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宗澤忠雄の「福祉の世界に夢うつつ」

不見識なバリアフリー

 写真1は、とある「公共建築物」の中に設置された多機能トイレ(国際シンボルマークのついた車椅子使用者等の利用しやすいトイレのこと)です。ロールペーパーの物置に使われていて、事実上、車椅子を利用する方は使用できない状態になっています。

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写真1 ある「公共建築物」の多機能トイレ

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 さすがにこれほどひどい管理をしているバリアフリートイレは、一般には珍しくなりました。建築物や道路等のバリアフリーには、設計・施工・管理のすべての面に、〈バリアフリー=障壁をなくすこと〉をめざす魂が宿っていなければなりません。設計・施工・管理のいずれの点に一つでも心無い手抜きがあると、すべてが台無しになってしまいます。
 1994年のハートビル法から2006年のバリアフリー新法への歩みの中で、わが国でも設計基準の明確化とその実施は着実な歩みにあると考えていたのです。ところが……。

 次の写真は、半年ほど前に完成したばかりの川越市内にある国道254号線氷川町交差点付近の歩道部分です。点字ブロックは、歩道上の溝蓋を形式的に回避する仕方で敷設されています。視覚障害のある白杖をつく歩行者に対して、直線の歩道でありながら「まっすぐに歩かせようとしない」点字ブロックの敷設は一体何なのでしょうか?

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写真2 溝蓋を形式的に回避しただけの点字ブロック敷設例

 設計と施工の段階でこのようにせざるを得ない技術的な特別の事情でもあるのだろうかと、不審な思いに駆られながらさらに100mほど歩いていくと、何てことはありません。はじめから歩道上の溝蓋を避けた動線で点字ブロックは敷設されているのです。

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写真3 動線を溝蓋からきっちり回避した敷設例

 さらに歩いていくと、今度は、歩道に車が入り込まないための「車止め」がありました。ご覧のとおり、点字ブロックに即して歩く白杖の人は、かなりの確率で車止めにぶつかる構造に作られています。ここまでくると、もう「責任者出てこい!!」と叫びたくなります。

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写真4 点字ブロックに沿って歩くとぶつかる車止め

 要するに、この歩道を設計した人、施工した人、そして完成時の点検担当者はいずれも、何も考えていないのです。バリアフリーの魂は皆無であり、無責任と不親切の塊といっていい。このようにいい加減な点字ブロック敷設の歩道は、「税金無駄遣いの公共事業」と批判されても仕方ないでしょう。

 さて次は、管理の問題です。写真は、北浦和駅東口に近い交差点の様子です。ここでは、マンホール等の蓋にまですべて丁寧に点字ブロックが敷設され、先に述べた某主要国道の歩道のように、動線を形式的に回避することのない設計です。
 ところが、このような蓋の閉め方をしていては、せっかく敷設された点字ブロックが台無しであるばかりか、新たな障壁を作り出しているとさえ言うことができます。

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写真5 問題の多い交差点

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写真6 マンホールの蓋のでたらめな管理例1

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写真7 でたらめな管理例2

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写真8 でたらめな管理例3

 この交差点は、過去8年間、継続的に点検してきたのですが、まともに管理されている状態には一度もめぐり合うことはありませんでした。

 先日、大阪市の保育士採用試験をめぐって、全盲の女性保育士が「門前払い」されたとの報道がありました(毎日新聞東京版夕刊2009年7月7日付)。これはまさに制度的・心理的障壁の典型です。
 大阪市の言い分は、「一部の人を特別扱いはできず、点字受験の導入は考えていない」とのこと。しかし、この女性は保育士という国家資格を持ち、民間保育所ですでにキャリアを積んでこられた方です。つまり、保育士の有資格者で、かつ、実際に保育のお仕事を立派にされてきた方に対しても、大阪市の保育士採用試験では「門前払い」をするというのです。障害を理由にしたこれほど明白な差別はないでしょう。
 私は大学入試の際に「障害のある受験生」の審査と当日の監督をした経験をもちますが、「門前払い」などという強権的排除=人権侵害をするようなことは、大学としても、私個人としても思考回路の中にまったくありません。それは、障害者基本法をもつわが国においてはあまりにも当然のことです。大阪市の時代錯誤の姿勢と神経には、「共に生きる魂」の欠如があると指摘せざるを得ないのです。

 このような心無い営みの積み重ねが障害のある人の生きづらさをもたらしていることは明白です。障害者の権利条約の批准に向けて、わが国では強力な権限を持つ「障害者差別禁止監督官」という国家的制度を設けるべきかもしれませんね。


コメント


最近になって「バリアフリー」という言葉が一般的になってきたことは事実ですが、言葉が広まっただけに過ぎないというのも事実だと思います。「バリアフリー」という言葉を使うことはあっても実行できていないのが現状であるということがわかりました。「言うは易し、行うは難し」と言いますが「有言実行」することが今日の課題であると考えました。
宗澤先生の授業などバリアフリーについて考える機会は以前よりは多いはずなので、私たちは、バリアフリーを学んでそれで終わりではなく、まず第一に、自分が何をできるかを考えなければならないと思います。そしてそれを実行することができてようやく「バリアフリー」という言葉が成り立つのだと思います。

全盲の女性保育士が「門前払い」にあった件については、障害者を軽んじている今の日本が象徴的に現れているものだと思います。ただ、一つ思ったことは、親の立場からすると全盲の人に子を預けるのはちょっと・・・というのは少なからずあるはずであるということです。少なからずであれこのような考えがあること、私もそのように考えてしまったことを考慮してもやはり障害者に対する偏見は目ざとく存在するのだと思います。
このような偏見を持つことなく、かつ「バリアフリー」を傍らに考慮しながら生きていくことが私にできることだと考えました。そしてそれを実行することが私の使命でもあると思います。


投稿者: イマージュ栄和 | 2009年07月23日 11:23

今回のブログを読んで、形式だけのバリアフリーの現状を改めて認識させられた。多機能トイレに関しても、点字ブロックに関してもそうだ。日本で「バリアフリー」の精神が訴えられているから、その文化に遅れないように形だけバリアフリーをしているように見せかける。そのような行為は、使用者の気持ちを全く考えていないものであり、良かれと思って作ったバリアフリーのシステムが逆に使用者の命を危険にさらすことにさえなりうる。多くの人がバリアフリーについて考えていても、このように一部の人間でもバリアフリーを深く考えないものがいるという事実は、悲しいものである。
かといって、そのような「心ないバリアフリー」の環境を作った人だけが悪いという訳ではないだろう。確かに使用者の気持ちを考えずに点字ブロックなどを作った人達に責任はあるが、同様にそのような現状を見て何も行動を起こさない人々にも問題はあると思う。多機能トイレが荷物置き場になっていることをみたら、管理者に荷物をどかして車いすの方でも利用できるような環境を作るように言うことは可能である。また、マンホールの点字ブロックの向きがずれていることを見たら、それを市役所の職員に改善するように進言することも可能である。「心ないバリアフリーシステムは作った人が悪い」と決めつけて自分は何の行動も起こさない…。そのような人々にも、日本のバリアフリーを心ないものにしている責任はあると私は感じた。


投稿者: Dの意思を継ぐもの | 2009年07月24日 11:57

以前からわたしはよくこんな光景を目にすることがあります。どうろに自転車を止める際、点字ブロックの上にはみ出しても気にせ図に行ってしまう人。点字ブロックと杖を頼りに歩いてる方の前を平気で横切る人。私は点字ブロックがブログの写真のように不自然な形をとっていて、その点字ブロックを使用していた方が途中道を誤って点字ブロックの道からはずれてしまい、人が行きかう中を所在なさげに杖で道を探っている人と、それを見ても見ぬふりをする通行人。わたしはそこに、形だけのバリアフリーの浸透を感じました。いくら形を作ったところで、それを生かす役割をもって私たちの心が成長しない限り、バリアフリーは本来の役割を果たさないのではないのでしょうか。
また、人と違うことが恥ずかしいという日本人特有の奇妙な集団意識というのは、時に残酷に障害を持つ方に重くのしかかると思います。例えば電車の中で高齢者に席を譲るときなどと同様に、私たちは思いやりの心をいざ行動に示す時、「みんなの前では恥ずかしいし、もしかすると有難迷惑なのではないか…」という自分の起こそうとしている行動に対するネガティブな考えが頭をよぎり、いざ行動に移せない場合が存在します。私たちは自分を大切にするあまり、相手を傷つけることをいとわない場合がありますが、その感情こそがバリアフリーの真の浸透の妨げになっているのではないか、私はそう思います。


投稿者: とちおとめ | 2009年07月27日 11:44

私は今まで点字ブロックを利用して歩いている人を見たことがなく、その存在をただの飾りのように思っていたような気がします。
今回の記事の画像を見て、この問題が取り上げられるまで気が付けなかった、自分の普段の無関心さを恥ずかしく思いました。また、一般の人だけでなく、管理者もバリアフリーを軽んじてしまっていることが分かり、バリアフリーとは何かということを、国民一人ひとりが今一度考え直す機会が必要だと思いました。
これからは、身の回りの環境に気を配り、自分のできるバリアフリーを実践していこうと思います。そして、一人ひとりの気持ちの持ちようで社会が良い方向へと向かうということを伝えていきたいです。


投稿者: QP | 2009年07月27日 15:58

 私を含め多くの人がバリアフリーという言葉を知っているようで実際はよく知らないのではないか、と気付かされた。私たち国民も知る必要があるが、特に設計者、施行者、点検者、役所の人、管理者、などの重要な役割を任された人たちはもっとよく知るべきだと思う。点字ブロックの写真に関してはどういうことを考えて設計者は設計したのかがわからない。本当に点字ブロックを必要としている人の立場に立って考えて行動すれば、あのような形式的な形にはならないと思う。おそらく何も考えてないのではないかと写真からは感じ取れる。
 このような悲惨な現実が未来へと繋がっていくことだけは避けたい。そのためには一人一人が社会を理解し、自分のことだけではなく他人のことも考えられる思いやりのある人になる必要がある。私も社会の一員として、誰かの役に立つようなことをしたい。それと同時に周りにもこのような実態を広め、悲惨な現実を知ってもらい何かを感じ取って欲しいと思う。


投稿者: ろこ | 2009年07月27日 23:45

普段何気なく歩いている歩道。その中に、目が見える人にはあまり目立たない点字ブロックがあります。しかし、全盲の方にとっては点字ブロック一つで人生が大きく変わると思います。もし、点字ブロックがなければ介助犬などの補助がない限り一人では外出できず、人生の中にある様々な可能性をつぶしてしまいかねないと思います。その点字ブロックがまさかこのようなことになっているとは正直まったく気づきませんでした。自分の身近な北浦和でもこんなにでたらめな管理が行われていることに腹立たしく思うとともに、まったく気づかなかった自分がはずかしく思います。これから重要になってくるのは、やはり障害を持つ人の気持ちを理解することだと思います。そのためには介護体験などは貴重な体験になったと思います。


投稿者: まだまだ育成選手 | 2009年07月28日 00:32

私はこのブログを読むまで、点字ブロックについて深く考えたことがありませんでした。だから、点字ブロックがでたらめに管理されている現状に驚きました。この現状を一度も見たことがないはずがないので、今までは特に印象に残らなかったのだと思います。とても恥ずかしいです。
道路や建物の建設の原則として、使う上で自由度が高く、使い方が簡単で、誰にでも公平に利用できることといったものがあります。点字ブロックだけでなく、バリアフリートイレの例を見ても、決してこの原則を満たしているとは言えません。そして、マンホールがでたらめに管理されているこの現状は、管理者が適当に管理しているといわざるを得ません。苦情が来てから直すのではもう遅いのです。管理者がもっとバリアフリーについて意識する必要があると思います。
日本では、欧米諸国に比べてバリアフリーに対する考え方が遅れていると思います。だからこそ、個人としてできることはたくさんあるはずです。私一人が変わったからといって何か変わるわけではありませんが、一人でもバリアフリーについて考えるだけでも社会にとってプラスとなるはずです。だから、これからはもっとバリアフリーについて考えて生活していこうと思います。


投稿者: ザリガニ | 2009年07月28日 01:57

この記事を読み、今日のバリアフリーの管理が徹底されていないことに気づかされました。
最近では、街を歩いていると至る所でバリアフリーが行われています。しかし、記事にもあるようにバリアフリーがこのような現状にある限り、障害を持った人にとっては逆に障壁になりえます。バリアフリーの設置をしたことだけで満足し、その後の管理が行われず、その効力を発揮することができなければそれをバリアフリーと言うことはできないと思います。
また、大阪市の全盲の女性保育士の件に至っては差別以外の何者でもありません。
「心のバリアフリー」という言葉を聞きますが、今日の人々には障害を持つ人に対する心の障壁を取り除き、共存していくことが必要だと思います。障害を持たない私たちはもう一度バリアフリーについて考え直さなければならないのでしょう。


投稿者: フリーザ | 2009年07月28日 14:54

 小さい頃に何回か目をつぶって点字ブロックの上を歩いていたことがあります。実際直線のところを歩いているときはさほど恐怖感は感じませんでしたが、点々だらけの点字ブロックがあるところにくると不安になった記憶があります。
 ブログにある写真2のように、無駄にくねくねしているのは障害者にとって本当に不安にさせることだと思いました。写真3もまた溝蓋からよけている分、道路に近付いているので写真2の直線部分のところより危険ではないかと思います。このようなことは、溝蓋の部分に凹凸をつけるなどといった工夫をすることで改善できるのではないかと思います。
 歩道に点字ブロックを設計、施工する際には、実際に視覚障害のある人の意見を取り入れることや設計者、施工者が利用者の目線で考えることが大切だと思います。
 マンホールの蓋の点字ブロックのこともそうだが、スーパーなどにある障害者専用の駐車場を一般の人が使っているといった、障害者のことを考えていない行為がほかにもある。もしかしたら自分が不自由な体になるかもしれないと考えるとこのような行為をするということが本当に許されないことだと思う。
 障害者のことに限らず、他の人のことも考えて行動していかなければならないと思った。このようなことを考えると、日本にはまだまだ改善するところがあるのではないかと思う。


投稿者: ノート | 2009年07月28日 17:11

 私の知り合いに目の不自由な人がいる。
 その人が昔、「みんな僕がいるときは目の不自由な人のことを考えてくれるし、親切にしてくれる。しかし街などでは、目の不自由な人のことを考えてはくれない。」と言っていたのが印象的であった。
 たしかに私も普段点字ブロック等、バリアフリーについて考えたことがなかった。なので私たち一人ひとりがバリアフリーについて意識しながら生活を送ることが大切だと思う。


投稿者: K.K | 2009年07月28日 17:32

2008年10月のブログから今回のブログまでで面白そうなものをいくつか拝見しました。
 その中でも、最近授業で取り上げられたということもあり、バリアフリーについてが印象的でした。車いすのマークの付いているトイレには何となく入りにくく、きっとこんなに悲惨な状態のものは見たことがないし、見ていたとしても全く気にかけていなかったので何とも思わなかっただろう。マンホールの蓋の上の点字ブロックも、北浦和駅なんて何度も使っているのに気付かなかった。お父さんに画像を見せてみたところ、酔っぱらいがいたずらでやっているんじゃないかと言っていて、マンホールが棒などを使えば開けられると聞いてびっくりした。
 犯人が誰であれ、他人のことなんて全く考えていない人がたくさんいるというのは確かです。この現状が今後少しでも改善していくように、私にもできることを探して、人のために何かをしていけたらいいなと思った。まず、もっとたくさんの人に今の状況を知ってもらい、私たちのちょっとした努力で解決できることはみんなで協力して解決していきたいと思いました。
 このブログはとても読みやすく、いろいろな知識を得ることができるので、授業はもうすぐ終わってしまうけど、たまに見に来ようかと思っています。私には一般教養がもっと必要なので、参考にしていけたらと思います。


投稿者: 最後のシ者 | 2009年07月28日 18:25

 道路の点字ブロックがあっても、意味をなしていなかったり、逆に危険な目にあってしまうようなものがあることは、行政が早急に解決せねばならない問題だと感じた。
 バリアフリー問題に関連して、私は電車の中の液晶画面で次の行き先を教えてくれることはとても重要な装備であると思う。
 私は埼京線や京浜東北線をよく使うのだが、京浜東北線は液晶画面の掲示板がついているが、埼京線にはない。以前埼京線に乗っており、とても電車がこんでいてざわついており、しかも車内アナウンスの声が小さく、次にどこに止まるのかさっぱりわからないという状態になったことがあった。これでは耳の不自由な人にとっても、目の不自由な人にとっても、本当に不便であると感じた。
 埼京線にも早く液晶画面での表示をしてほしいし、乗客みんなが聞き取れるアナウンスを心がけてほしい。


投稿者: BABBI | 2009年07月28日 20:35

 私は高校時代、毎朝学校に行く途中で、杖をついて点字ブロックの上を歩いている男性とすれ違っていた。一回、その人がスクランブル交差点を通る際に、自転車の人にぶつかりそうになったのを見たことがある。その人はブレーキの音で自転車が近くにきていたことがわかったようであったが、自転車に乗っていた人は謝罪の言葉もなしにすぐ立ち去ってしまった。盲目の人にとってすぐ傍でブレーキの音がすることはどんなに怖いことかは容易に想像できる。
 私は、相手の立場になって考えてみるということが欠けているからこそ、形だけのバリアフリーになってしまうのだと思う。もし自分が、あるいは自分の親しい人が、そのような障害をもっていたらと考えると上記のような行動はできないはずだ。
 それぞれが一人の人間なのだから、全ての人がより快適に暮らせるように力を尽くすのは当然であると思う。
 今の社会ではそれが難しいかもしれないが、私達にできることは考えればいくらでもあると思う。


投稿者: NaOH | 2009年07月28日 21:34

 ブログにある写真6.7.8のような点字を自分の地元でもたまに見かけることがありました。
 地元にいたころはそのような光景を見かけてもそれほど気にもかけていませんでした。このブログを拝見してあれらの点字ブロックは障害者の方にとって不親切であったのだと気付かされました。今までそのような光景を目にしていたのに気付けなかった自分はバリアフリーへの関心が足りなかったのだと思います。
 身近にあるバリアフリーについてもう一度考え直し、どのような点を改善していくべきか私たちひとりひとりが考え、より素晴らしいバリアフリーへと社会全体が変わっていく努力を行うようになればいいと思いました。


