーさんとホームヘルパーの方では壁があり、少しぎくしゃくした関係にある、ということでした。
私はこの事実に驚きました。ヘルパーの方がぎくしゃくしていて、利用者さんは本当に安心するのでしょうか。デイでの方と家でのヘルパーさんが仲が悪くて楽しい気持ちになるでしょうか。
利用者さんが安心して過ごせて、快適に生きることができるように支援するのがヘルパーさんの仕事だと思っていたので、私は少しショックを覚えました。
しかし、このような状況が生まれる原因はホームヘルパーの方がガイドヘルパーをしてはいけない、という制度にあると思います。
デンマークのようにパーソナルヘルパーなるものが日本でも普及するといいのに、と残念に思います。
私は現在、ある結婚式場でアルバイトをしているのですが、そこには関東だけでなく地方からもたくさんのゲストの方々がいらっしゃいます。その中には高齢者の方々も少なくありません。
しかし、うちの結婚式場はあまりバリアフリーが整っているとは言えない状況です。スロープ自体はあるものの、4、5段の階段を回避するのに何十メートルという回り道をしなくてはなりません。せっかく、遠方からお越しいただいた高齢者の方々をお迎えする体制が整っていないのです。
たくさんの方々がいらっしゃる場所にこそ、バリアフリーが大切だということを実感しました。
バリアフリーという言葉は結構昔から耳にしていましたが、今現在でもバリアフリーが身近に感じられないのです。今の世の中が、バリアフリーを身近に感じることのできる世の中になっていくことを期待しています。
先日の講義の内容を受けてコメントさせていただきます。
障害者の方々が健常者と同じように生活できる環境を整えることは大切であり、私もぜひたくさんの人がそのことを理解し、実行することを望んでいます。しかし、車への乗車は少し考えなければなりません。
この前の講義では、障害者の方でも乗ることのできる車を紹介していただきましたが、そのような車ができたことだけでは私は不安でなりません。なぜなら、健常者でも車での交通事故があるということは、障害者の方が運転している車でも交通事故の可能性は十分にあり得るからです。
宗澤先生は「健常者の運転と全く変わらない」とおっしゃっていましたが、つまり裏を返せば、変わらないような事故も考えられるということです。
車を運転している人は、みんな万が一に備えて保険に加入していますが、そのような人たちでも事故を起こしてしまえば、その後の人生全てをかけて償いをしなければなりません。もし、保険金だけで足りなければ自分で働いて遺族の方に払わなければなりません。
もしそうなったら障害者の方を雇ってくれる場所はあるのでしょうか、それも前科一犯の人物を。
また、万が一の場合の応急救護をスムーズに行うことができるのでしょうか。
私は前にも書いたように、障害者の方々が、健常者と変わらない生活が送れるようになることを望んでいます。障害者用の車もその一つとしてとても大きな成果だと思います。私が言いたいは、その成果を生かすための環境をもっと考えた方がよいということです。
上の例でいえば、障害者の起こした事故は全額国が保障するとか、働き口を確保する制度を充実させるとか。また、障害者が自動車に乗るときは必ず同乗者を乗せなければならない(普通そうだとは思うが)とか。
一つの成果に浮かれすぎることなく、そのことに潜む危険や問題をしっかりと見つめ、フォローしていく。このような考え方が必要なのではないでしょうか。
街中で特に駅前では不法駐輪が多く、歩行者が歩く十分なスペースがないところがあります。点字ブロックの上に駐輪している自転車があったりして、障害者の方にとってみれば危険な場所になっています。
すべての人が気持よく生活できることを考えていかなければならないとあらためて感じました。
都会の道路は交通量が多い割に信号が変わるのが速い気がします。これはけがをしている人や歩くのが遅い老人にとっては危険だと思います。
また盲目の人のために音が鳴る横断歩道がありますが、その数も少ないと思います。目が見えない人たちにとって外を一人で歩くだけでも危険なのに、交通量の多い交差点などをわたるには、音がなくては危険だと思います。
