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石飛幸三医師の
特養で死ぬこと・看取ること

石飛 幸三(いしとび こうぞう)

終末期の胃ろうなどの行きすぎた延命治療の是非について問題提起し、ベストセラーとなった『「平穏死」のすすめ』の著者が、特養での“看取り”を語り尽くします。
穏やかな最期を迎えるためにどうすればよいか? 職員と家族の関係はどうあるべきか? これからの特養の使命とは? 施設で働く介護、看護職に贈る「看取り」の医師からの熱いエール!

プロフィール石飛 幸三(いしとび こうぞう)

特別養護老人ホーム・芦花ホーム常勤医。
1935年広島県生まれ。慶應義塾大学医学部卒業。1970年ドイツのフェルディナント・ザウアーブルッフ記念病院で血管外科医として勤務。帰国後、1972年東京都済生会中央病院勤務、1993年東京都済生会中央病院副院長を経て、2005年より現職。診療の傍ら、講演や執筆などを通して、老衰末期の看取りのあり方についての啓発に尽力している。
主な著書に『「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか』(講談社)、『「平穏死」という選択』(幻冬舎ルネッサンス新書)などがある。

第8回 特養の配置医について考える(2)~配置医がやるべきこと~

医療費の無駄遣い

 私が老衰に対する延命や医療行為の不要論を唱えると、「年寄りは死ねというのか」というような見当違いの意見が出てきたりします。今の日本人は、医療に対する幻想が甚だしくて、自分が死ぬことはおろか、自分の親が死ぬこともイメージできなくなってきていますし、その上、モノばかりが豊かになって、飢えを知りませんから、我慢ができず、覚悟もつきません。だから、「とにかく、やれることはやって欲しい」となりがちで、そうすると、管だらけになって、何も認識できなくなっても、ただただ生かし続ければよいといったインセンティブで医療が行われてしまいます。

 これを医療費の無駄遣いと言い切ってしまうと語弊がありますが、例えば、高齢者が病院にかかって処方されるあの大量の薬のうち、実際どれくらいを服用していると思いますか? ほとんど飲まずに捨てているのが現状ではないでしょうか。むしろ出された薬を全部飲んだほうが具合が悪くなりそうです。高齢者は、病院に行けば、薬が処方されて安心できるので病院に通うわけですが、これこそ医療費の無駄のような気がしてなりません。

特養の配置医に求められること

 前述したような内容も踏まえて、私が芦花ホームで心がけていることは“いかに医療を加減するか”ということです。それは、もう十分だろう、もういいじゃないか、という頃合いがきたら、きちんと家族と話し合って、過剰な医療はやめて、過剰な栄養も水分もやめて、自然な最期、看取りへと導いていく役割です。これは、利用者本人を継続して診てきて、家族の思いにも触れてきた常勤の配置医にしかできません。

 もう一つ、常勤の配置医だからこそ判断できることがあります。

 まずは、以下の事例をお読みください。

 Dさんは、アルツハイマー病で10年に及ぶ家族介護の末に入所してきました。入所して3年目のある日、早朝5時に介護士が見回りに行くと、自らの嘔吐物で窒息して亡くなっていました。介護士は驚いてすぐに看護師を呼び、看護師は一目で「これはダメだ」と思ったけれど、吸引を行いました。吸引をしてもまったく蘇生しません。慌てた看護師は、救急車を呼んで病院へ搬送してしまいました。病院の医師には不審死かどうかの判断がつかないので、警察に連絡して監察医を呼びました。家族も病院に駆けつけますが、警察に呼ばれて、わけもわからず事情聴取されました。Dさんが亡くなって家族は悲しいのに、これでは悲しむどころではありません。Dさんは、死因解明のための解剖までされて、さらに家族の悲しみが深くなってしまいました。

 いかがでしょうか? これまでは、本当に多くの場合、事例と同様に救急車を呼んでいました[1]。救急車を呼んでおけば、自分の責任を逃れられる気がするのでしょう。でも、逆に言えば、なんでそこに責任を感じなければいけないのでしょうか? すでに亡くなっているのですから、これはどういう事態なのか、本人や家族のためにもどうしてあげるのが一番いいのか? そこのところを理性的に考えれば良いことなのです。

 この場合であれば、これまで診てきた医者であれば、状況から判断してアルツハイマー病による窒息死だと死亡診断書が書ける[2]わけです。何があってもおかしくない状態の方だったのですから、慌てる必要なんてないのです。家族だって、10年におよぶ自宅介護で疲れ果てていて、ようやく入所できて、落ち着いてきた頃合いではあったけれど、形はどうあれ、本人が何もわからずに逝くことができて、ホッとしているでしょう。「ご苦労様です。よく頑張ったね」と。常勤医がいれば、自然死、平穏死で済む単純な話が、常勤医がいなかったり、あるいは、施設不在の配置医が忙しくて来られなければ、救急車が呼ばれて上記のようなごたごたした話になってしまうのです。常勤の配置医がここで下せる判断はとても大きいものがあると思います。

無駄なコールをしない

 同様に、これがただ呼ばれて来るだけの配置医ですと、例えば、看護師から、「急にゼェゼェ言い出して呼吸困難です。どうしましょうか?」なんて言われれば、「そうか、じゃあ救急車を呼ぶか」という話に簡単になってしまうでしょう。普段から診ていない配置医では、これも仕方のないことです。

 しかし、これからの多死社会、救急車のコールがどんどん増えていく中で、医師や看護師がその片棒を担いでいる場合ではありません。特養の配置医は利用者の状態をよく把握して、無駄なコールをしない、ということもとても重要な役割の一つだと思います。

 医療の加減をして、穏やかな看取りに導いていくこと、そのためにも、利用者とその家族の思いをくみ取って、どうしてあげるのが一番よいのかを考えること、これがこれからの特養の配置医の大切な仕事だと思いますよ。

→→→第9回へつづく。

補足解説

1.^救急車を呼ぶ・・・特に常勤ではない配置医の場合、呼んでもすぐには施設に来られない場合も多く、仕方がないので、救急車を呼んでいるパターンが多い。

2.^死亡診断書を書ける・・・診察後24時間が過ぎても、これまで診ていた状況と矛盾する死亡原因が考えられなければ、死亡診断書が書ける。また、診察後24時間以内に亡くなった場合は、その後直接診断しなくても診断書を書くことができる。