投稿者: タヒチ | 2009年07月28日 22:02

 点字ブロックの指摘、とても的確であり驚くとともに自分のなかでの社会への気づきにもなりました。
 なぜこのような設計、管理の問題が浮き彫りになったままなのかわかりませんが、実際にこのような点字ブロックを利用される方の意見というのは反映されないのでしょうか。
 これではノーマライゼーションの意味すらはきちがえてしまいそうです。なんのための点字ブロックなのか疑問に思いました。
 確かに自分の身の回りには視覚的に障害のあるかたはほとんどおらず、日常生活でも白杖をついているかたを見かけることは少ないです。
 しかし、実際にはそういう方々が「存在」しているにもかかわらず、困っているということを感じとれなかった自分にも問題はあるようにも感じました。


投稿者: layman | 2009年07月28日 23:23

 先生がアップされた写真を見て、この点字ブロックはまるでトラップだと思いました。
 しかし、マンホールの締め方によって点字ブロックがずれているのもよく見る光景ですが、私はそれに関しては特にちゃんとつながっていた方が見ていて気持ち悪くないのに程度にしか感じていなくて、私の中にもバリアフリーの心が欠けていると感じました。
 バリアフリーの心を育てるにはやはり、もっと障害者の人とかかわりを持たないと、どういうところで不便を感じるのかわからないしとおもいます。
 けれども、もっと障害者の人とかかわりを持つには、もっと社会進出しやすい世の中にしなければならない。進出しやすくするには、もっとバリアフリーの心を育たせなければならない。
 どちらを先にするかといえば、進出しやすい社会に整えること。結論的にいえば、わからないところは思いやりでカバーしなければならない。
 障害者かどうかは関係なく、人間関係を築く基本に立ち返ることが大切なんだと思うに至った。


投稿者: まめ | 2009年07月28日 23:52

 この記事で、「バリアフリー」というものが、いかに形式的なものになってしまっているか痛感しました。
 自転車が点字ブロックの上に乗り上げている光景をよく見ることがあり、憤りを感じていましたが、設計や施工の段階ですでにバリアフリーではないということがあるなんてただただ驚きました。
 さらに、せっかく丁寧に作られた点字ブロックも管理がずさんでは、意味がないばかりか、余計にバリアを作りだしてしまっていて、本当に悲しく思いました。
 私が通っていた高校の近くには視覚障害の方が多く、よく点字ブロックを頼りに歩いている姿を目にしていました。点字ブロックと杖だけを頼りに歩く姿をちょっと危なっかしく感じたのを覚えています。
 ただでさえ危険がいっぱいなのに、頼りにしている点字ブロックが上記の写真のようになっているなんて本当に怖いことだと思います。
 私たち一人ひとりが本当のバリアフリーとはなんなのか考えていくことが大切だと強く感じました。


投稿者: blue | 2009年07月29日 00:12

 この記事を読んで、日本のバリアフリーは障害を持った人たちのために、点字ブロックなどを設置するだけで、それに対する市民の理解が全くと言っていいほど浸透していないと痛感した。
 ただ、障害のある人たちにとって必要なものを設置すればよいというわけではなく、多機能トイレのシンボルに対する誤解を解くことなどを含めて、日本にすむ人々のバリアフリーに対する意識改善が必要なのだと思う。


投稿者: もっず | 2009年07月29日 00:47

 今回の点字ブロックへの妨害に関する記事を読んで、こういった妨害もあるのかと改めて知らされた。
 というのも、今までの自分の認識では点字ブロックの妨害というと放置自転車くらいのイメージしかなかったからだ。確かに自転車を点字ブロック上に止める行為は邪魔になるし、盲目の人にとっては非常に迷惑な行為であるから自分は積極的に置かないようには心がけている。
 しかし、それだけではいけない。例えば、サッカーのゴールを考えるとFWの場合は、10本のシュートのうち1本でもゴールになれば仲間から賞賛をうけるが、DFの場合10本のシュートのうち仮に9本防いだとしても、残りの1本がゴールとなれば、チームメートやサポーターからのブーイングは免れない。
 これを点字ブロックの問題にあてはめると、盲目の人が点字ブロック上を歩いている現場に自分がたまたま立ち会い、目の前に立ちはだかる障害物を除去してあげれば盲目の人はスムーズに通過できるが、いつもは気をつけているのにたまたま「今日は急いでいるから」と自転車を点字ブロック上に放置してしまい、さらにそこにたまたま盲目の人が通りかかったらそこから先に進めなくなってしまうのである。
 確率的には確かに起こりにくい事象かもしれないが、決して0%ではない。つまり、いつも意識していてもたった一回の行為が盲目の人を困らせてしまうのである。
 このように、様々な状況を色々な角度から捉え、予想し、「もしも」を考えて行動していくことがみんなが住みやすい日本になるための条件になるのではないかと自分は感じる。


投稿者: サッカー小僧 | 2009年07月29日 00:57

 私はこれまで、点字ブロックの存在は意識していましたが、そこまで気を配っていたことはありませんでした。しかし、このブログを読み、そこらじゅうにある点字ブロックを注意して見るようになり、この街のバリアフリーが不十分であることを痛感しました。
 かなりの数の点字ブロックがブログであるようにでたらめに管理されており、さらに点字ブロックを頼りに歩く人の障害となるようなものが数多く点字ブロックのそばにありました。このような場所を点字ブロックが必要な人が歩いたらと考えると、とても危険だと思います。
 点字ブロックを頼りにしている人にとって、今のこの状況は非常に悲しい現実だと感じました。この現状に気付いた私たちは声をあげなければなりません。まだ気付いていない人たちに気付かせてあげなければなりません。本当にバリアフリーな街を作るために、この現状を知っている私たちが障害者の方たちのために動かなければいけないと感じました。
 そして、大阪市のことに関して、障害を持っているということだけで差別が起きてしまったことをとても悲しく感じました。社会として、障害にもっと目を当てていくべきではないのでしょうか。これからはもっと人々の障害に対する理解が高まり、このような差別がなくなればよいと思います。


投稿者: Pなっつ | 2009年07月29日 03:00

 何かこの記事を読んでいて、よく言われる「バリアフリー」というものの本来あるべき姿について深く考えさせられるような思いがした。
 点字ブロックのお話などを読んでいてもただ「バリアフリー」という名のもとに設備を設置してあとはそのまま放置、みたいなとても管理しているとはいえないような状況では本当にお金の無駄であって改めていかなくてはならないのだと思う。
 真の「バリアフリー」というものを成立させるにはすべての人が「バリアフリー」ということを意識することが大切なのかなと感じた。


投稿者: T.O | 2009年07月29日 07:51

 何かこの記事を読んでいて、よく言われる「バリアフリー」というものの本来あるべき姿について深く考えさせられるような思いがした。
 点字ブロックのお話などを読んでいてもただ「バリアフリー」という名のもとに設備を設置してあとはそのまま放置、みたいなとても管理しているとはいえないような状況では本当にお金の無駄であって改めていかなくてはならないのだと思う。
 真の「バリアフリー」というものを成立させるにはすべての人が「バリアフリー」ということを意識することが大切なのかなと感じた。


投稿者: T.O | 2009年07月29日 07:53

 私は今回のブログで、点字ブロックの惨状を初めて知りました。
 このブログでは、バリアフリーを中心に見ていますが、作る側からしてみれば点字ブロックはただの付属品で、形式的に設置しているだけなのだなということを実感させられます。
 このようなことをなくすためにも、一人ひとりの障害に対する理解を呼びかけることはもちろん大事です。しかし、それには長い時間が必要となります。早急な対応を迫られるのならば、制度や法律として対策をとる必要性があるのではないでしょうか。


投稿者: らくだ | 2009年07月29日 10:10

 バリアフリートイレや点字ブロック。これらのものは私たちには基本的に使わない、というより使う必要のないものです。ですが、確実にそれらのものを必要としている人がいるのです。
 そういった人たちのことを考えて設計したのに、それらが活用されてない、それどころかないがしろにされているのはどういうことか。
 おそらくそういった人たちは、「無関心」なのでしょう。無関心だから、そのことがどういう結果を生むのかも想像つかないし、興味もないのです。だから平気でしてしまう。形だけの、表面上だけのバリアフリーなんて意味がない。関心をもつこと、それがバリアフリーの社会を築く一歩だと思う。


投稿者: freesia | 2009年07月29日 11:00

 近年ではバリアフリーも進んできて、最近できた施設や学校などではきちんと手すりやスロープなどが配備されていて、障害者にとって少しでも生活しやすい世の中になっていると思っていましたが、大きな間違いだったようです。
 このブログの写真を見れば、溝蓋や点字ブロックをその場所に造った人はなにを考えてるのだろうか。特に点字ブロックに対するずさんな管理の仕方には怒りを覚えます。その点字ブロックを利用して歩く障害者の立場からすれば、どんなに危険で恐怖なことか、管理者は全くわかってないのだと思います。
 この愚行が咎められないという現実にも嫌気がさしてしまいます。こういう自分勝手な人間が障害者の命に関わるものを設計するということが考えられません。
 自分は何度か、目の不自由な方が信号の前で点字ブロックを確かめながら信号を待ったり歩き出したりするところをみたことがありますが、もし信号の手前の点字ブロック整備が不適切であったりしたときを考えると、心配でなりません。こういったずさんな工事は国が責任もって対処すべきだと思います。


投稿者: Wonderwall | 2009年07月29日 11:27

 バリアフリーという言葉を聞くようになってからかなり長い時間がたったような気がする。しかし、おそらく言葉として知っているだけで、具体的にどのようなことであるかというのは、浸透してないのではないだろうか。
 私も気になって、通学路の点字ブロックを観察してみることにした。もともと歩道の幅が狭く、自転車が2台すれ違うのもぎりぎりな幅であり、道自体もでこぼこしていて、健常者ですらつまずいたりしそうになる道がある。一応、点字ブロックは付いているものの、点字ブロック自体が、地面からはがれてしまっていて、動いてしまう。だから、他の物に重なってしまったり、すごく離れた所に移動してしまったりしていた。

 このような現状をみると、バリアフリーの実践ってこのような身近な場所から始めていかなければ意味がないのではないだろうかと考えさせられた。
 私は、高校生の授業のときに、目隠しなどをして、目が見えない方の気持ちを体験しようというものがあった。たった一回の体験だけでは、到底目が見えない方の苦労がわかるはずもないけれど、ちょっとした段差も怖く、そして、点字ブロックの必要性を感じた。
 私が思うに、バリアフリーの重要性や、具体的にどのようなことをすればいいのかを、もっと、知らせるべきなのではないだろうか。そして、身近なところから変えていこうというきもちが生まれるようにすることが大切なのではないかなあと感じた。


投稿者: 犬 | 2009年07月29日 11:43

 歩道の点字ブロックの酷さはいたるところで見ますね。
 このような事態を公正な視線で判断する時は互いの視点で物事を見る必要があると思います。
 今回、障害者側から見た場合どれも劣悪な管理体制、作りでバリアフリーが非常に不十分である点は誰でも目に付くことだと思います。
 だが、管理側の視点で物事も見る必要があると思います。特に一つ目の溝蓋を回避する形の点字ブロックは管理側からしてもコストがかかるだけでメリットがあるとは思えません。これを単に雑な作業と一蹴してしまうのはどうかと思います。何が事情があってこういう形にしたと考えるのが妥当ではないでしょうか?
 とはいえ、マンホールの点字ブロックずれは誰がどう見ても管理側の怠慢と捉えざるを得ないです。


投稿者: T.T | 2009年07月29日 12:02

 今回の記事をよんで今のバリアフリーの現状に気付くことができました。普通に生活していると身の回りの小さなバリアには気付かないが、今回の記事を通して身の回りにはバリアがたくさんあること再認識させられました。
 注意して身の回りをみると、点字ブロックの上への駐輪、街中の急な階段、段差など問題がたくさん見つかりました。
 このような問題を解決するには、一人一人が障害者にも快適に暮らせるように小さなところから街づくりをしていく必要があるとおもいます。また、障害者、バリアフリーへの意識改善が必要だと思いました。


投稿者: マーラーつけ麺 | 2009年07月29日 12:39

 ずさんな点字ブロックの管理の一例を見て、改めて、周りの環境を見直してみた。埼大通りを見てみても、自転車の通行量が多いにも関わらず、道幅が狭く、視覚障害がある人や、車いすの人にとっては、危険極まりない。日本には、こういった道路が多く、道路整備が遅れている現状がある。
 これは、戦後、都市計画を十分に行わず、急ピッチで道路をつくったという背景がある。バリアフリーという言葉が一般的にはなっているけれども、日本の法律や、環境が、バリアフリーの実現に追い付いていないように思った。
 環境が悪いといっても、上のマンホールのふたの写真のように、少し考えれば、より安全になるようなことは、たくさんあると思う。環境のみならず、人々の心もバリアフリーの進展に、よくも悪くも、大きな効果を生み出すと思った。 


投稿者: きもと | 2009年07月29日 12:39

 この記事や写真をみて、バリアフリーの管理のがさつさに驚いた。せっかく点字ブロックなどを設置しても意味がなくなってしまう。
 点字ブロックのマンホールの部分など、ほんの少しの手間で正しく設置できるはずだ。しかし、それをやらないということ、目の見える人がいかに目の見えない方を意識していないかを表していると思う。
 実際私も、点字ブロックのずれなどを気にしたことはなかった。目の見える人にとって目の見えない方の苦労や心配はわからないかもしれない。だが、みなが不自由なく平等に暮らしていくためには理解していかなくてはならないことだろう。


投稿者: みたらしだんご | 2009年07月29日 12:48

 写真2のようなブロックの配置を見る度に、全盲の方はしっかりと歩くことができるのかと疑問に思います。そして、写真6,7,8のようなマンホールの置き方を見る度に、直したい衝動に駆られます。
 これくらいの配慮は作業の時点で気付くはずです。バリアフリーを徹底するには、実際に工事を行う技術者が意識を変えなければならないと思います。


投稿者: アクア | 2009年07月29日 15:15

 トイレに段ボールが置かれている写真を見て、似たような光景を私は見たことがある。これでは、このような設計をしても、何の価値もないと思った。
 このような状態を引き起こす原因は、使用の頻度が少ないからであるが、これに関しては仕方がないことだと感じている。私だけかも知れないが、もしも私が使用している間に、このトイレを本当に必要とする人が来て、待たせてしまうような展開になったら…と考えてしまうからである。
 日本に存在するトイレが、すべてこのタイプであったなら、と考えてしまう。


投稿者: 2×4=8/仁志が8 | 2009年07月29日 15:46

 今回宗澤先生のブログを読み、バリアフリーについて私自身も認識を改める必要があると感じた。
 今まで障害者用トイレや点字ブロックなどがあることには気づいていたが、こんなにも実際の障害を持った人たちの目線に立った時に問題があるとは知らなかったからだ。
 これまでは点字ブロックや障害者用トイレなどがあることだけでバリアフリーになっていると思っていたが、実際にはそうではない。事実、このブログを閲覧してから自分の周りを意識しながら見てみると、点字ブロックが途中で剥げていたりするところなど幾つも不備があることに気づいた。これでは盲目の人はこの道の途中で先に進めなくなってしまう。
 このように私たち正常者は、「障害を持った人のため」とバリアフリーなどと言っているが、実際には言葉だけのバリアフリーであり、本当の意味でのバリアフリーを実現していない。そこには、私たちがどこかで障害を持った人たちを軽んじく思っているところがあるからなのかもしれない。
 当の私もこれまで、点字ブロックの上や近くに自転車を駐輪したりしていた。盲目の人たちからしたらホントにとんだ迷惑である。
 しかし、今回このブログや宗澤先生の授業を通してバリアフリーに対する認識が変わり、今までの行為をしっかり改めようと思った。
 このように、言葉だけでなく本当の意味でのバリアフリーな社会を実現するためには、一人一人がバリアフリーに対してしっかりとした認識を持つことが必要不可欠である。そしていつか本当のバリアフリーが実現されることを心から望んでいる。

 また、余談ではあるが、私は建築関係の職業を目指しているので、仕事につけた時障害を持った人たちの目線からも何不自由なく利用できるような建物を設計するよう心掛けたいとおもう。


投稿者: リプトン | 2009年07月30日 04:19

 私は普段、あまり点字ブロックを気にしてみるようなことはなかったのですが、今回のブログのような例はあまりにずさんだと思いました。
 街中でも、点字ブロックの上に平気で駐輪している自転車、バイクなども見かけますし、このマンホールについてはどうしたらこんな風におけるのかと、この作業をした人には点字ブロックが見えなかったのかとおもいました。


投稿者: ガルディオス | 2009年08月02日 16:40

 今回のブログを読んでみて、歩道の点字ブロックがこんなにも悲惨な状態で設置されていることを改めて知ってとても驚きました。これを設置した人が何を考え何を思って設置したのか、まったくわかりませんし、とても腹が立ちました。
 また、このような状態の点字ブロックが歩道のあちらこちらで見られるということは、障害のない社会の人々がいかに障害者に対して無意識・無関心であるかという表れであると思います。
 このあまりにも不自然な状態に気がつかない、見て見ぬふりをする人がいること自体が大変な問題であるし、とても悲しいことです。いくら形だけのバリアフリーを進めても、障害者を支えるべき周りの人々が思いやりの気持ちを持たなければ、本当の意味でのバリアフリーは実現しないと思います。
 自分も人間形成の授業を受けてきて、今までよりも確実に障害者について考える機会が増えたので、もっと自分にできることを行動に移していきたいと思います。


投稿者: INAT | 2009年08月03日 22:28

 普段何気なく通っている道にも、普段何気なく使っている建物にも、いたる所にバリアフリーが見受けられる。今まで、それらは様々な工夫を凝らして設計され、身体の不自由な方たちの活動が少しでも楽になるよう作られているんだとばかり思っていた。
 しかしアップされていた写真を見て、愕然としました。そんな思いやりの気持ちなんてどこにもないじゃないか!と怒りすら感じた。
 そしてわかったことは、バリアフリーは建物を設計した人のただの自己満足に過ぎないということだ。設計者が身体に障害を持っていなければ、バリアフリーがあるとどうなるのか、どう感じるのかは本当にはわからない。しかしそれは仕方のないことである。
 問題なのは、それらを管理する人がどうするかなのである。このマンホールを管理した人は、障害者のことを何も考えていないばかりか、バリアフリーの意味すら知らないのではないか。マンホールの設計者はおそらく自分の設計によって障害者が助かっていると思っているだろうが、実際はそうではない。
 本当に必要なバリアフリーは、設計者と管理者が共に身体障害者の身になって設計・管理を行ったものであると思う。