お金がかかることではありますが、そういった身近な危険を少しでも取り除いていくことが、障害者やお年寄りの命を守ることにつながると思います。
最近埼玉市でもコ・メディカルが重視されるようになってきていると思います。家のまわりにも様々な施設が建てられてきています。その様な中でこれ以上施設を増やすよりは、いっそ緑豊かな公園だけを造れば魅力的なスポットになるのではないでしょうか。
そうすれば、その公園のために新都心までやってくる老人の方や障害者の方が増えて、新都心のバリアフリーが活かされるのではないでしょうか。
この前初めてさいたま新都心に行きました。確かに、エレベーターが設置されていたり、段差が少なかったりとバリアフリーが行き届いているようでした。
しかし新都心はショッピングモールなどの若い人向けの施設なので、徹底したバリアフリーは必要ないように思いました。あって困ることはありませんが、整備されるべきところを優先的に考えた方がいいと思います。
また、日本ではホームヘルパーとガイドヘルパーが分かれていることを初めて知りました。分けることによってどのような意義があるのでしょうか。私には不便な点しか浮かびません。
福祉にはまだまだ多くの課題があるのだなと思いました。
私は仙台から埼玉県に移住しましたが、埼玉県に初めて来て、埼大周辺や街中などを歩いて驚いたのは歩道の狭さです。加えて車道にも自転車が通れるスペースが確保されているところが少ない。自転車が歩道を走らざるを得ず、反対から歩行者が来たときにやむを得ず自転車が車道に出るときに車と危うくぶつかりそうになる光景をもう何度も見ました。
このように健常者ですら常に気をつけなければいけない状態では障害を持つ人が安心して外に出れる街にはなりえないと思います。
より障害者にやさしい街に変えるのは急務ですが、狭い空間ではバリアフリー整備の効果も半減してしまうし、かといって街の構造自体を変えるのはとても難しいことだと思うので、やはりこのブログでも言われているように、人的支援の必要性は大いにあるのではと思います。
ホームヘルパーとガイドヘルパーが区別されていることをこのブログを読んで初めて知りました。道路や建物の設計や施工だけでなく、ガイドヘルパーのような人的支援の側面からもバリアフリーについて考えることが必要だと感じました。
自分は最近まで新都心にバイトで通っていまして、言われてみるとたしかにバリアフリーが非常に行き届いていたように思えます。ただこのブログを拝見するまでは特に気づいたり、気に止めることもありませんでした。自分にとってはバリアでないものだと日常生活ではなかなか気がつけないものですね。
アリーナに隣接しているけやき広場という場所のとある飲食店で働いていたのですが、今思えば広場内部も段差がほぼ見られず、階段横にスロープが併設されていたりしていて、イベントの際には車椅子で訪れるお客さんなどもたくさんいらっしゃいました。
自分の父は介護福祉士として特定養護老人ホームで働いています。正直給与はそこまで高額ではなく、一概には言えませんが仕事の内容の大変さからするとむしろ低額な方だと自分は思います。実際、社会的に見ますと、同じく人の手助けを行う看護師などと比べますと、給与面・待遇面で劣る部分が多いと思います。
また、父は一般の企業から転職という形で介護士になったのですが、資格の取得の条件などから一般的には父のように他職からの転職や、現場経験者の資格取得が難しいと言われています。
この現状をなんとか打開しないと、十分な介護士の人員・質が確保できず、それが要介護者、またその家族の方たちにとってもある意味「制度的・社会的なバリアー」にもなるんではないかと自分は考えます。
話はそれてしまいましたが、先生の講義を通して、最近バリアフリーなどについて考えることが多くなりました。自分にとっては講義という形でしたが、様々な形でたくさんの人が意識するようになることで、どんどんと本当の意味でのバリアフリーがひろがってゆけばいいなと思いました。
私には建築関係の学部にすすんだ友人がいます。彼とはバイト先であったのですが、そのバイト先の建物の造りで話し合ったことがあります。