投稿者: かぼちゃコロッケ | 2009年08月04日 00:36

 今回穴澤先生の記事を読んでバリアフリーの不完全さが今まで以上に身にしみました。障害を持つ人が少しでも安全にすごすためのものなのに、かえって危険なものになっているようでは意味がありません。いかに障害を持つ人たちのことを人ごとだと思っているかがありありと感じられました。
 関連して、私が街を歩くときにいつも気になることを書きます。それは点字ブロックがある歩道を二列にになって運転している自転車です。車道を走れとまでは言いませんが、点字ブロックがあり不自由な方が通ることを分かっている以上、二列になり運転するなどということはありえないことだといつも感じます。
 これでは障害をもつ方が安心して生活するなんてことは無理だと思います。個人個人が障害をもつ方に対するしっかりとした意識を持つ必要があり、そうしたときに初めて本当のバリアフリーに一歩近づくと思います。


投稿者: 樹液たっぷり | 2009年08月04日 18:23

 今回のブログを読んで、改めてバリアフリー、特に点字ブロックについて考えさせられた。
 点字ブロックが地面や床に敷かれている様子は、もはや珍しくなくなった。最近できたばかりの施設や建物、歩道には必ずと言っていいほど見かける。
 このように点字ブロックは一般的になりつつあるのに、無理解や無頓着な人が多いのは、なぜだろうか?おそらく、点字ブロックを頼りに目を瞑って歩いてみたことがないからだろう。実際にやれば、いかに歩くのが不安かがわかる。まして、点字ブロックの上に荷物が置かれていたり、自転車やバイクが止めたりしていたら、なおさら不安は増すばかりである。
 このようなことを自分で経験していれば、おのずと相手の立場に立って考えることができ、点字ブロックの上に荷物を置いたり、駐輪・駐車したりしなくなるだろう。
 形だけのバリアフリーにならないためにも、私たちは、相手の立場に立って物事を考え、バリアフリーを普及しなければならないと思った。


投稿者: PUYO | 2009年08月05日 01:22

 今回の記事を読んで、普段私たちが普通に暮らしている町の中に、多くのバリアフリーが存在していることを改めて認識させられました。しかし、その裏返しとして、自分自身もバリアフリーに対して目が行き届いてない部分がたくさんあることに気付かされました。
 普段何気なく目にしている点字ブロックがこんなにも障害のある方にとって不便なものになっているとは驚きです。せっかくのバリアフリーも管理がずさんでは意味を成さないどころか、逆に邪魔な存在になってしまうのですね。
 ただ、点字ブロックの上を歩いている人が車止めにぶつかってしまうことは、確かに危険なことではありますが、車止めの存在に気付かずに、車の出入り口をそのまま突っ切ってしまうことも危険なことだと思います。
 車止めは本来「車の進入を防ぐため」のものですが、逆に言えば「人間に車の出入り口を知らせてくれる」ものでもあるように思うからです。
 ですから、車止めとは別に、点字ブロックに何らかの形で「人間に車の出入り口を知らせてくれる」表示をすることが出来れば良いのではないでしょうか? そうすれば、点字ブロックを利用する人が車止めにぶつかることなく、車の出入り口を認識することが出来るので、危険が回避出来ると思います。
 これ以外にも障害のある方にとって、不便なバリアフリーはいたるところにあると思います。そうしたバリアフリーを改善していくには、やはり一人ひとりが他人の気持ちを考え行動していくことが大切でしょう。自分ももっと周りを見て行動できるよう心がけたいと思います。


投稿者: 風笛 | 2009年08月05日 02:26

 今回のブログに出ていたように8年間も点字に沿った正しいマンホールの管理ができていないことには驚きました。8年間もの間に何人の人がこの点字ブロックが読めなくて困ったことでしょうか。
 しかし私自身も雨の日に自転車で走っているときに点字ブロックがあると滑りやすくてあぶないと思ってしまったことが何回かありました。自分のことだけ考えそれを必要としている人たちのことについて考えていなかったという面では、私もマンホールを適当に置いた人と変わりません。
 改めて自分のことだけではなく、それを必要としている人のことも考えることがバリアフリーには必要だと感じました。


投稿者: 信繁 | 2009年08月05日 06:09

 多機能トイレにおいて荷物が置かれるなどの不適切な使用されている現状について、多機能トイレはその定義上、かなりのスペースを要するものであり、駅などの公共施設ではある程度便器の数も必要なため、結果的に用具入れのスペースが削られあのような扱いをされているのではないかと思います。実際に多機能トイレを使った場合でも別に物が置かれていてもさほど問題と思わないということもあると思います。
 正直なところ、あまり多機能トイレというもの馴染みがなくその重要性をいまいち理解できていないということもあり、前々回の授業でそのことをよく考えました。多機能トイレは不便なのかもしれないと。
 というのは、多機能トイレは確かにユニバーサルデザインで誰でも使いやすいが一方で、スペースを要することより便器の数が確保できないということです。
 誰でも使えるけど一個しかない狭い門みたいな感じですかね。
 授業を聞いても、なおこのように考えてしまう自分にバリアフリーに対しての馴染みのなさ、関心のなさを感じますが、同時にもっともっとバリアフリーが進み、それが当たり前になればまた自分の考え方も変わるのかな、と思います。

 最後に「障害者差別禁止監督官」制度は反対です。
 障害を持つ方が盾にされ、ますます偏見が強くなるのではないかと懸念してしまいます。
 まだは私は「障害を持つ人も持たない人も~できるようにする」という平等と「障害を持つ人も持たない人も差別しないから何もしない」という平等のどちらが正しいのかという根本的なことがわかってない気がします。


投稿者: パーラメント | 2009年08月05日 10:46

 普段私たちが当たり前に行っていることが、障害者にはできないこともある。では、それは具体的にどういうこと? そう尋ねられたら、誰でもいくつかは答えることができるだろう。
 しかし、完璧に答えられるだろうか。実際は分かっているつもりでいるだけなのではないだろうか。
 ブログの中にバリアフリーとはかけ離れたような設備の例が載っていたが、これはまさにその証拠だと思う。もちろん、管理者などがずさんであったこと(論外だが)も考えられるが、それ以上に障害者の立場に立とうということ自体に無理があると思う。
 なぜなら普段の自分と異なる条件下で、さらに、無限に近いような状況を想定しないといけないからである。これでは、いつまで経っても本当のバリアフリーは確立されないだろう。
 ではどうすればいいか、ということになってしまうが、先程の例で考えてみれば、設計の段階で実際に障害者の方の意見などを聞いていればあのような設備にはならなかったはずである。
 つまり、そのままになってしまうが、そういった設備の設計を障害者の方に加わってもらうということである。そうすることで、私たちでは気づけないようなことにでも配慮の出来た設備ができていくのではないだろうか。
 しかし、それだけでは本当のバリアフリーは確立されては行かない。そこにはやはり一人一人の意識が必要なのだ。


投稿者: アップル | 2009年08月05日 11:27

 何気なく通っていた点字ブロックのある道は障害のある人にとって安全なバリアフリーの施された道だと思っていたが、実際はそうではないということにこのブログから気付かされた。
 それからというもの、点字ブロックがあるところに注意を向けてみると、溝蓋をぐるりと避けるようなものを数点発見した。
 このようなバリアフリーを無視し、設計や施工を重視したものが至る所にあるというのは悲しい現実である。
 このことに気を配るようになり私は確認していないのだが、駅のホームにも点字ブロックがあるということに気がついた。もし駅のホームでもこのような設計や施工を重視したものがあるとすれば大事故につながる危険性があるはずである。
 そのような事故が起こる前に我々を含め、自治体や国が行動を起こす必要があると強く思えた。


投稿者: kilosp | 2009年08月05日 14:10

 これまで、小学校や中学校でバリアフリーについての学習を行ってきたし、バリアフリーは大切であるという考えをもちろん持っていたけど、この記事を見て、これがバリアフリーの現状だと思うと驚いたし、なんか情けない感じがした。
 けれども、自分も北浦和のこのようなマンホールは何度も何度も見ているはずなのに、全く気付かないで、無視していたのは恥ずかしいと思った。本当の意味でのバリアフリーを実現するためには、お偉いさんがバリアフリーが大切であるなどということを言ってるだけでなく、個人一人一人の意識を改善しなければ、とてもそんなことは不可能だと思う。


投稿者: ぼ | 2009年08月05日 14:19

 以前駅で視覚障害の人が、点字ブロックを頼りにホームまで向かっている姿を見て、普段五体満足である私たちが見ているバリアフリーのものは、障害者の方たちにとっては大事なシグナルであり、生活の一環であることを再確認しました。
 しかし、今回の記事を読んで、街中のバリアフリーがいかに形式的で、それによって及ぼされる障害者への悪影響がどれほど大きいことかと思うと、この現状を見直すべきであると確信しました。
 私に直截的に関係の持たないことだけれど、そのバリアフリーの改善はきっと社会的によりよい効果をもたらすのだと思いました。


投稿者: ハム | 2009年08月05日 17:15

 今回大学で先生の特別講義を聴かせていただいた学生です。
 恥ずかしながら私は、この国際シンボルマークについて「障害者やお年寄りしか使ってはいけない」と誤解していました。「誰にでも使いやすい」それがユニバーサルデザインの定義でした。しかし、今回の講義の中にもあったように、わが国ではユニバーサルデザインをうたっているものはたくさんありますが、実際にそれが使用できる状況にあるかというとそうではありません。
 この記事に載っている写真のように、私たちの意識の低さや知識のなさが街中にきちんと現れています。少し手を加えた設備で多くの人が利用しやすいものになれます。ユニバーサルデザインの本質をもう一度見直すべきだと思いました。


投稿者: ぱんだこぱんだ | 2010年01月05日 15:55

 自分の子育ての経験から、「バリアフリーについて」先生の講義でのお話に同調する事がありました。それは、乳母車・バギーの話でした。生活道路や公共機関、乗り物などで数え切れない程の不便さや、危険を感じた事があります。
 たまたま、子ども達は年子だったので、乳母車に二人を乗せて移動した時期がありました。狭い道路では歩道も無く、車とすれ違う度にひやひやしながら、道を通っていました。その打開策として歩道のある広い通りまで、路地から路地へと歩いた事を思い出しました。
 また、子どもをおんぶする事もありました。若い母親達はベビーカーばかりで、赤ん坊をおんぶした人を見かける事は殆どありません。子育ての経験者としては、大変残念に思っています。母子間のつながりも深まりますし、第一には子供を危険から守る事にも効果があると考えます。
 道路環境の改善を待っていては、生活は成り立ちません。まず、自分で出来る事から、始めるべきではないでしょうか。


投稿者: あんころもち | 2010年01月06日 11:50

 先日、北九州市立大学で講義を受けた北九大生です。講義を受ける前は、「結構バリアフリーになっていて、あまり問題点はないのでは」と思っていました。
 しかし、先生の話を聞いていると、本当に日本の福祉の遅れというものを感じました。
 例えば、国際シンボルマークのついたトイレは、車いすの方専用のトイレだと思っていましたが、誰にでも利用可能なトイレだと初めて知りました。実際に、身体障害者以外の方の使用禁止という張り紙を見たことはありませんが、管理などが大変だということだけで、そのような管理になっている日本の福祉は、まったくバリアフリーと言えないと思いました。
 また、耳の聞こえない方に筆談という手段をとるのが失礼なことだということも知りました。
 この講義を聞いて、初めて知ったこともあり、日常的にみている点字ブロックに対しての見方も変わりました。
 ありがとうございました。 


投稿者: 1/6 | 2010年01月07日 14:15

 北九州市立大学の学生です。現代社会と福祉の授業で先生の特別講義を受けたものです。
 先生の講義を受け、いままでいかに私は無知で生きてきたのかと落ち込みました。講義内容にもありましたがこの記事でも触れられている、誰も使うことができない多機能トイレ、いい加減な点字ブロック。いい加減な点字ブロックの画像を見て、中学校の頃実際に視覚障害者の世界を体験するために、目隠しをして中学校の周りを歩くという授業を思い出しました。
 目隠ししただけで今まで何回も通ったことがあるはずの道が怖くて、一歩足を踏み出す度に恐怖でした。そのときは2人1組になって歩きまわりましたが、実際の視覚障害者の方達に常に誰かが付き添っていることはないと思います。付添い人の代わりでもある点字ブロックがいい加減であればどれだけ不自由なことか、どれだけ恐怖だろうか想像がつきます。
 先生の講義でバリアフリーについて考えさせられました。今だけでなくこれからもバリアフリーについて誰もが考えていかなければいけないと思いました。


投稿者: スップリ | 2010年01月07日 23:27

 北九州市立大学の学生です。
 私は大学で、主に福祉について学んでいます。そして、このごろ障がいというテーマについて知識を深めたいと考えているところです。そんな中、このブログに載せてあった何枚かの写真をみて、怒りと同時に心にズキっときました。
 「バリアフリー」という言葉が大々的にとりあげられている今日ですが、先生もおっしゃっていたように、「魂」がどこにもないことを痛感させられました。言葉と意味だけ知っているだけではだめだと思うのです。何より大事なのは心だと思うのです。
 私自身こういったトイレやマンホールをみかけたことはあまりありませんが、まだまだ考えていかなければならないことが多くあり、それと同時に「魂」・「心」をもってほしいと思います。


投稿者: すごもりたまご | 2010年01月08日 10:29

 4日、5日と2日間にわたってしていただいた講義とこのブログから、現在の福祉施設に対する人々の意識が低いと感じました。
 私も講義を聞くまではその中の一人で、現在の福祉施設は十分充実していると思っていました。しかしそうではなく、せっかくいい設備ができてもそれを管理する側がきちんと理解していないがために、障害がある人に不自由を強いていたということを知りました。まわり段や点字ブロックなどの危険性や、使いづらさに気付くことができた人は本当に少ないと思います。
 これくらいいいだろうという考えがどれだけの障害がある人を苦しめているのか、設備を管理している人だけでなく一人ひとりが考えるべきだと思いました。まだ探してみれば気づける部分があると思います。
 講義中に宗澤先生がおっしゃられたようにみんなが関心をもつことが大切だと感じました。


投稿者: maron | 2010年01月11日 21:34

 先日はお忙しい中、講義をして下さいましてありがとうございました。
 講義の中で私が強く印象に残ったのは、このブログにも掲載されているマンホール上の点字ブロックについての写真です。この写真を初めて見た時の衝撃はとても大きいものがありました。よく点字ブロック上の駐輪問題は耳にしますが、マンホールが点字ブロック優先にはめられていないのは私自身、写真を見てハッと気付きました。他にも、溝蓋や点字ブロック横の車止めの写真を見て、自分の福祉に対する関心の薄さがにきづき、恥ずかしくなりました。
 ただ単に、いろんな人々が場を共有すればよい、という単純なことではなく、どのような場にいようとも人間としての権利が平等に保障されることが大切にされないといけないと思います。その為には、点字ブロックをとりあえずつけているような形から入るバリアフリーではなく、相手の立場に立って考えてみる、心から入るバリアフリーが広がればいいなと思いました。


投稿者: チーズ | 2010年01月12日 00:37

 先日は、北九州市立大学での講義ありがとうございました。
 私も先日、信号付きの横断歩道横の電柱に「視覚障害者用押ボタン」と書かれた看板とその押しボタンがあることに気付きました。その下の道に点字ブロックがあるわけでもありません。視覚障害を持つ方はどうやってこの看板と押しボタンを見つけるのだろうかと疑問に思ったのを覚えています。まさに無責任と不親切の塊だと思いました。
 このような社会の不親切さこそが、障害を障害とさせてしまっているのではないかと感じています。障害は個人と環境との相互作用の結果として生じるものだと考えているからです。
 障害を持つ人をそのままでは社会に適応できない存在ととらえるのではなく、視力が悪い人にはメガネやコンタクトがあるように、同じ欲求、権利を持つ社会のメンバーであるという意識の下、その人に合った環境の整備をしていけばこういうことは起こらないのではないかと思います。
 様々なニーズは、障害を持つ人に限ったことではなく、すべての人が持っています。何より必要なのは、社会の態度や意識の変化、心のバリアフリーだと思いました。


投稿者: ちりこ | 2010年01月12日 21:41

 私が感じたのは、いくら施設をバリアフリーといった形に出来ても、人間の意識までをバリアフリーにすることはとても難しいということである。
 上記の写真がよい例だと思う。この管理の中にバリアフリーの心は存在せず、一連の作業の一つの結果に過ぎない。
確かに施設が充実し、すべての建物や道がバリアフリー化すればかなり便利になるだろう。だが、それは結果的にすべて自分でやれ、と丸投げしているのと同じである。
 人間は一人では生きていけないとよく言われ、私自身そのことを実感することがとても多くあるが、それをすべての人間に確認させ、それぞれ相互に助け合う心が必要である。
 極論を言えば、その心があればバリアフリー化は必要ないと思う。それが不可能なので現在の状況になっているが。
 バリアフリーになってるからといって、なんでも自分ひとりでやらせるような状況にはなって欲しくはない。


投稿者: ユッケ | 2010年01月12日 21:43

 北九州市立大学の者です。
 先日は、とても勉強になる講義をしていただき、誠にありがとうございました。 
 恐縮ではありますが、講義をしていただくまで、このブログを知りませんでした。しかし、宗澤さんのブログを読み進めていく内に、奥深い福祉の事に今まで以上に興味が湧いてきました。気がつけば、全ての記事を読んでしまっていました。その中でも印象に残ったのがこの記事でした。私が生活している中で、点字ブロックに注目して歩いた事がなかった事など、いかに自分が未熟なのかを考えさせられました。
 障害者といわれる人にとって、障害をなくすための設備などを的確にすれば、障害者は障害者ではなくなるかもしれないと思います。バリアフリーを次々と考えだしても、設置する側や、使う側が「共に生きる魂」をもっていないと意味がありません。私も、その一員の自覚をもち、日々生活したいと思います。このように考える機会を与えていただけたことに、とても感謝しています。


投稿者: HI | 2010年01月13日 23:35

 バリアフリートイレの管理や点字ブロックのあり方について大変考えさせられました。私も道を歩いている時に点字ブロックは目にしていていましたが、先生が挙げられていた問題点に目を向けることが出来ていませんでした。
 全盲の方が歩くときに必要となる点字ブロックを利用する人の気持ちや使いやすさを考慮せずに敷設されていることを残念に思いました。
 このようなバリアフリートイレや点字ブロックの必要性、使いやすくするにはどうしたら良いのかを私たち一人ひとりが理解しようと努めなければならないのだと思います。
 自分は関係ないから良いという考えを持つのではなく、相手の立場になって考える意識を私自身も今以上に持って行かなければならないことと、誰もが歩くのに不便のない道路、みんなが利用しやすいトイレ等、自身を含めたバリアフリーにしていかなければならないを気付かされました。


投稿者: nico | 2010年01月14日 01:23

 去年出張講義していただきました北九州市立大学の者です。遅れましたがありがとうございました。
 私がバリアフリーという言葉を初めて耳にしたのは小学校の高学年のころだと思います。この頃に山口県から北九州市の今の借家に越してきたのですが、依然ここに住まれていた一人暮らしの高齢者の方は、亡くなる直前までこの家で自力で生活していたそうです。トイレや風呂場に手すりが設置してありますが、それは後からつけたのだろうと思われるものばかりで、段差が多く、廊下も狭くて階段はかなり急であったりして、学校で学んだバリアフリーという言葉はこの家には当てはまらないのではないかと当時考えていました。
 この記事の写真には驚かされました。マンホールの点字ブロックは講義でも聞いていましたが、トイレは衝撃的でした。多機能トイレはいくつか見たことがありますが、どれも清掃員の方の気配りが感じられます。今日バリアフリーは着実に根付きつつあると宗澤先生のブログを拝見して確信したかったのですが、まだ障害のある人の目線で見た公共工事は完璧には行われてはおらず、先生のような福祉現場を知らせていく活動はまだまだ必要なのだと思いました。
 私一人がこの現状を変えることはできませんが、自分はバリアフリーの意識の無い人間にならないように、注意して行動したいと思います。


投稿者: tirimeso | 2010年01月14日 08:53

 先日は貴重な講義をありがとうございました。宗澤先生の講義とブログの記事から、普段自分が何気なく生活している場所のバリアフリーを気にするようになりました。恥ずかしい話ですが、今まで私自身バリアフリーの対象を障害を持つ人だけと無意識に思い込んでいました。宗澤先生の講義で目が覚めた思いです。
 ついこの間出かけたときに、どこにバリアフリーといえるものがあるか、また、バリアフリーの妨げとなるものがあるかを注意して歩いてみました。すると、以前は気にしていなかった螺旋階段や、低い位置に操作パネルのないエレベータ、古くなりはがれかけた点字ブロックなどが目に付きました。悪いところばかりが気になっていたら、鏡のついたエレベータやちゃんと管理されているバリアフリートイレなどを発見して少し安心しました。
 しかし、一部しか見ていませんが、やはりこの国のバリアフリーに対する意識はまだまだ低いと感じました。バリアフリーがもっと私たちの身近なものになればいいと心から思います。


投稿者: のの | 2010年01月14日 11:12

バリアフリー化について私の中でもそのように思う点が多々あったので書きます。私は結婚式場でバイトをしているのですがそこの挙式会場は二階にあり階段しかなく足を悪くされている車椅子のかたはスタッフが三人ぐらいで車椅子ごと運ばせてもらってます。その際スタッフの僕らはいいのですが一番にわざわざごめんねといつも申し訳なさそうにいわれます。二階に挙式会場を作ってる式場側が悪いし、バリアフリー化が行われていればそのような思いはされなくてすむのにといつも感じています。バリアフリー化といわれていても結局されていないように身近の生活の中からも感じられます。実際に整備されていない以上法的に厳しくしていくしかないのではと。ただ、同時に今以上のバリアフリーに対しての教育や宣伝など個人の意識の持ち方も変えるようしないと解決できないなと感じています。


投稿者: あーごん | 2010年01月14日 20:28

 こんにちは。先日は北九大での講義ありがとうございました。
 私の地域もスロープ等のバリアフリーが多くなり、以前と比べると障害者や高齢者にとって住みよい街になってきた、と思っていたのですが、それは単に私が障害をもっておらず、私の年齢がまだ20歳に過ぎないために勝手にそう感じているだけなのでしょう。
 障害者の立場にたっているようで実際にはどこがどう大変なのかを理解できていない。点字ブロックを設置する国や業者もそれと同様です。
 日本では国家自体に「障害者には制限があってもしかたがない」という考えが根付いていると思います。その考えが不見識なバリアフリーという形で世の中に反映されているのではないでしょうか。
 現在の日本には、こういった状況を根本から見直す新たな法制度の整備や、その法制度が遵守されているかを監視していくようなシステムが必要だと思います。


投稿者: 次郎 | 2010年01月14日 22:52

北九州市立大学の学生です。
先日はわざわざわたしたちの講義のために足を運んでいただき本当にありがとうございました。
とても考えさせられ、有意義な時間でした。
わたしもこの記事に載せられているような光景をよく目にします。
点字ブロックの上に工事中の看板などが乗っていたり、駅の中が途中まではスロープなのに途中から階段しかなくなっていたりします。
これでは、ただの気休めだけのバリアフリーであり本当の意味でのバリアフリーにはなっていないと思います。
だからバリアフリーをするならとことん障害者の快適さを考え中途半端にするのではなく、完全バリアフリー化を実行していくことが重要だとわたしは思います。
以前土砂降りの日に車いすに乗った人がずぶぬれになっているのを見かけたことがあります。
普段歩いていておもうのは、アーケードが少ないということです。もっと障害者も安心して住めるような町づくりをすすめていくべきだと思います。


投稿者: あーちゃん | 2010年01月15日 00:52

 障害者福祉の講義を受講していても、障害者の立場に立つことは難しい。そうだとすると、そのような講義を受ける機会の無い人たちは尚更、障害者のことを考えることがいかに難しいかを考えさせられます。
 歩道の設計のケースについてはただただ目を疑うばかりでしたが、マンホールの件については、あの蓋を閉める人はマンホールの蓋の上の点字ブロックを使う人のことなど全く認識されていないのだなと感じます。いかに障害者が生活しづらい状況にあるかが目に見えてわかります。
 これは管理者の管理の問題も勿論ですが、障害者と障害の無い人たちが共存することに対する学習がなされていないことが大きな問題ではないかと考えます。ちょっとした気づきで好転したり、逆に悪影響となることに気づけないということは、その問題に触れる機会の少なさを明白にしていると感じます。


投稿者: APL | 2010年01月15日 21:10

 埼玉大学で先生の講義を受講しているものです。
 私は今まで点字ブロックなどといった身体障害者の補助をするものに対してあまり関心を持っていませんでした。「バリアフリー」という言葉も、単語としては知っていましたが、この記事や講義を通して、社会のバリアフリーへの間違った取り組みを理解するとともに、私自身の意識の低さがわかりました。バリアフリーとは何かということを、私たち一人ひとりが考え直す機会が必要だと感じました。
 今後は私ができるバリアフリーを実行していきたいと思います。それを一人一人が徹底することができれば、住みよい社会が作れるのではないでしょうか。


投稿者: ミッチー14 | 2010年01月27日 10:06

 バリアフリーの悲惨な現状の様子を写真で見て、バリアフリーとは名ばかりの設備や施工に対して呆れや怒りを感じたことは確かです。
 しかし、よく考えてみると写真のような現場は自分の生活において見慣れているはずなのに、このように問題として提示されるまでの普段の生活では、その点について考えたことはなく、この文を読んでその劣悪な設備に初めて気が付き、自分がいかにバリアフリーや障害者に対する理解や共感ができていないかということを思い知らされました。
 自分の意識の低さを反省し、障害者の苦労を知り、同じ目線に立って1人1人が理解をしていくことが、私達にとっても障害者の方にとってもよりよい社会が作っていけるのでは、と感じました。


投稿者: めだかんたーびれ | 2010年02月03日 02:44

 私が小学生の高学年になったあたりの頃から、『バリアフリー』という言葉を頻繁に耳にするようになりました。小学6年生のときの自由研究では最寄り駅のバリアフリーの設備について調べたりもしていたので、自分の中では街の中にバリアフリーがあることが当たり前になっていて、そのような設備がないと不信感を覚えます。
 だがこれらの写真のように、設計の段階ではバリアフリーに関してしっかりと考えられていても、管理の仕方が悪いと全くその機能を発揮できないということがあるようである。
 「自分には関係がないことだ」として適当に考えてしまっているというのが形として表れている結果である。だが、以前に比べればバリアフリーに対して社会全体で意識が高まり、定着し始めているのではないかと感じる。誰もが心地よく生活できる日が来るのは遠くはないと思う。


投稿者: バンザイ | 2010年02月03日 10:38

 講義を聞き、ブログを拝見してバリアフリーの設計を形骸化してその意味を考えずただ作ればいいという考えに強い憤りを覚えました。しかし、いままで私自身多機能トイレを使用するには少し抵抗があり、健常者はこのトイレを使ってはいけないのではないかという思いに捉われていました。このような考えが健常者と障害のある方との距離を広げ、バリアフリー、ノーマライゼーションという言葉の形骸化を生みだしているのだという危機感を感じました。また、点字ブロック、マンホールの不適切な設置については講義を聞くまで正直なところあまり考えたことがありませんでした。このことに気付いた時、私のような無理解、無関心が現在のようなバリアフリーの形骸化につながっているのだと思い愕然としました。われわれ市民一人一人がこのような意識を変えていかなければバリアフリー社会、ノーマライゼーション社会にはなり得ないのだと痛感しました。


投稿者: junchan | 2010年02月10日 10:06

 私もここに載せられているような点字ブロックをよく見かけます。他にもとても狭くて起伏が激しい道で、点字ブロックがぼろぼろになって剥がれかけているのも見かけたことがあります。こんなに甘い管理なのであれば、いっそないほうが良いのではないか?と思ってしまいます。
 バリアフリーのための点字ブロックのはずが、逆にバリアーを作ってしまっている気がしてなりません。管理する人が障害者の立場に立ってしっかり点検していれば、こういうことが起こるはずはないと思います。
 また、授業でも取り上げられていた多機能トイレのぞんざいな扱いにはのとても残念な気持ちになりました。せっかくバリアフリーの機能を持たせたトイレが、これでは健常者にとってですらバリアーを感じるものになってしまいます。これも点字ブロックと同様のことが言えます。
 他にも探してみればいくらでもこのような事例は見つかると思います。それらの問題を見て見ぬふりをするのではなく、地域に生きる自分たちの問題としてとらえ、行動していくことが大切なのだと思います。


投稿者: あとむ | 2010年07月02日 10:44

 改めて街を見てみると、これほどまでに利用者を考えていないのかと驚きました。
 点字ブロックを見ても曲線を伴っているもの、途中で途切れているもの、さらにはそれを塞ぐ障害物もあります。
 これらの設備を設計、管理している人たちはバリアフリーを意識しているつもりになっているだけではないでしょうか。「つもり」では全くやっていないのと変わらないと思います。やるならやるで、法や規定に従うのは勿論、利用する人の立場に立って、同じ目線で物事を考えてもらいたいものです。


投稿者: kuhn | 2010年07月07日 18:33

 掲載された写真を見て、何のためのバリアフリーなのかと憤りを感じました。万人が利用しやすいようにと考案された事物でも、そこを管理したりまたは一般に利用する私たちの意識が十分でなければ意義を果たさないで無駄になってしまいます。それは本当に情けないし、悲しいことだと思います。
 私が普段何気なく歩いている道や、利用している場所にも、バリアフリーとは名だけになってしまっているものがあるかと思います。ちょっとした段差や坂でも、身体に障害のある方にとっては大変な障害になることは介護施設に赴いた際に、強く実感しました。これを機に、注意深く見てみたいと思いました。


投稿者: 冷茶 | 2010年07月09日 11:25

私の友人に車いすの方がいるので、よくサポートさせていただいているのですが、車いすの方は大変だといつも思います。普通の道路のちょっとした段差でも注意していかないといけないし、上り坂なんかも大変です。であるから、サポートの方がいない時にはとても苦労しているのだとよく思います。よってバリアを減らすことは大変重要だと思うのですが、写真にもあるように街にはバリアがあふれていて残念に思うとともに、自分も気づかなくうちにバリアを作っている気もします。障害のある方への意識を高めることも重要だと思いますが、それだけではもう解決できないような状況にあるとも思います。細かいところまでルールとして決めていかなければならないのではないでしょうか。


投稿者: みすちー | 2010年07月14日 12:23

 マンホール上の点字ブロックの管理には驚きました。使用者のことなど何一つ考えられていない悲惨な状況です。その他も、使用者のことは考えられず、とりあえず形として作りさえすれば良いという考え方があるのが現実なのでしょう。
 何も整備されていないというのも問題ですが、デザインだけして、管理がなされないというのも全く意味のないことで、逆に、使用する方を危険にさらすことにもなりかねません。正直なところ、このように取り上げられなければ、自分も特に気に留めることがなかったのではないか思うと、とても恥ずかしく情けないです。
 本当に必要としている人のことを、本気で意識しなければ、真の意味でのバリアフリーは成されません。私たちはもっと関心を持たなければなりません。バリアフリーが、障害者の方のための特別なものではなくて、誰もが社会の中で生きやすくするためのものであるという意識は持っているべきだと思います。今は、自分が設計したり管理したりする形で関わることは難しいけれども、社会の様々な面に目を向け、最低でも、こういったことに気づくという、まずは自分の意識から変えていきたいと思います。


投稿者: チロル | 2010年07月19日 22:01

小学生の時、『身の回りのバリアフリー』を見つけに行く、という授業があって、ひたすら点字ブロックやスロープを探し回った記憶がある。
しかし、その時は障がい者の立場には全く立っていなかった。授業は『身近にはたくさんのバリアフリーがある』ということで終わった。
確かに、あちらこちらに点字ブロックはあるが近くに電柱や壁などの、盲目の人にとっては危険な建築物も多々ある。
一見バリアフリーに役だっているでように見えてもそれらはただのしるしでしかないのかもしれない。『この建物はバリアフリーを考えています』という表面だけいいところをみせようとしているのだろう。街並みに関しても、自治体の冊子にはここぞとばかりにバリアフリーの建築物が並んでいるように思う。
見掛け倒しではなく、きちんと使用する人間を考えてバリアフリーを作っていかなければならない。


投稿者: みん | 2010年07月20日 21:39

バリアフリーで大切なことは、暮らしている人の意識だと思います。意識するだけで変わるとは思いませんが、意識さえも無いのなら、身の回りの不自由さに気づくのは身体に不自由のある人だけです。見渡してみると、たくさんのバリアがありました。途中で切れてしまっている点字ブロック、通りに沿って植えられた木から垂れている枝などです。先生もおっしゃっていましたが、この場合完全に管理者の問題です。機械的に働いている人に対して、バリアフリー意識を持たせるのは非常に大変です。それらを変えることのできる人がバリアフリーに関心が無く、変えることのできない人が関心があっても効果はあまり無いと思います。だから関心のある人が無い人にそれを訴えていく以外にバリアフリーを進める方法はないと感じました。


投稿者: amy | 2010年07月20日 22:24

手すりもスロープも点字ブロックも広く場所を設けられているトイレなど。頻繁に目にするこれらの設備に、最近はだんだんみんなにとって住みやすい街になってきたのだな。と感心していた私は先生の講義をきっかけに少し勘違いをしていることに気がつきました。先生の講義は目からうろこの講義でした。そうか。バリアフリーってただやればいいってもんじゃないんだ。と痛感しました。何のために点字ブロックを敷設しているのか。使う人はどのような状況なのか。バリアフリーの意味を考えて、使う人のことを考えて、設備を整え、更には管理していく必要があるのですね。非常に良い機会となりました。ありがとうございます。


投稿者: はちさん | 2010年07月21日 00:11

最近世間ではバリアフリーの大切さが叫ばれており、あらゆる障壁に配慮したものが作られてる。
しかしこの記事で指摘しているように、中途半端でかえって危険を招く可能性のあるようなものがたくさんある。多くの人々が、バリアフリーに対する正しい知識がないためだと思う。障害を持つ人の立場に立って物事を考えられるようにする必要がある。道路の点字ブロックが途中で途切れていたり、曲がっていたりするのは、そのような考え方が出来てないからだと思った。今回この記事を読んでバリアフリーについて勉強する必要性を感じた。今度バリアフリーに関わるものを探してみようと思った。


投稿者: リョウダ | 2010年07月21日 09:59

トイレの物置化や障害のある人だけが使うようにと促す張り紙、点字ブロックのずさんな管理はどれも健常者にはなんてことのないものだけど、そうでない人にとってはとても大きな障害になる。管理する側は、点字ブロックや多機能トイレを自分とは縁のないものだという気持ちがどこかにあるからこのような管理になってしまうのだと思う。バリアフリーはみな同じ目線になる必要がある。自分とは関係ないとは思ってはいけない。改めてそう思いました。


投稿者: たなき | 2010年07月21日 12:20

このブログを読んであらためて街中を見てみると、この写真のように余りにも管理の甘い点字ブロックが多数あることに驚いた。“バリアフリー”の重要性については、メディアなどでよく取り上げられている。しかし、ただ名ばかりの“バリアフリー”では何の意味もないと思う。
また、聞いた話なのだが、駅の階段などについている点字は間違っていることがあるという。1階なのに2階と表示されていたり、場所が間違っていたり…。点字ブロックや点字は、障害者にとってはなくてはならないもの。それがこのような状態なのは問題だと思う。管理する人も意識していくべきだと思う。


投稿者: セナ | 2010年07月23日 10:40

 先日、実際に点字ブロックの上を歩いてみたのですが、ブログで述べられているように本当に管理されていないんだなということを実感しました。なぜなら、歩いていたら歩道に植えられた木や、各家庭から伸びてる植物ににぶつかったりしたからです。また、実際にマンホールがずれているのも確認できました。これらのことが起こっているのは、点字ブロックの意味と必要性を制作者や管理側が理解していないからだと思うので、こういうところをどうにか変えていってほしいと思います。


投稿者: みくみく菌 | 2010年07月23日 12:51

私は、先生の講義を受けて改めて身の回りの点字ブロックやユニバーサルデザインに目を向けるようになりました。普段道を歩いていてあまり注目しない点字ブロックにもたくさんの障害があることを知りました。マンホールの蓋のでたらめなはめこみでずれてしまった点字ブロックや点字ブロックに沿って歩くと車止めにぶつかってしまうところなど障害を持った方にはとても危険な場所がたくさんあり、改善すべきだと思いました。自分のことだけでなく、障害を持った方の気持ちになって道路などを作るべきだと思います。もっと、すべての人が安全に過ごすことのできる街づくりが必要だと思いました。