現在の日本の家屋は、今生活が出来れば良いとする考えのもと家を建てるそうです。ドアの大きさ、トイレの大きさ、段差のある廊下などは、普通に生活できているうちは良いですが、高齢になり、車いす生活という状況になったときのことが考えられていないということが今の現状だそうです。
不自由になったら建て替えや改築を加えるというのが日本だそうで、バリヤフリーやユニバーサルデザイン住宅の考えが進んでいません。諸外国には、建築分野でユニバーサルデザインを考え取り入れているところはたくさんあります。
誰もが将来的に、何らかの不自由をもつことは十分考えられます。将来の自分のためにユニバーサルデザインの建物を造ること、それは現在不自由を抱えている人が生活しやすい環境を整えることにつながるのではないかと思います。
日本にもユニバーサルデザインの考え方を多分野にわたって導入することが必要だと考えます
私は建設の勉強をしているので、バリアフリーに関しては、今後設計の方面から関わりを持つことが多くなると思います。この記事を読んで、社会インフラが整えば、それでバリアフリーの社会が実現できた訳ではないと気付きました。
点字ブロックもスロープも存在するだけでは、ただの凹凸や坂にすぎない。新都心は、街自体がバリアフリーですよとアピールしているだけに感じました。
大事なのは、住んでいる人達に見合った街であり、環境であると思います。バリアフリーというのは、障害をもつ人のためだけではなく、すべての人のためにあると改めて知りました。
先生のヘルパーのあり方についての意見を読み、同感しました。ホームヘルパーは一番生活の中で密着しており、接する中で利用者のしたいことを理解できたり、信頼関係も気づきやすい立場にいると思います。
なのにもかかわらず、外出という生活に当たり前にあることを一番安心できる人とともに行えないということは利用者の方が再び新しい人との関係を作りなおさなければいけず、精神的にも大きな負担だと思います。自分がやりたいことを関係が築けてないために言えなかったすることもあると思います。
そのような利用者のストレスを増やさないようにするためにもヘルパーの仕事の範囲を利用者の立場に立って考え直すことが大切なのではないかと感じました。
こんにちは。
この記事を読んで、率直に感じたことがあります。それは、何故日本ではホームヘルパーがガイドヘルパーとして外出できないのか、ということです。まるで、障害のある人の外出を拒んでいるように感じます。
最初は、コペンハーゲンの点字ブロックは日本のものよりも細く、盲目の人には不便だと思いました。ですが、コペンハーゲンの街は、物理的、つまり表面上だけでないバリアフリー社会とういものが築かれているのではないか、と気付きました。
日本のように、お金をかけることだけが、バリアフリー社会を築いていく方法ではないと思います。街に住むすべての人々の心の豊かさ、やさしさが本当のバリアフリーへとつながるのかもしれません。
こんにちは。
さいたま新都心は高校生時代によく使っていましたが、このような空き地があることは知りませんでした。しかもその周辺の点字ブロックなどにいろいろ工夫されていたことも気づかず驚きました。
コペンハーゲンの点字ブロックが日本より小さくて問題があっても、コペンハーゲンの「人の支援」という大きな力が日本には大きく欠けていることにも驚かされました。ホームヘルパーとガイドヘルパーが明確に区別されているなんて。このブログを読まなければ一生知らなかったことでしょう。
日本は「敷設しておくからあとは自分の力でやって」というような健常者の目線での「自立」を障害者に押し付けているような気がします。障害者の目線に立った支援が求められていると思いました。
街の環境の整備、ホームヘルパー、ガイドヘルパー、各々が完璧な役割を果たしても、誰もが暮らしやすい社会は整っていかないと考える。支援を必要とする人の生活を支えることは、目に見える補助をすることだけではない。環境整備だけでなく、心を支えることで初めて、安心・安全な暮らしが確保できるのではないだろうか。支援者が連携し、支援を必要とする人を理解することで、支援者の自己満足で終わらせないことが大切だと考える。
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