投稿者: たみ | 2010年07月23日 18:30

先生の講義を受けて、点字ブロックなど障害者の方が安全に暮らしていくためのバリアフリーが酷い管理をされていることがわかりました。今まで自分が点字ブロックを使うことがなかったので、あまり点字ロックに注目してきませんでした。しかし、よく思い出してみると先生が例にあげたように、点字ブロックがずれていることがあったような気がします。その時には、ずれてるけど大丈夫なのかな、と思ったけれど自分の生活とあまり結びつきがなかったので、気にとめませんでした。先生の講義を聞いて、障害を持つ方の立場、また気持ちになって考え、行動していくことが、とても大切だと感じました。私も他人事という風に思わず、行動していかなければいけないな、と思いました。管理者の方も、もっと意識してほしいです。


投稿者: もんちっち | 2010年07月23日 18:37

授業でバリアフリーについて講義していただいてから帰り道にある点字ブロックを気にかけてみると、ブロックの上に自転車が停めてあったり、すぐ横にフェンスがあったりと、確かに点字ブロックを頼りに歩いている人がけがや事故にあう可能性が高いことに気がつきました。講義を聴く前はこのようなことに対して、全くと言っていいほど気に留めていませんでしたが、改めてみるとひどい状況で、特に驚いたのがフェンスが点字ブロックのすぐ横にあったことでした。だれが設置したものなのかはわかりませんでしたが、盲目の方の都合など何も考えていないような設置の仕方でした。自分は利用していないから、利用している人をほとんど見たことがないなどの理由であまり気に留めないという人も多いと思いますが、一人ひとりが常に問題意識を持って行動することが最も大切なことであると思います。


投稿者: のあ | 2010年07月25日 22:29

意識するまでは見過ごしてしまっていましたが、意識してみると問題点が沢山見つかりました。バリアフリーだと言っておいて、実際は全然そうではない実態は酷いと思いました。マンホールの点字ブロックがずれていたりするのは管理者の意識の低さが伺えます。障害者の立場になって管理していくことの大切さを実感しました。
それから門前払いは本当に酷いと思います。差別でしかないと思いました。このようなことが今後なくなって欲しいと思います。


投稿者: りんごあめ | 2010年07月26日 01:56

国民全員が不自由なく暮らせることはこのままでは難しい。
道路の設計者や工事者は障害者の方のことを気遣えていない。それは、自分の周りに障害者の方がいないからだと思う。一方で、障害者の方は社会に出たいが出られないということ。これは悪循環である。
法は健常者のおごりで終わってしまっている。
また、皆が平等に暮らせるようにするために障害者の方を支援することが特別扱いなのだろうか。
まずは、障害者の方との交流を通して声を聞いてみたい。私たちには分からない不都合なことが山のようにあるに違いない。一つ一つ丁寧に解決していくしかないのである。


投稿者: BULE | 2010年07月26日 11:11

自分は今まで町を歩いている時に点字ブロックをみてもそれほど気には止めていませんでした。しかし、意識してみると障害者にとって危険な状況がかなりあると感じました。この記事にもあったマンホールもそうですが、これを管理をしている人は障害者のことをまったく考えてないように思えます。
バリアフリーと世間で騒がれていますが、造って終わりで管理が全くなってないと思います。一人一人が障害者の立場に立って考え、日頃からこのような問題について真剣に考える必要があると思いました。


投稿者: バンブー | 2010年07月26日 20:03

私はある公共の場所で階段を上った先にある障害者用トイレを見た事があります。授業及び今回のブログは健常者である私たちにはなかなか気づく事の出来ない場所で意味のないバリアフリーが多くあるのではないかと考えるきっかけになりました。

 身体に障害のある人に対しての大阪府の対応は理にかなっていると感じる事も出来ますが、その理屈を極端に進めると一般の人(=健常者)と比べて劣る人は存在する必要がないという事が出来てしまうと思います。たとえ障害があったとしても出来る事はあるのだからそのような考えをすることは人間としての心を感じる事が出来ません。特に公共の場でこのような対応をとってしまうとその人は社会から見捨てられたと感じてしまうかもしれません。他の場所では公共の場であるかどうかにかかわらずこのような対応をされないことを願っています。


投稿者: ムシャ | 2010年07月27日 01:41

先生の講義を受けて、私たちにとって当たり前で普通のことが、障害者の方にとってはとても大変であることに、改めて気づかされた。そして点字ブロックや多機能トイレのずさんな管理には驚いた。これらは管理者の障害者への配慮の無さだ。管理者はこの状態がどれだけ障害者にとって大変であるか、理解出来ていないのだろう。つまり私たち障害のない者のバリアフリーに対する知識や意識が足らなすぎるのだと思う。一人ひとりがもっとバリアフリーに対する意識を強めないと、この状況は変わらないだろう。
これから毎日を過ごしていく中で、私が出来ることは少ないとは思うが、少しでもバリアフリーの手伝いをしていきたい。


投稿者: YG | 2010年07月27日 18:34

先生の講義を受けて、私たちにとって当たり前で普通のことが、障害者の方にとってはとても大変であることに、改めて気づかされた。そして点字ブロックや多機能トイレのずさんな管理には驚いた。これらは管理者の障害者への配慮の無さだ。管理者はこの状態がどれだけ障害者にとって大変であるか、理解出来ていないのだろう。つまり私たち障害のない者のバリアフリーに対する知識や意識が足らなすぎるのだと思う。一人ひとりがもっとバリアフリーに対する意識を強めないと、この状況は変わらないだろう。
これから毎日を過ごしていく中で、私が出来ることは少ないとは思うが、少しでもバリアフリーの手伝いをしていきたい。


投稿者: YG | 2010年07月27日 18:34

多機能トイレの件も点字ブロックの件もどちらも共通して言えることは、それらを利用する人たちのことを考えることができていない人が多いということだと思いました。バリアフリーはたしかにお金を駆使すれば日本中に設備することは可能ですが、本当の意味でのバリアフリーを実現するためには、みんなが他者を意識し、おもいやりあうことで人との間にバリアをなくすことだと思いました。そのとき初めて設備されたバリアフリーが最大限に活かすことができると思います。
いま、バリアフリーについて一人ひとりが捉えなおす必要があるときなのではと感じました。


投稿者: ピーター | 2010年07月27日 19:17

私の地元は、点字ブロックがない道がほとんどです。数年前、盲目だと思われる年配の方が、点字ブロックのない道を杖をついてゆっくり歩いていました。その歩くペースは、私が心配になるほどとても遅く、その時私は点字ブロックがあれば良いのにと思いました。
しかし、このブログの点字ブロックに関する記事を読んで、点字ブロックのある道でさえもバリアフリー社会が実現されないことがあるという事実に驚きました。国民の心にバリアフリーが根づき、日本でバリアフリー社会が実現するのは、まだ先のことであると感じ残念に思いました。


投稿者: ケイゴ | 2010年07月27日 22:56

最近では「バリアフリー」という言葉は、ずいぶん聞きなれた言葉になってきたと思います。実際に、点字ブロックや多機能トイレ等を目にする機会は増えました。
しかし、このブログの写真を見て、私たちは「バリアフリー」という言葉の意味を未だ理解しきれていないのだと感じました。
私たち一人ひとりが日常生活において、障害をもつ人やお年寄りの立場になって、身の回りをみる力を身につけていく必要があると感じました。
また、「心のバリアフリー」は、これからの日本において、大きな課題になると思いました。


投稿者: ちび | 2010年07月27日 23:10

私は、現在病気の治療中で松葉杖での生活を送っています。過去には車椅子でしばらく過ごしていたこともあります。今でこそあまり不自由を感じずに日々過ごすことが出来ていますが、不便だな、と感じたことは多々ありました。

車椅子で多機能トイレのを使用した時、不備も何度か経験しました。さすがに荷物置きになっていることはありませんでしたが、床が湿っていてタイヤが滑る、ということを数回経験しました。
車椅子だったので転倒まではいきませんでしたが、松葉杖になってからは、湿ってる床で何度も転びました。

使用する人が少ないから清掃を怠っていたのかもしれませんし、前に使用した人が水をこぼしてしまったのかもしれませんが、どちらにしても、本当に必要としているひとへの配慮、というものが感じられないし、けがの元となるので、恐ろしいことだなと感じました。

実際に不便を経験しないと、バリアフリーのようでそうなっていないところや、自分が妨げているところに気付くのは難しいのではないかと感じます。しかし、それだけではいけない。私たちは本当のバリアフリーというものをしっかり考えて、行動に移していかなければならないと思います。


投稿者: らんと | 2010年07月28日 00:24

 きちんと設計・施工・管理のされていないバリアフリーがあることに気づかされました。また、きちんと設計されているところでも、管理する人がバリアフリーについて何も考えずに管理していては、意味がないということが、トイレと交差点の写真でよくわかりました。
 今まで私の身の回りでも、問題のある点字ブロック等があったにもかかわらず、私はそのことについて真剣に考えもせずに生活していたことにショックを受けました。これからは、私のようにバリアフリーについて意識していない人が、バリアフリーの問題に気づき、意識していくことが大切だと思いました。多くの人が意識することが、改善の第一歩になるのではないのでしょうか。


投稿者: しゅしゅ | 2010年07月28日 05:55

私はこれまで生活してきて、何度もこの記事のように、形だけのバリアフリーになってしまっている現状を見てきたはずなのに、何でこんな風になってしまっているんだろう、とは思ってもその後特に気にしたり、深く考えることもせずにいました。しかし、そういった考えこそが形だけのバリアフリーを許しているのだと、このブログを読み実感させられました。
「バリアフリー」と言ってはいても、本当の意味でのバリアフリーが浸透していないから、点字ブロックを設置するときに沿って歩くと何かにぶつかるような場所に設置する、多機能トイレの広いスペースが車イスのためでなく、物置になるといった事が起きるのだと思います。その形だけの現状を多くの人に知ってもらうこと、何より私たち一人ひとりが気づき、考え、行動することが改善のために大切なことなのではないでしょうか。


投稿者: シヲ | 2010年07月28日 12:35

この記事を読み、バリアフリーというものを障害のない人がそれを設置したという既成事実を作り満足しているだけのように感じました。
特に点字ブロックの件はそれに従うことで逆に危険を伴ってしまうため、このような管理はあってはならないはずです。
管理する側の人間が、使う側の人間の事を考え、行動していくことが大切だと思いました。


投稿者: お~い粗茶(微糖) | 2010年07月28日 12:58

私の地元、実家の近所には盲学校があります。盲学校と最寄りの駅との間の歩道には点字ブロックが整備され、さほど大きくない交差点ながらも信号機には音で青信号を知らせる装置が設置されています。幸い、ブログに記載されていたもののような施工・管理がなされている個所はありません。
私は、小学校時代に盲学校で「見えない」ということはどういうことかという体験をさせてもらいました。なので、視覚に障害があるということが、どれほど大変なことであるか良く理解できます。
点字ブロックなどの介助装置を設計・施工する立場の人は、それを使う立場に立ってみて考える、または経験してみることが必要なのではないでしょうか。そうすれば、ブログに記載されていたようなことは起こらないと思います。


投稿者: ケロタン@マウスポインタ | 2010年07月28日 12:58

この記事を読んで、私はバリアフリーに対する知識が少ないことに気付かされました。バリアフリーと聞けば、いつでもすごくいいことのように思っていました。利用者の立場になり、本当に利用者の助けになるものであるかを考えることが必要だと感じました。
多くの人がそれに気付き、改善点を見つけることが大切だと思います。


投稿者: ちょりん | 2010年07月28日 13:14

 バリアフリーを利用する側の立場や視点に立って考えないで点字ブロックなどを設置してバリアフリーをやった気になっているということは、今日においてはとても残念であり、そして自らも深く注意しなければならない事だと思い知らされました。
 言葉としては頻繁に聞くバリアフリーの概念は設計者や施工者に形だけの安易なものと誤解されてしまっているという現状を変えるためにも、個々人が共に暮らせるように意識を持ち、役所などを動かすことができたら良い方向に進むと思います。


投稿者: ぬっぴ | 2010年08月02日 17:13

 今回講義でユニバーサルデザインについて学びバリアフリーについて理解を深めることができました。今まで日本ではバリアフリー化が進んでいると思っていましたが、他国に遅れをとっていたり、杜撰な設計や管理で偽善的なものになってしまっていることがわかりとても残念に思いました。


投稿者: フランドール・スカーレット | 2011年01月05日 17:59

 私は先生の講義の中で多機能トイレがまるで荷物置き場のように扱われている写真を見てとても悲しくなりました。点字ブロックや車止めについてもそうです。あのままでは点字ブロック本来の意味が損なわれるだけでなく、かえって点字ブロックに即して歩く方々がけがをする危険性さえあります。
 しかし私はこのような状況を先生に言われるまで気づいたことも、気にしたことがありませんでした。バリアフリーという言葉も意味も知っているつもりだったのに実は何も分かっていなかったのだと気づかされました。
 私たちはどこかバリアフリーという言葉の意味を履き違えてしまった気がします。「バリアフリーというものが必要だからバリアフリーを設置した」ということだけでいいのでしょうか。ただ設置すればいいということではないと私は思います。みんなが嫌な気持ちをせずに、気持ちよく過ごせるようになることが大事なのではないかと私は思います。


投稿者: あんずっこ | 2011年01月09日 13:04

 今回の先生のブログを読み、現在日本でいかにバリアフリーが形式的に行われているかがよくわかりました。
 そもそもバリアフリーとは障害のある方の生活に不便な障害を取り除こうという考え方なのにも関わらず、点字ブロックを設置してしまえばバリアフリーになったと勘違いしている人が多いように思う。重要なのは設置後であり、現状ではそこまで意識が行き届いてないということが分かる。いつも健常者の視点からものを見てしまっているので、平気で道に自転車を置いたり、多機能トイレに障害物を置いたりしてしまうのであろう。
 真のバリアフリーのためにはまず障害を持つ方、高齢者の方と同じ視点から物事を見て、常にその様な人たちに気を配ることが重要なのではないだろうか。


投稿者: TOT | 2011年01月12日 01:32

 まず、多機能トイレの写真を見て、とても悲しくなりました。おそらく、利用者が少ないことや広さの面で、物置として使われたのでしょう。いくらバリアフリーを目指してこのようなものを設置しても、管理者にバリアフリーの意識が無ければ何の意味もないのだと実感しました。点字ブロックにおいては、もう設置する段階からバリアフリーの意識が欠如しているとしか思えません。とりあえず作るけど健常者の邪魔にならないように・・・というような印象を受けてしまいました。
 また、よく街中で点字ブロックの上に自転車などを停めているのを見かけたりもします。バリアフリーを目指すうえで一番大切なのは、私たちひとりひとりがバリアフリーに関心を持ち、住みよい町を目指すことだと感じました。でなければいくら多機能トイレや点字ブロックを設置しても今回の写真のようになるでしょう。


投稿者: ゆーき | 2011年01月14日 00:58

 この写真を見て、日本ではバリアフリーという言葉が形ばかりで進んでいると思いました。
 バリアフリーとは、ただ工事をして設備を整えればそれで完了というわけではありません。設備を作ったうえできちんとした管理や、ひとりひとりの心掛けが必要なのだと実感しました。
 私は小学生の時に、障害者体験で実際に車いすに乗ったり目隠しをして歩いたことがあります。健常者には難なくこなせることが、とても困難で時間がかかりました。なので、写真にあるような点字ブロックの配置には恐怖を感じました。


投稿者: さっちゃん | 2011年01月14日 14:41

 今回の記事を読んで、私はバリアフリーという言葉や意味をただ知識として知っているだけで、バリアフリーというものを全く理解できてなかったということを思い知らされました。
 先月、街を歩いているときに点字ブロックが途中で剥がれているところを見かけたが、私はそれがどれほど危険なことかを全く認識してませんでした。しかし、この記事を読んで点字ブロックが剥がれていることが視覚障害のある人にとって非常に危険な状態だということに気づかされました。
 今の日本には、私のようにバリアフリーという言葉だけを知っていて本当の意味で理解してない人が大勢いると思います。今回の記事にあるような点字ブロックの管理をしている人も多分そういう人なのだと思います。これから、本当の意味でのバリアフリーを実現していくためには一人一人がバリアフリーに対して本当に理解していくことが必要であると強く感じました。


投稿者: じゃいあん | 2011年01月16日 11:46

 点字ブロックの設置は広まっていますが、今回の記事を読むと、ただ設置してあるだけになってしまっているところもあることに気付きました。
 私も街などを歩いていると、点字ブロックをいたるところで見ますが、道の途中で途切れていたり、一部がはがれてしまっていたりするのをよく見かけるな、と思いました。このことについて、私は特に目を向けて考えたことはありませんでした。
 しかし、ある授業で、目を隠して大学内を歩いてみる、ということをしたときに、周りになにがあるかわからないし、どんな危険が潜んでいるかもわからないし、歩いて行く手がかりがないことがとても怖かったことを思い出しました。
 このことから点字ブロックも、ただ設置しただけでは、目の見えない人は安全に歩いて行けないし、設置してからもバリアフリーを考えて、管理していかなければならないな、と思いました。


投稿者: ねぎ星人 | 2011年01月19日 12:43

 私はバリアフリー加工の家に住んでいます。そのせいか、日常生活に存在するバリアフリーを自然と見つけるようになりました。しかし、実際にはバリアフリーとは名ばかりで全く機能していないものばかりが目にとまります。
 また、電車のホームには地下鉄のように線路とホームの間に仕切りのようなものはなく、いつも「もし何かが原因で足元の点字に気付かず、全盲の方が線路の方へ進んでしまったら」と考え、ゾッとしていました。案の定、悲しいことに先日とある駅で盲目の男性の方が線路内に落ちてしまい、そこへ偶然にも電車が通ってお亡くなりになりました。
 何故このような事件が起こる事を政府は予測できなかったのか、先に取り組むべき本当の事柄、社会のありさまが見えていないのではと日々思います。
 皆が自分の家族のように相手のことを考え、「もし」を想像するならば、このような悲しい事故も、飾りのようなバリアフリーもなくなるのではと、しみじみ感じ、障害者に対する日本の冷たい姿勢がこのようなかたちで福祉に現れているなと思いました。


投稿者: ナミ | 2011年01月19日 13:41

 こんにちは。先日、先生の講義を受けさせていただいた北九州市立大学の学生です。

 今回のブログ記事を読ませていただき、日本のバリアフリーが本当に形式だけのバリアフリーであることがよくわかりました。

 設置しただけでバリアフリーをやった気になっているということで、何のために設置しているのかをまるで理解していないと思います。


 本当に必要としている人のことを、本気で意識しなければ、真の意味でのバリアフリーではないと思います。

 バリアフリーというものが、障害者の方だけのための特別なものではなくて、誰しもが社会の中で生活しやすくするためのものであるという意識は持っているべきだと思うので、まずは自分自身の意識から変えていきたいと思います。


 今回のブログ記事で学んだことは、何より必要なのは、社会の態度や意識の変化や「心のバリアフリー」なのではないかと思いました。


投稿者: ハニカミ | 2011年01月19日 16:23

 日本では制度上決められているから、仕方なくとってつけたような、「バリアフリーもどき」のようなものが多くあるのだなあと思いました。
 本当に障害のある人を考えていればこのような設計にはしないであろうと思われるような点字ブロックや、勾配の急な車椅子用のスロープを見ると、ほんとに金の無駄だなあと思います。
 また、「物置化している多機能トイレ」や「正しい方向で閉められていない点字ブロックのついたマンホール」の例にあるような管理の問題は、管理している人間が気をつければいいことなので、しっかりしてほしいと思います。
 このような問題を解決するためには、設計の際に、実際に障害を持つ人の意見を聞く事が大事なのではないかと思います。そうすることで私たちの気づかないような点を改善できるのではないでしょうか。
 また管理においても、バリアフリーに理解のある人(例えば専門家)が点検したり、少なくとも管理する人間がバリアフリーに対する理解をするべきだと思います。


投稿者: あこ | 2011年01月19日 16:54

 講義を聞き、このブログを読むまでバリアフリーについて深く考えることがあまりありませんでした。
 ブログに載せられている写真のような“直線の歩道でありながら「まっすぐに歩かせようとしない」点字ブロック”を見かけても、何も感じずに平然と通り過ぎていたかもしれません。講義を聞き、ブログの記事を読んで、そんな自分が恥ずかしいと思いました。
 健常者にとってはほんの些細なことでも、障害を持つ人にとっては重要性が高いこと、それを忘れてはいけないなと感じました。
 しかし、このような現状を目の当たりにすると、嫌でも健常者中心に回っているのだと考えざるをえません。
 バリアフリーと口で簡単に言うのではなく、障害を持つ人の気持ちになって考えることが第一歩なのではないかと思います。
 バリアフリーについて関心が薄い人はまだまだたくさんいると思います。そのような人が少なくなり、自分の生活している街が誰にとっても住みやすい街であるのかを考えられる人が増えたら、このような現状も改善されるのではないかと思いました。


投稿者: あまおう | 2011年01月20日 12:51

 写真を見て、管理が行き届いていないバリアフリーの設備や、一見バリアフリーに見える設備をつくったことに満足してしまっているのだと思いました。つくる側も管理する側も、どのようにしたらバリアフリーとなるのかを理解していないと、このように無駄なバリアフリー設計の設備になってしまうのではないでしょうか。
 私たちが普段歩いている場所にも、もしかするとバリアフリーのようでそうでない設備があるかもしれません。しかし自分も含め、そのことに気づいていない人がたくさんいると思います。バリアフリーという言葉や意味は多くの人が知っていると思いますが、実際は関心が低いために気が付いていないのかもしれません。バリアフリーの設備はよくあると思っていましたが、写真のような使えない設備が存在しているため、思っているよりも少ないのだろうと思います。
 もっといろいろな人がバリアフリーについて正しく理解しなければいけないのだと思いました。


投稿者: ちいさいず | 2011年01月20日 23:19

 写真の点字ブロックなどのようなひどい管理のバリアフリーは初めて見たので、ちょっとびっくりしています。ですが同時に、私が意識して見ていないだけで、身近なところにもこんなバリアフリーがあるのかも、と思いました。
 バリアフリー化を進めていくのはもちろん良いことだと思います。しかし、この記事の写真の多機能トイレや点字ブロックのようなバリアフリーは必要ないのではないかと思いました。と言うより、このようなものをバリアフリーと呼んでいいのか疑問に感じました。本当の意味でのバリアフリーは、使う人本位で作られるべきであると思います。また、作られたあとも、使う人に配慮した管理を続けていかなければならないと思います。
 そのためにまずは、普段の生活でこのような不見識なバリアフリーに気づくことができるくらいに、身の回りのバリアフリーに関心を持つことが大切なのではないかと感じます。


投稿者: 粉 | 2011年01月21日 01:01

 「バリアフリー」という言葉を掲げながらもこのような適当な管理がなされている事実は悲しいです。私はこのようなものを見た記憶がないのですが、もしかしたら気付いていないだけで案外身近なものかもしれないですね…。
 そうだとすると、自分もバリアフリーに対してなんて感心がないんだと今書きながら改めて気づかされました。マンホールの件について、丁寧にマンホールにも点字ブロックを敷設していても、あれでは意味がないですよね。目の見える人に見えない人のことが完全に理解出来ないかもしれませんが、8年間ちゃんと管理されたところを見たことがないとは…。
 何かあってからでは遅いのですから、きちんと管理していただきたいものです。大阪市の件について、全盲だからだめという表面のたった一部を見ての発言はあんまりだと思いました。資格も経験もあるのに、その人の内面を全く見ようとしない姿勢は考え物ですね。


投稿者: アル | 2011年01月21日 02:50

 普段、何気なく目にしている点字ブロックは、目の不自由な方のことを考えて作られているもので当然であると思っていました。しかし、上記の写真を見ると、とてもそのような考えを含んでいないように感じられます。これはバリアフリーの為ではなく「バリアフリーのことを考えてます」とアピールしたいだけのように見受けられました。
 障害を持つ人のことを考えて、その人にとっての不自由さを少しでも軽減させることがバリアフリーであると思っています。写真の点字ブロックを設置した方は、アイマスクなどを着けて実際に歩いてみれば、おかしいことに気づくはずです。障害を持つ人の立場になって初めてバリアフリーについて考えることができるのではないでしょうか。障害を持つ人に限らず、常に他者のことを考えるのは人として大切なことだと思います。


投稿者: おむすび | 2011年01月21日 04:00

 授業で、国際シンボルマークの意味を知りました。私も勘違いしていた者の一人で、車いすのマークなので、車いす使用者だけが使って良い場所なのだと思っていました。やはり、無関心がいけないのでしょう。
 点字ブロックの上には自転車のタイヤが容赦なく乗せられているところをよく見かけます。実際に自分が不自由な生活をしていないから、そういうところに目がいかないのでしょう。しかし、ブログの写真にあるマンホールの写真は、ひどいにもほどがあると思いました。まったく考えてない心無いことだと思います。
 「なぜ点字ブロックがあるのか」「誰が点字ブロックを必要としているのか」など、点字ブロックを設置する人や管理する人は、きちんと説明され、理解しないといけないと思いました。


投稿者: 鮭 | 2011年01月21日 12:18

 バリアフリーについて講義を受けたことで、今まで持っていたバリアフリーのイメージを変えることができました。
 近年言われてきたバリアフリーですが、よく公共の施設や公衆トイレなどで見かけるのですが、いつも見るたび「どこがバリアフリーなのか」と疑問に思っていました。確かに点字が表記されていたり、障害者でも使えるトイレは設置されているのですが、点字は明らかに高い所に書いてあって見にくいし、トイレは閉まったままで開かないところも見てきました。
 先生が言われた通り、バリアフリーは設置したら終わりではなく、その後の使用するときにこそ発揮できなければ意味ないと思います。全国どこにでもこのような事態はあると思うので、是非すべての人たちにこの実態を知ってもらい、改善されていくことを願っています。


投稿者: DR | 2011年01月22日 09:04

 でたらめな点字ブロックの写真を見て、責任者が「設置してあげてる」と考えているようにも受け取れる状況に憤りを感じました。実際に使うことを想定していたら、あのようにでたらめにブロックを置くことは出来ないでしょう。
 しかし、街には「バリアフリーもどき」が溢れています。例えば私が通学に使う駅には、ホームからの転落を防止する壁が設置されています。電車のドアが開くと同時に、ホームの壁にあるドアも開く仕組みです。
 その壁には視覚障害者が自分が乗ろうとしているのは何両目でどんな種類(女性専用車や弱冷房車など)なのかを知るための点字シートが貼ってあるのですが、そのシートは壁の横ではなく上面に貼られています。上面のシートは内容を確認しようとしているうちに電車に接触してしまう危険が無いとも言い切れないので、見る度に不安になります。また、実際に触ってみるとシートの点字部分が擦れて無くなってしまっていました。
 このような状況を知り、バリアフリーを考えるならまず設置する前には実際に使う状況を想定し、設置した後もきちんと管理しなければならないことを痛感しました。
 『心のバリアフリー』を達成するには、まず『物質的なバリアフリー』を達成しなければなりません。そのためにも人々が間違ったバリアフリーの存在を知り、声をあげる必要があると思います。


投稿者: あんこ | 2011年01月24日 15:50

 自分は小学校時代に総合の授業で高齢者や障害者について学ぶ機会がありました。
 そのときおもりや視界を狭くするゴーグル等をつけて高齢者や障害者に近づいてみようということをしたのですが、ホントに普段はぶつからないようなところにぶつかったり足が思ったより上がってなくて段差に引っかかったりしました。
 なのでそういう人の立場になって考えるとこのブログであるような写真とかも小さいことではないなぁとよくわかります。
 先生が怒りを感じるのもわかります。
 障害者のために作っているはずなのにあくまで障害のない人目線で作ってるというのが気にくわないです。
 むしろ「バリアを増やしている」ようにも見えます。
 障害者の人は点字等を頼れば大丈夫、というより点字しか頼れるものがない、という状況なのにその点字が迷路のようになっていたり一部ずれていたりしては障害者の人は逆にそれらを「障害」と思ってしまうんじゃないかと思いました。
 自分はこのブログを見るまでは最近の日本はバリアフリーがすすんでて障害者の人も住みやすくなっているんだろうな、と思っていましたがよく考えればそんなことなかったですね。
改めて考え直さなきゃなと思いました。


投稿者: ラルフベルモンド | 2011年01月26日 01:10

 まさか「公共建築物」だとは思いませんでした。
 実際に点字ブロック付きの道を工事した人や管理している人は、「決められているから作っただけ」であって、実際にどんな人が使っているかだなんて気に留めていないのではないかと思います。
 ただ、私自身も中学生の頃に点字ブロックの上を杖をつきながら歩いている人を見るまでは、点字ブロックのことを「歩道のデコボコで、邪魔」なものだと思っていましたし、点字ブロックの上を辿って歩いたり、点字ブロックの上に自転車を止めたりしていました・実際に自分の目で見て、ようやく「これが必要な人もいるんだ」と分かり、そのような行動をとることをやめました。
 実際に目隠しをしたりして、視覚に障がいのある方のように点字ブロックを体験してみれば良いのではないか、と思います。自分の体で体得したものは、強く印象に残るのではないか、と思います。


投稿者: アサリ | 2011年01月26日 03:26

 私は直線に敷かれていない点字ブロックを見たときは驚きました。バリアフリーを整備している側には目の不自由な方への思いやりが溢れているのだろうと勝手に思い込んでしまっていたからです。この点字ブロックをどのような気持で整備していたのでしょう。この点字ブロックを実際に利用した目の不自由な方にはきっとすぐに、整備した側の無責任で思いやりのなさが伝わることを考えると心が痛みます。
 私自身もこれから身近なバリアフリーに目を向けなければならないし、設備に直接関わる人たちの使命感というものをもう一度考え直してほしいものです。


投稿者: グラバー | 2011年01月26日 10:45

 授業のなかで、物置にされている多機能トイレやマットの下敷きになっている点字ブロックの話を聞いて、そういったものに意識的に目をやるようになりました。
 先日、友人たちとバスで旅行に行った帰り、途中で止まった道の駅のような場所に設置されていた多機能トイレ。ふつうのトイレのほうには長蛇の列ができていたので、「誰でもトイレ」と使うことにしたのですが…。入ってみて驚きました。トイレのなかの半分を埋め尽くすようにものが積まれていました。これでは「誰でもトイレ」失格だなぁと、残念な気持ちになりました。
 また、自分の学校の建物のなかでも、点字ブロックの上にマットが乗っているのを発見しました。これにもがっかりさせられました。
本来、「すべての人が生きやすい、過ごしやすいように障害となるものを排除する」のがバリアフリーやノーマライゼーションの考え方なのではないのでしょうか? ならば、上記のような事例は、一部の人の都合にいいようになされているものとしか思えません……。


投稿者: たっつー | 2011年01月26日 12:35

 私は、この記事を読んで初めてバリアフリーとは言いがたいバリアフリーの存在というものを知りました。
 このような形だけのバリアフリーを無くすためには私たち一人一人が利用する人の立場にたって考えるべきではないかと思いました。


投稿者: コーヒー | 2011年02月01日 07:01

 バリアフリーという言葉はこれまで何度も耳にしてきましたが、真剣に考えたことはありませんし、意識などもしたことはありませんでした。ですから記事の写真も講義で見せられて初めて意識するという感じでした。
 バリアフリーは言葉こそよく耳にしますが、私のように言葉を知っているだけでそれ以上意識しない人はたくさんいると思います。そんな人にもここの記事を読んでバリアフリーについて知って、バリアフリーとは何かをよく考えてほしいと思いました。


投稿者: ヒデオ | 2011年02月01日 23:56

 この記事を読み、今バリアフリーといわれているものは健常者が作っているものであると思った。本来使うべき人からの視点で作っているものであるのならこのような形になるはずがなく、もっと有効的なものになるのではないのか、そこから非健常者の意見が伝えられてないと感じた。
 そして、形を作っておけばそれでよいという考えも感じられた。


投稿者: 係長 | 2011年02月02日 13:02

 バリアフリーという言葉は"身体障碍者や高齢者が生活を営む上で支障がないように商品を作ったり建物を設計したりすること"と辞書にある。
 しかし、マンホールにより点字ブロックがずれている写真をみて本当に悲しくなった。目が見える人にとっては、"ずれてるだけ"と思うだけかもしれないが、見えない人にとっては、助けになるべきものが障害となっている。
 私は、車いす用のトイレで手すりが壊れているのをみたことがある。もし、壊れているのに気付かずに体の不自由な人が使ったら事故になりかねない。これは、バリアフリーとは決して言えない。
 まわりのバリアフリーを意識してこれから見てみたい。


投稿者: stm | 2011年06月21日 13:01

 ブログの写真を見て、本来障害を持つ人の助けとなるべき存在である点字ブロックや多機能トイレが何の助けにもなっていないと感じました。
 障害を持つ人の補助になるといっても、ただ単に設置をして後の管理をずさんにしているようではそれは全くバリアフリーになっていません。どのように設置すれば最大限に効果を発揮できるか、そこまで考えて初めてバリアフリーになるのだと思います。
 このような状況が生まれてしまうのは、バリアフリーが形式的にしか捉えられていないからでしょう。今一度この「バリアフリー」という言葉の意味を理解し直し、不自由のない社会を皆でつくり上げていく必要があると感じた内容でした。


投稿者: しろ | 2011年06月26日 21:12

 自分が中学生くらいの頃から「バリアフリー」という言葉を聞くようになったが、正直なところ、日常生活で外を出歩いて特に変わったところがあるわけでもないから、元々そのような設備は最低限度はあったのではないかとも思う。
 しかし、その「バリアフリー」と言われている設備も形だけであり、障害のある方々の立場に立って考えてはいないというところから日本の「バリアフリー」のずさんさを感じた。また、日本以外の国の「バリアフリー」はどのような感じなのか知りたくなった。


投稿者: カンヌ | 2011年07月01日 17:48

 これまで、「バリアフリー」という言葉はたくさん耳にしてきましたし、車いすを利用する方のためのトイレや点字ブロックをいたるところで目にしますが、この記事を読んで、これがバリアフリーの現状だと知ってとても驚きました。
 この記事を通して、バリアフリーへの間違った取り組みを知るとともに、私自身のバリアフリーへの意識は低いものだと思いました。このような形式だけのバリアフリーがなくなるためには、利用する方の身になって考え、設置することが大切だと思いました。バリアフリーについて、私は考え直す必要があると感じました。


投稿者: MY | 2011年07月06日 09:35

 点字方向がずれてしまったマンホール、点字上を歩くと障害物に当たってしまう設計‥ずさんなバリアフリーであるが確かにこのような光景を私は実際に見たことがありました。
 ところが、そのずさんさによって困る人がいると言うところまで今回の記事を読むまでまったく頭が回りませんでした。私のように言われれば納得だと言う人も数多くいると思うので、これは不都合がある人がいるのではないかと感じるできごとがあったら、表現し、相手伝えることが必要だと感じました。
 今回なら下水道を管理している人に連絡するなど行動で示すことがより住みやすい社会を作る要因になるのではないかと思いました。


投稿者: ほほる | 2011年07月07日 16:45

写真を見て思うのは、やはりバリアフリートイレも点字ブロックもせっかく作ったのに、身体障害者のことを全く考えていなく残念だと思った。バリアフリーに関してもそうだけれど、身体障害者の立場に立ったケアが必要だと思う。そうしなければ、本当の意味で誰もが暮らしやすい社会の実現は無理だと思う。
保育士の例は難しいものだと思うけれど、少数の人の特別扱いはできないという考えではよりよい社会は作れないと思う。
ほかの人のことをすこしでもいいから普段から考えてあげることの大切さを改めて感じさせられた。


投稿者: ルーク | 2011年07月08日 22:35

記事にあるような形ばかりのバリアフリーが存在しているのは、設計者、管理者のバリアフリーに対する認識の甘さ、知識の欠如が原因であると私は思う。多機能トイレを作ること、点字ブロックを設置することがバリアフリーであると彼らは考えているのかもしれないが、それらが活用され障害をもった方々の生活が豊かになって初めてバリアフリーである。彼らには、バリアフリーに対する考えを改めること、常に使用する人の立場に立って物事を考えることが必要であると私は思う。


投稿者: A・T | 2011年07月08日 22:44

このブログで紹介されているように、管理者や設置した人の問題も、もちろんあると思う。
しかし、トイレの場合は車いすを使用しない人であったり、点字ブロックを必要としない人の意識の問題もあるのではないだろうか。

以前、駅の近くのコンビニの前で点字ブロックを覆い隠すように自転車が駐輪されていた。これは明らかに管理者だけの問題ではないと思う。


投稿者: 烈 | 2011年07月10日 22:41

 近年、「バリアフリー」という言葉は一般的なものとなり、あちらこちらで点字やスロープを見かけるようになりました。しかし、実際に障害者の方々の役に立っているかというと微妙なものが多いです。点字ブロックはただ設置しておけばいいと言わんばかりのものが多く、割れて欠けたものや、自転車で塞がれたものが目立ちます。
 私は点字ブロックを塞ぐ自転車や平気で遮る人々に怒りを感じることは多々ありました。しかし、ブログを読み、設計や管理など市や県の仕事まで形式的で杜撰なものだということに、より強い憤りを感じます。市民や県民のすべての人が快適に過ごせる空間をつくることが市や県の役割の筈なのに、こんなにも配慮が足りないのは問題だと思いました。この問題は、「バリアフリー」という言葉が広まることと、「バリアフリー」という意識が広まることは違うのだということをはっきりと示しているのではないでしょうか。


投稿者: 黒猫 | 2011年07月12日 10:13

 私は、今回のブログに取り上げられていたようなバリアフリーは“名目上の”バリアフリーだと考えています。自分の町はバリアフリーです、というアピールのためのものでしかないようにも感じられます。
 しかし、町の究極的なバリアフリーは達成が難しいものだと思います。なぜなら、バリアフリーは手間のかかる作業が多いからです。(マンホールをもとの位置に合わせることや、新しく何かバリアフリーに作り替えるといった作業等々)実際に知ったり、体験したりすること。それが、今のバリアフリーを作る側に必要なことではないでしょうか。そうすれば、これらの作業の必要性を感じられるのでは…。


投稿者: しゃけおにぎり | 2011年07月12日 22:48

 私は今までバリアフリーについて深く考えたことはありませんでした。点字ブロックがあるから大丈夫、車いすの人が使えるトイレがあるから大丈夫。そう思っていました。
 しかし、そうではないということをこのブログで知りました。
 ただ「ある」だけではなんの意味もないのですね。それをきちんと「活用する」ことが重要なのだと思いました。
 そしてそれだけではなく、利用する人のことの気持ちも考えるべきなのだと。それだけを聞くと、当たり前のことのように思えてしまいます。でも、その当たり前のことができていないのが現状なのだなと思いました。当たり前のことを当たり前にできる未来をつくる。それが今の私たちにできること、やらなくてはいけないことなのだと思いました。


投稿者: 蒼鷺 | 2011年07月12日 23:23

 「バリアフリー」という言葉だけで無条件に良いものだと思ってしまっていました。ユニバーサルデザインについての記事も読ませていただきましたが、そういった聞こえのいい政策がなされていることに満足して、実際にそういったものがどのように活用されているのかまでは目が行き届いていなかったことに気付かされました。
 前に点字ブロックをたどって歩いてみたことがありますが、慣れていないこともあり20秒しないうちに怖くて目を開けてしまいました。目の前に何もないとわかっていても怖いのに、たどっていった先の道が写真のように切れてしまっていたらどれほど怖いのか。私だったら怖くて進めないと思います。
 せっかくのバリアフリーも、しっかりと整備されなければないも同然なのではないでしょうか。形式的なバリアフリーだけでなく、それを使う人の身になって考えていくような心のバリアフリーが社会に浸透しない限り、このような現状が改善されることはないと思います。


投稿者: あこどん | 2011年07月12日 23:37

 このブログを読んで、本当の意味でのバリアフリーというものが、全くなされていないと感じました。点字ブロックは、設計するときに目の見えない人のことを考え、シミュレーションをしっかりとしていればこんなことにはならないと思います。いかにバリアフリーが形式的になってしまっているということがうかがえました。
 また、マンホールのふたに関しては私も何度か見かけたことがあり、なぜマンホールふたを閉める際に何も考えなかったのかという疑問と同時に、怒りも覚えました。
 このないがしろにされている状況を早急に打開するために、制度や法律を確立させる必要があると考えます。


投稿者: 学芸会 | 2011年07月13日 00:28

 歩道に敷設された点字ブロックが自転車や荷物などの下敷きとなっていて障害者の方が歩くのに障害となっていることは以前から問題視されテレビなどでも取り上げられていたので知っていましたが、このブログを読んではじめて「点字ブロックを管理する側のテキトーさ」というものを知りました。
 せっかく「障害者の安全のために」とマンホールの蓋にまで点字ブロックを敷いているのに、その蓋の方向を無視して点字をずらしたまましめてしまったら意味がないどころかむしろ危険です。
 目が見えている人にとっては「点字ブロックを貼り付ける」ことだけで障害者が安全に歩ける歩道が作られると思ってしまうのでしょうか。もっと障害者の身になって、といったら難しいかもしれませんが、障害者の方々に実際に歩いてもらうなどしてその意見を事細かに反映することが大切だと思います。


投稿者: smtmka | 2011年07月13日 01:35

 私は高校生の時、白杖をついた人がバスターミナルでどこの乗り場に行けばいいのか分からなくて困っているという場面に遭遇しました。点字ブロックだけでは自分の乗りたいバスがどこにあるのか分かりません
 。私は、その白杖をついた人を助けたいという気持ちはありましたが、どこか気恥ずかしいような、また人見知りをしてしまうような気持ちがあって何もすることができませんでした。しかし、そこに同じ高校の上級生が来て、困っているその人を見つけ、ごく自然な感じでバスの中まで案内していきました。私はそのとき、ほんとうのバリアフリーを見たような気がしました。
 なので、もし点字ブロックがずれていたり、車いす用のトイレに段ボール箱がおいてあったりしたら、気付いたひとが助けてあげることも1つのバリアフリーなのではないかと思います。


投稿者: yui | 2011年07月14日 07:54

 この記事を読んで、呆然とした。なんのための点字ブロックなのかと声を大にして言いたい。これでは、ただの飾りでしかないし、ホントに無意味である。
 これと少し似ているが、点字ブロックの上に平気で自転車を停めている光景を駅前などでよく目にする。ホントに悲しくなる。
 一人一人がしっかりと知識を持って意識を変えることで、真のバリアフリーになるのではないか、そう思う。


投稿者: サンデル | 2012年01月06日 21:20

 私がいま生活する上で道路の点字ブロックを使用することはない。だから、街中で目にしても深く考えることがなかったが、このブログを読み、身近な場所でのバリアフリーの管理状況がこんなにもずさんであることに驚かされた。
 バリアフリーと謳われる設備をただ設置するだけでなく、本当に必要な人々に快適に利用してもらうための設置後の点検・管理が非常に重要で、それができて本当のバリアフリー設備と呼べるのではないだろうか。


投稿者: きよし | 2012年01月12日 23:01

 私はこの記事を読んで、目の不自由な方の苦労を本当に理解していないバリアフリーとは名ばかりのずさんな対応にいらだちをおぼえました。点字ブロックをその場に設置している人や多機能トイレを管理している人からするとただの道やトイレなのかもしれませんが、障害のある方からすればとても大切なものに違いありません。そんなことすらも気づかない多くの人が考え方を改めなければ、真のバリアフリー実現にはならないと思います。


投稿者: かつかつ | 2012年01月22日 17:40

 バリアフリーやユニバーサルデザインなど、全ての人が快適に利用できるような工夫が全国的に広がってきていると思っていました。しかし、点字ブロックが敷設されたマンホールの蓋の閉め方を間違えて台無しになっているなどの現実を知り、とても驚きました。せっかく設備を整えてもこのような状況では全く意味がなくなってしまうので、管理者には責任を果たしてほしいと思いました。
 また、点字ブロック上での駐輪など、一般の人が気にも留めないところで障害を持っている人の安全な生活を妨げているということがあると思うので、一般の人の意識を高めることも大事だと思いました。


投稿者: マカロン | 2012年01月22日 20:41

講義を聴いて、またこのブログを読んで、バリアフリー設計の粗雑さに驚くと共に、自分が今までそんな環境にいながらその杜撰さに気付かなかったことを恥ずかしく思いました。先日授業で紹介された、駅の曲がった点字ブロックやバス停の点字ブロックを見に行きました。その後注意して見てみると、バリアフリーに対する認識の甘さを痛感し、またいかにバリアフリーが形式的なものになっているかを感じました。少し目を向けるだけでこんなにも問題点が見つけられるのだから、実際にそれを必要としている人は大変な不自由を感じているのではないかと推測できます。障害を持つ人の立場に立ち、すべての障壁を完全に排除することは非常に難しいと思います。しかし視点を変えて考えること、配慮すること、障害をもつ人の声をきき取り入れることはできるのではないでしょうか。そうして少しずつ今の状況を変えていくことが必要であると私は考えます。


投稿者: pons | 2012年01月24日 19:21

 バリアフリーの実現のためには設備を整えることは第一だと思いますが、画像のようなものでは確かに効果は薄いと感じます。これらは施設の作成に関わった人たちの意識の不足が原因だと思いますが、つまりは一般的にはそのようなことも意識されずにバリアフリーが行われているということでもあると感じました。点字ブロックやスロープ等、バリアフリーが目に見える形で作られるために、それがあることだけで満足してしまうのかもしれません。
 このようなことを言っていますが、私自身もそのように満足していたように今では感じます。今まで何気なく見ていた施設に対しても本当にバリアフリーを実現しているのか、自分の意識を変えていこうと思います。


投稿者: らじあな | 2012年01月25日 12:09

講義やこのブログを読んで、このようなバリアフリーは、誰のためを思って作られているのか疑問に思うくらいひどいと思いました。しかし、今までこのような現状であることも知らず、また考えたことのない内容でした。このような無関心さが、この現状を生んでいるのではないかと思います。また体の不自由な人やお年寄りとの関わりが少なくなっていることで、そのような人のことを考えなくなっていると思います。このような問題を解決するには、1人でも多くの人がこのような現状であることを知ることであると思います。点字ブロックのそばに自転車などを置かないなど小さいことから意識することで、バリアフリー社会の実現につながるのではないかと思いました。


投稿者: ネロ | 2012年07月05日 22:43

車いすなどを使用する人がトイレを利用しやすいように作られた多機能トイレがもの置き場になっている、点字ブロックが敷かれているマンホールなどの蓋のでたらめな管理方法で点字ブロックの役割が果たされていない。
このような日本の福祉施設に対する管理状況に少し衝撃を受けました。福祉施設が一体何のために作られたものなのか、管理する人々は意識していないことに違いはありません。せっかく作られた福祉施設なのです。もっとその施設が役割を果たすために心がけて管理すべきだと私は思います。


投稿者: ウサギ幼稚園 | 2012年07月14日 14:28

 バリアフリー。ユニバーサルデザイン。最近、これらの言葉がよく聞こえる。しかし、それらは果たすべき責任をすっかり忘れているように感じられる。
 写真をみてもわかるように、放置されたり、元々違った設置法になっていたりして、使用できない状態になっている。わざと設置したとすれば、適切に管理するのは当然なことではないのか。また、当事者を考慮した魂のあるものではなく「特別な」デザインをして収益をあげようと考え込んでいると批判されているユニバーサルデザインも同じである。
 我々は、バリアのない社会形成のためにがんばっているとはいっても、今のような心構えだと、時間無駄・お金無駄に過ぎず、バリアをもっと高くして当事者を傷つけてしまう。したがって、「本気」を出して当事者を考慮するのが必要な基本要素ではないかと思う。


投稿者: バーバル | 2012年07月15日 19:09

マンホールの上の点字ブロックがずれていることや、使う人にとっては不便であるような設置のブロックは誰のためを思って作ったのかわからないですね。でも、自分がその立場に立って考えることって結構難しいと思います。だからといってああいう風な作り方をしてしょうがないと言いたいのではなく、分からないなら実際に使ってみて改善すべき点はどこかということを明らかにしていけば、もっと有効なバリアフリーを実現できるのでは、と思います。
また、そういったバリアフリーに関して、講義で初めて知ったこともあったので、自分たちがどのように設置すべきかなどの理解を高められるような活動も重要になると思います。


投稿者: Tokai | 2012年07月18日 12:07

この記事を読んで日本のバリアフリーがいかにいい加減であるかが分かりました。バリアフリーという言葉が世間に浸透し、障害者トイレの設置、点字ブロックの設置などが進んでいるが、それは形式的で表面的なものにすぎず、本当にそれを必要とし、利用したいと考えている人のことは考えていないのだと思いました。せっかく作ったものなのだから、管理する側も責任をもって管理しなければ本当のバリアフリーは実現できないのだと痛感しました。一人ひとりの理解あってのバリアフリーだと思うので私自身も気をつけていきたいと思います。


投稿者: buzz | 2012年07月18日 12:32

私は自分の近くでもこのようなマンホールの蓋を見かけたことがあります。その時はただ、点字ブロックがうまく繋がってなくて気持ち悪いと感じただけでした。でもこれは私が健常者であるからの気持ちでした。目の不自由な人にとっては命取りになる状態だということに、講義やこのブログを読んで感じました。これは形だけのバリアフリーで全く機能していないと思います。とりあえず障害者用のトイレを設置した、とりあえず点字ブロックを敷設したという感じが私は許せません。先生もおっしゃる通り、「税金のムダ使い」です。でも、これをムダ使いだからと止めてはいけないと思います。ちゃんと機能したバリアフリーにするならば、税金をもっと使ってもいいです。
 また、バリアフリーについては健常者だけの意見では良いものができないと思います。自分たちは不自由していないから、本当に不便なところには気づかないものです。だから障害者の意見をもっと聞くようにしたほうがいいです。そうしてお互いが協力し合い、住みやすい町をつくって行けたらいいと思います。


投稿者: まゆっぴ☆ | 2012年07月18日 22:01

点字ブロックがなんのためにあるのかということを考えてみれば、このような施工では困るということがあらためてわかりました。しかし、なんのためにあるのかがわかっていても全盲の人がどのように使用しているのかがわからず、指摘しているのを読むまで点字ブロックの両端にものがあると歩行の邪魔になるということに思いがいたりませんでした。こうしてみると、バリアフリーだと思っているものが実は形だけというものは多くあるのだろうと思いました。


投稿者: りむす | 2012年07月21日 02:41

このような事態が起こっている事実は本当に残念だと思います。しかし、私たちが改善しようと行動を起こせていないのも、またそれさえに気づいていないというのもまた事実です。私たちの生きる世界は、どうしても不自由のない人の利便性を重視し、障がい者の立場を考えない(上記の写真など)ことになりがちですが、障がい者のための街づくりはもちろん、私たち自身も、例えば点字ブロックの側には自転車を決しておかないことなど、当たり前のことだけど身近にできることがたくさんあると思います。


投稿者: ぴこぴこ | 2012年07月22日 20:55

このブログを読んだ後、道路を歩く際に点字ブロックの配置に注目して見ることが増えました。すると、今までは気づかなかったのですがマンホールのふたの向きがおかしいものや、目の見えない方が歩くには難しいと思われるものがたくさんあることに気が付きました。私も今まではそれに気づかなかったように、目の見える人にとってそれは気づきにくいことです。しかし、それによって不自由を感じてしまう人がいるのでは、バリアフリーの意味がないと思います。改めて、バリアフリーとは何か、何のためにあるのかを考えるきっかけとなりました。


投稿者: りんご | 2012年07月24日 17:59

バリアフリーとは障壁を取り除くことであるにも関わらず、このような粗雑な設計や管理をしていてはバリアフリーという名前の置物にしかならないと思います。中途半端にこのようなことをすると、利用者は困惑してしまい、逆にトラブルになってしまうこともあるんじゃないかと思います。例えば、点字ブロックにしたがって歩いていたら、写真にもあるようにブロックが奇妙な曲がり方をしたせいで、ブロックから外れてしまった、といったようなことが起こりかねないと思います。これからは、安全面に力を入れて、本物のバリアフリーと呼ばれる設備が増えていってほしいと思います。
また、全盲の保育士さんが門前払いされた件については、心理面の障壁と聞いて、「なるほどな。」と思いました。国家資格を持ち、受験することを妨害される理由はないはずなのに、差別的な意識があるだけで受験することさえもできないというのは、これから社会に出ていく身としては心が痛みます。


投稿者: うなぎ | 2012年07月24日 22:16

たしかに、バリアフリーが徐々に広がり充実していっている反面、形だけで、バリアフリーということばの意味をないがしろにしたものが増えていると思います。道を歩いていて、障害があって杖が必要な歩行者に明らかに不親切な複雑すぎる点字ブロックがあったり、点字ブロックが敷いてある途中に障害物があるのを見ることがあります。あれは、本当に利用する人のことを考えているのだろうかと疑問に思います。障害がある人の立場になってみる、という基本的なことを忘れているのではないでしょうか。
もう一度、<バリアフリー=障壁をなくすこと>ということを再認識する必要があると思います。


投稿者: みく | 2012年07月25日 03:06

よく通っているはずの北浦和の交差点であんなにずさんな点字ブロックの管理がなされていたなんてこうやって聞くまで気づかなかった。むしろ、気にもとめてなかった。私自身の人権意識の低さを感じた。そもそもこの問題に気づいてる人がどれだけいるのだろうか。このブログで挙げられた例以外でもこのような管理がなされているところがあるだろう。先生のように発見し、発信していかなければならないと感じた。


投稿者: ししかばぶ | 2012年07月25日 04:12

点字ブロックについて、よく駅前で路上駐輪を目にするが、点字ブロックの上に何もなければいいという認識が駐輪者にある気がする。ブロックは避けているのだが、ブロックの右側にぎりぎりで駐輪しているのである。だが、実際にブロックの段差を白杖を使って確認するので、点字ブロックだけを避けても意味がないと思った。人の立場にならないことにはバリアフリーは始まらないと感じた一瞬であった。


投稿者: jt_at | 2012年07月25日 11:48

バリアフリーは形だけできていればいいというものではなく、使用する人々のことをしっかりと考慮して作ることが大切である。管理の徹底していないこのような設備からは、私たちがいかに関心を向けることができていないかが見て取れた。実際に使う人の立場になればその不便さに気が付くはずだ。また、障害を持っている人を思いやるのと特別視するのは全く異なる。隔たりをすべてなくすことが本当のバリアフリーである。


投稿者: 白くまアイス | 2013年01月06日 18:08

自分自身に障害があったり身近に障害のある人がいたりしないと日常生活でバリアフリーを意識することは少ないと思います。この記事に載っている管理のずさんな多機能トイレや点字ブロックも、それを実際に使う立場にない人たちが設置し、管理するために生まれてしまったのではないかと思います。「バリアフリー」とは、高齢者や障害者にとっての障害を物質的に取り除いて終わりではなく、バリアフリーを求めている本人が「障害が無くて快適だ」と感じてこそ成功と言えるのではないでしょうか。


投稿者: しぇるふ | 2013年01月14日 16:04

バリアフリー設備を形だけ整備して管理しない行政も、その設備を無視する健常者も、障害者の実際の目線を全く意識していないと感じた。設備も重要だが、本当に大切なのは障害者を手助けしようという気持ちであり、もし障害者の行動を妨げるような行為に気づいたら、はっきりと注意できるような明るい環境づくりが必要であると思う。また行政や施設の管理者には、バリアフリー設備の整備だけでなく正しい管理を義務付ける法令も必要であるように感じた。


投稿者: ttt | 2013年01月21日 16:54

前回の記事で我が国がいかにバリアフリーな設備の整備がされていないかということを知って驚きましたが、今回の記事を読ませていただいてわかったことはバリアフリーな設備を設置するとしても設置・管理する人たちが何も考えていないのではその設備は何の意味もなくなってしまうどころかむしろ利用しづらくなってしまうということです。制度や設備が徹底されたとしても障害のある方々を考える気持ちがなければそれは何の意味も持ちません。本当に大切なのは私たちの意識のほうなのだと気づきました。我が国でバリアフリーな設備が一向に浸透しない根本には私たちの意識の低さがあるのではないかと思いました。設備管理をする人だけでなくこれはどんな人にも当てはまります。設備はもちろん周りの私たちの細やかな気遣いや行動一つ一つも障害を持つ人にとって暮らしやすい環境を作る要素です。まずは一人ひとりの意識を高めていくことが皆が暮らしやすい社会を作る第一歩になるように思います。


投稿者: truth | 2013年01月21日 23:06

 私もでたらめな配置をされた点字ブロックを見たことがあります。しっかりとした管理を行わないバリアフリーは意味がないと思います。また駐車された自転車の下にある点字ブロックについても管理を行わなければ身体の不自由な人のためになりません。バリアフリーを設置した側も設置して終りではなく、設置した後もバリアフリーとしてしっかり機能するように管理を行うべきだと思います。身体の不自由な人の身になって考えることができれば障害のある人にとって良い環境がつくれると私は考えます。


投稿者: HK | 2013年01月23日 00:19

川越市の点字ブロックの例について、設計・施工者には、ブログ本文の通り「バリアフリーの魂」が欠落していると思われるが、自分たちがバリアフリーという善行をしたのだ、という意識だけは持っていたのではないだろうか。そうだとすれば、この事業は偽善に満ちたものである。バリアフリーという言葉の良いイメージが先行して、その事業が本当に障害者の為になっているかどうかは看過されがちであるように思う。


投稿者: サトユ | 2013年01月23日 16:42

冒頭のバリアフリーのトイレに荷物が置かれているのを見て私は驚愕しました。さらにその後に続々とでてくるもはやバリアフリーとは言えない写真の数々。バリアフリーとそもそも身体障害者のためにあるはずなのに、まるでそれを無視したような現状に、自分の仕事さえちゃんとこなせば他人のことなどどうでもいいと思っている人が増えているのではないかと思いました。少しでもバリアフリーのこと、身体障害者のことを考えればあのような管理の仕方には絶対にならないと思います。ただ形だけバイアフリーにしても全く意味がありません。ほんの少しの気遣い、相手のことを思う気持ちがあればこのような現状はなくなると思います。


投稿者: 三太郎 | 2013年01月23日 20:04

マンホールを適当に置いた、いい加減で使いやすさを無視した点字ブロックの敷設には衝撃を受けました。このような自己満足で「バリアフリー」を終わらせないためには私たちがもっと使う人にとっての快適さを考えなければなりません。よく点字ブロックの上に自転車などの障害物が置かれているのを見ますが、私たちがもっと使う人の身になって意識すればそのような現状が改善されていくのではないのかと思います。


投稿者: RS | 2013年01月25日 05:58

今回の記事を読んでいかにバリアフリーの精神が「上辺だけ」になっているかを痛感しました。

トイレや点字ブロックの例を見るととりあえず設置しておけばいいだろうという考えが目にみえ、こうなってくると義務教育における道徳の授業なども単なる形式的なものなのではないかと思ってしまうくらいです。

また保育士さんの例を見てもそうですが、
本当の意味でのバリアフリーを達成するためには、点字ブロックなど目にみえる形で対策を行う前に人々の心のバリアを取り除くことが必要だと強く感じました。


投稿者: H.F.A.E | 2013年01月25日 10:59

ブログにあげられている「不見識なバリアフリー」の数々に驚き呆れ、日本は「バリアフリー」が一般化してきているようにみえて実は「バリアフリー」という言葉だけが独り歩きをしている印象を受けました。障害者に対する理解も心遣いも全く感じられず、これが日本の現状かと思うと虚しくなりました。このような現状から脱するためにいま日本に必要なのは福祉的な視点を持つことなどではなく、それ以前に他人を思いやる心なのだろうと思います。しかし、一方でもしかしたら私の身近にも不見識なバリアフリーが存在していて、私がそれに気付けていないだけなのかもしれないと思いました。そうだとしたら私も今回のブログにあるような不見識なバリアフリーを生み出し、そのままにしている心無い人々となんら変わりはないように思え、恥ずかしくなりました。


投稿者: 一雫 | 2013年01月25日 15:20

点字ブロックもといバリアフリーとは何のためにするものなのか。私は、社会的に不利益を被っている方々を少しでも生きやすくするために行っているものだと考える。そのため、このような点字ブロックやマンホールの設置を行った建設会社等には、それなりに責任を取ってもらいたいとも考える。また、大阪市の採用試験に関しても、資格を持っているのにもかかわらず障害を持っているだけで採用しないのは、確かに差別と言えると思う。さらに私は「採用しなかったこと」に関してではなく「門前払い」したことが人事部側の大きな過失だと考える。また、大阪市という地方公共団体が差別を堂々とやってのけていることに関して甚だおかしいと思う。


投稿者: tkppn | 2013年06月25日 20:01

点字ブロック。今や街を歩けば至る所に巡らされていて、その存在は日常の風景に溶け込んでいて健常者からは普段意識されていないように思う。障害者用の設備にしかり、設置して“ここはだれもが暮らしやすい場所である”という証明をして満足しているような気がしてならない。その結果が、この記事での写真のようなずさんな点字ブロックの配置、障害者用トイレの使い方につながっているのではないか。このような設備を置いて終わり、ではなく置いた意味をしっかり確認する必要があると思う。


投稿者: いもこ | 2013年07月04日 01:12

ブログ拝見させてもらいました。私は、白いつえを持った視覚障害のかたがバスにのろうと点字ブロックの上を歩いていて、バスを待って音楽を聴いている男性はその方が近づいてくるのに気付かず、ぶつかってしまう、という場面を見たことがあります。視覚障害を持った方がつえを使って点字ブロックの上を歩いていても、自転車や人、看板などが邪魔しているのに気付けず、ぶつかってけがをしてしまう、ということはあるようです。マンホールの管理がしっかりしておらず、点字ブロックがずれていたら、それを必要とする方の負担はいかほどでしょうか。国や公共団体には、バリアフリーをしっかり理解し、設置・管理を適切に行ってもらいたいものです。


投稿者: テフロン加工 | 2013年07月04日 13:51

バリアフリーのトイレが物置になっていることを知り、愕然としました。何をどう勘違いしたらこんなことになるのか不思議でたまりません。また、私の近所の歩道にも「まっすぐに歩かせようとしない点字ブロック」があります。目に障害を持っている方の立場になって考えてみればこんな点字ブロックはつくられないと思います。今のような状態では、「バリアフリー」とは名ばかりで、意味をなさないものになってしまうでしょう。私自身は具体的な解決方法はわかりませんが、少しでも障害を持っている方の力になれたらいいなと思っています。とにかく、意味の分からないバリアフリーを作るのだけはやめてほしいです。


投稿者: kitkat | 2013年07月04日 14:13

点字ブロックは目の見えない人のためのものだということは分かっていたが、ただ在るだけでなく、実際に不自由なく使えて初めて、役に立つのだと思った。当たり前のことかもしれないが、自分も含めて意識していない人はかなり多いと思う。ただ、バリアフリーに関して気付ける人が増えれば、状況は改善されると思うので、バリアフリーに関心をもってもらえるような活動があればいいと思う。


投稿者: yottyanika | 2013年07月08日 15:24

講義を受けてまず衝撃的だったのはマンホールの点字ブロックがずれている写真でした。あのような敷設の仕方だと目の見えない方からしたら、いらないとまではいかないかもしれないが、むしろ混乱するかもしれないと思い、非常に不快な気持ちになりました。北浦和駅から埼玉大学までバスで通っているので、バス停のところの点字ブロックの敷設を気にしてみたら確かにななめに敷設されているところがあり、建築技術より学ぶべきものがあるのではないかと実感しました。
大阪府の話に関してはもはや国が平等に採用試験が行われているか徹底的に調べ上げるべきだと思います。


投稿者: 593 | 2013年07月08日 15:26

僕は、田舎に住んでいたせいか点字ブロックを歩いている人を見たことがありませんでした。埼玉に来て初めて白いつえをついて点字ブロックを歩いている人を見かけました。その人を見た場所というのは大宮駅でとても混雑していました。しかし、通行する人は点字ブロックをよけ盲目の人が歩きやすいようにしていました。当たり前だとはおもうけれど一人一人の意識で盲目の人を気づかっていました。それに対し、写真の点字ブロックはあまりにもひどいと思いました。そのことに気づいたら市などに呼びかけていくべきだと感じました。


投稿者: TaKa | 2013年07月09日 22:26

私はこの記事を読んでとても情けなく、悲しくなりました。バリアフリーとは名ばかりで、実際にそれらを使わなければ生活できない人々のことを、工事した人、そして管理している人は何も考えていないように思われます。かくいう私も、恥ずかしながら宗澤先生のご指摘がなかったらそのことに気が付けないままであったかもしれません。不自然に折れ曲がった点字ブロックを見ても、目の不自由な人のことをちゃんと考えていると、感じてしまっていたでしょう。講義で先生がおっしゃっていた、点字ブロックの上に置かれている足ふきマットのことも衝撃でした。突然道を指示していたブロックが消え、足ふきマットに変わってしまった時の動揺は大変なものだと思います。真のバリアフリーとは、設備を整えることも重要ですが、それ以上に、使う相手のことを心から考える、ということが大切だと考えます。


投稿者: リゲル | 2013年07月10日 12:24

細かい部分まで意識されていない形式上の「バリアフリー」が存在していることを認識させられた。写真のような歩道の設計や施工に関わった人たちは形だけの「バリアフリー」を取り入れ、点字を必要とする人たちの目線から何も考えずに仕事を行ったのだと思う。実際に点字を必要としている人が一番に生活しやすい街づくりをしていかなければならないと思った。それと同時に点字を必要としている人たちに役立っている「バリアフリー」は、完全に実現されていないことを点字を必要としていない人たちに伝えていく必要があると思った。


投稿者: KOBE24 | 2013年07月15日 20:13

この記事を読み、多機能トイレや点字ブロックの事例を知り、現状に驚いた。そして、「バリアフリー」が徹底されていないことを感じた。だから、「バリアフリー」を徹底するためにも、一人一人が障害を持った方たちのために何ができるか、何が必要なのかということを考え、自分にできることを少しずつ実践していくことが必要だと考える。


投稿者: ahiru | 2013年07月16日 23:06

バリアフリーのための点字ブロック。その意図を全く理解することなく設計・施工・管理する業者には最早憤りしか感じません。その他にも点字ブロック上やすぐそばに設置されている店舗の看板や、曲げられた点字ブロックなどがあると知り、作る側は果たして一度でも自分で目を隠し、杖で歩いてみたのだろうかと感じました。自分は小学生の時、盲目体験ということで目隠しをし、杖をつき歩く経験がありました。それと同じように、バリアフリーのものを作るとき、実際に障害者の立場に立ち設計し、管理者も障害者の立場に立ち管理する。そのようなバリアフリー作りが必要であり、そのためにも、バリアフリーを考える教育は必須だと思いました。


投稿者: you | 2013年07月17日 11:25

 「バリアフリーがその正しい機能を果たしていないケース」は想定しうる事態ではあると認識していましたが、我々が通う大学が少し考えれば間違っているとすぐにわかるようなミスを犯していたことがあったという事実には愕然としました。
 また、点字ブロックの配置などに関しても問題意識を抱かずにはいられませんが、その原因は単に「考えなし」ということではなく、社会的な「バリアフリーに対する無知」にあるのではないかと私は考えます。現に私はこれまで直線歩道で点字ブロックが曲がって引かれていても曲線状に引かれていても違和感を持ったことはありませんでしたし、それどころか、それが問題のある設計であると考えたこともありませんでした。
 上記のような問題に気付くと道路での作業従事者に責任を転嫁してしまいがちになりそうですが、真に見直さなければならないのはバリアフリーに対して「我関せず」とばかりに無知な態度を無意識にとり続けている傾向があるこの社会全体なのではないでしょうか。


投稿者: わ・た・し | 2013年07月17日 22:19

障害者がマイノリティであることは自然とわかります。私自身が実際に障害者の方向けの装置等が使われているところをあまりみたことがないということもあり、どうもそのようなものを設置するのは合理的ではないと感じてしまうのです。点字ブロックや物置となったトイレの例は、この私と同じ考えも原因のひとつとなっているのではないでしょうか。
 しかし、内閣府の出す平成25年版障害者白書をみて身体障害者の総数は366.3万人であると知りました。もちろんそれでも健常者の数にははるかに及びませんが、1000人に29人(これは平成17年国勢調査人口によるそう)というのは予想に反し多く感じてしまいました。また、車椅子の絵の国際シンボルマークのある施設や他の工夫がすべての人のためであることを宗澤忠雄先生の講義で知り、おおいに思い直すところがあると感じています。
 このことにあたり思ったことは、私のように障害者の生活について何も知らない人に向けた情報発信の工夫が足りていないことです。きっかけがなければ、けあサポなど触れもしなかったでしょう。いままでは関係ないと思っていましたが、現状をより多くの人に気づいてもらいたいと思うようになりました。


投稿者: Yuki F. Goodson | 2013年07月22日 22:58

授業の中でよく虐待についての講義はあったが、障害者に対する虐待は今までほとんど注目したことはなかった。虐待の事実を自覚したり、他人が発見することはただでさえ困難であるのに、障害者に対してであることに加え初期段階でとなるとより困難であると考える。しかし、この記事のような取り組みが徹底され、多くの人が意識するようになれば初期段階の対応実現に一歩近づくことができると思う。


投稿者: 小豆 | 2013年07月23日 17:07

私は以前駅での校外学習で、トイレや階段、駅の案内図など様々な場所でバリアフリーが実施されていることを知った。しかし手すりの位置など、その中には本当に役に立っているのか?と疑問に思うようなものがあったのも事実である。このように以前よりさらにバリアフリーが進み言葉が浸透していく中で、ただ設備を良くしていくだけではなく、本当の意味のバリアフリーについてもっと障害者の目線から考えていくべきだと思う。


投稿者: ゆきだるま | 2013年07月23日 17:10

今までこのような意味のないバリアフリーに気づかずに生活していた。自分も含めてだが、管理者はほとんどが健常者であるため、このような事態が起こってしまう。このことを知ってから身近にあるバリアフリーに注目するようになったが、障害者を考慮した階段を一か所見つけただけである。バリアフリーという言葉を知るだけでなく、担当者の中に実際にバリアフリーを必要としている人や専門家を配置するなど具体的な対策が必要だと思う。


投稿者: spring | 2013年07月23日 17:22

私自身,点字ブロックを利用したことがなかったので普段から意識して見てきませんでした。しかしこの記事を読んで,歩行者のことを考えていない設計やでたらめな管理をしていることを知って,驚きよりもショックの方が大きかったです。視覚障害者の方が歩きやすいようにつくったのに写真を見ると,後付けしている感じやしょうがなくつくっている感じが伝わり,やはり健常者の視点からしか考えていないのかなと思いました。特に溝蓋を形式的に回避しただけの点字ブロックの写真を見ると,目の見える私でさえ点字ブロックに沿って歩くのは面倒だと感じてしまうのに,視覚障害者の方が実際にこの点字ブロックに沿って歩くとなると,時間もかかり神経をすり減らしてしまうのではないかと思いました。点字ブロックをつくる際には,アイマスクを付けて杖を使って歩いてみるなど,視覚障害者側の立場になって,点字ブロックの配置を考え,少しでもる歩きやすい構造にする努力が必要であると感じました。


投稿者: らいだー | 2013年07月23日 23:57

バリアフリーのひとつとして設置されてきた点字ブロックが、人々の意識の低さによってその効果を発揮できていないという状況が多すぎると思います。それが何のためにあるのか頭の中である程度理解している人は多いのかもしれませんが、それが行動に現れている人は少ないというのが現状なのでしょう。一般の人々にとっては大したものでなくても、これが必要な人がいるから設置されているということを再認識するのはもちろん、そもそもバリアフリーとは何なのか社会全体で考え直す必要があるのではないでしょうか。


投稿者: 空 | 2013年07月24日 01:53

この写真を見る限り本当に「自分たちのことしか考えていない」んだな、と思います。
点字ブロックを設置して「誰でも歩きやすくしていますよ」、障害者用トイレを造って「心配りできてますよ」といったアピール…実際使いたい人からすれば逆効果なように思えます。
私自身はトイレも点字ブロックも利用しやすいから、という理由で使ったことはないですが、この記事を読むと不謹慎ですがそれらを設置し、そんな手入れしかしてない人も一回不便な生活を経験してみろ!と言ってみたくなります。誰か身近な人がそんな思いをしないと考えることができないことを社会全体が反省しないといけないのですね。


投稿者: NBT | 2013年07月25日 18:15

今回の記事にあった画像のような状態を町で歩いている時に見かけたりします。
まさに形式的なバリアフリーが行われており、設置した人はそれを利用する人の気持ちを全く考えていない状態なのだなと感じました。
私自身、中学生時代に点字ブロックの道を目隠しをして歩いてみるという授業を受けた覚えがあります。いざ視力を奪われてしまうと、本当に音や路面の点字が頼りになってしまうことに衝撃と恐怖を覚えたことは今でも忘れられません。
今回のような「心無いバリアフリー」には腹立たしさまで感じられます。自分は関係ない、ほっといてもなんとかなるだろ、といった考え方や視点は今すぐ捨てるべきであり、社会全体で設備を整え、理解や思いやりに満ちたバリアフリーを目指していくべきであると考えます。


投稿者: アシュラマン | 2014年01月22日 12:24

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プロフィール
宗澤忠雄
(むねさわ ただお)
大阪府生まれ。現在、埼玉大学教育学部にて教鞭をとる。さいたま市障害者施策推進協議会会長等を務め、埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

【宗澤忠雄さんご執筆の書籍が刊行されました】
タイトル:『障害者虐待 その理解と防止のために』
編著者:宗澤忠雄
定価:¥3,150(税込)
発行:中央法規
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