介護の仕事って、こんなに素晴らしい
是枝さんは、特別養護老人ホーム「福音の家」勤務を経て、大妻女子大学で介護福祉学の教鞭をとってこられました。東京都介護福祉士会会長を長く務めるなど、介護の世界にはとても造詣が深い方です。
せっかく介護の仕事に就いたのにもかかわらず、辞めてしまう人が多いと聞きます。「もう辞めてしまおうか」などとお考えの人もいらっしゃるのではないでしょうか。
- プロフィール是枝 祥子 (これえだ さちこ)
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1941年生まれ。
1964年、東洋大学社会学部応用社会学科卒。
短い製薬会社勤務を経て、子育て中に友人の紹介で、1980年から神奈川県の児童相談所で非常勤相談員を始めたのが、福祉との本格的な出会い。
1983年から介護福祉分野へ転じて、特別養護老人ホーム、在宅介護支援センター、ヘルパーステーション等の現場経験や施設の管理職経験を積む。
1999年、多摩キャンパスに新設された大妻女子大学人間関係学部人間福祉学科の助教授に迎えられ、2004年には教授に昇任。現在、名誉教授。
第10回 教養のない介護はだめだ
はじめて聞く朝鮮語
それから数年してCさんの体力が落ち、最期に近づいたとき、家族がいるところで、私たちに「病院に連れていってほしい」といいました。
そういったあと、私たちに何か話しかけたのです。何をいっているのか聞き取れませんでした。朝鮮語でした。息子さんが通訳してくれました。
「もしかしたら、もう帰って来られないかもしれない」。
今まで、Cさんの朝鮮語を一度も聞いたことがありません。朝鮮生まれの朝鮮育ちなんだから朝鮮語を話すのは当たり前なことですが、私たちの頭の中からそのことがすっかり抜け落ちていました。Cさんの朝鮮語はいろいろな意味で不思議な響きをもっていました。もしかしたらCさんは家族といるときだけ、小さな声で朝鮮語を話していたのかもしれませんが、その声さえ聞いたことがなかったのです。
Cさんの家族も驚いたようでした。
「ほんとうの父になった」と喜んでくれました。ここまで来るのに6、7年かかりました。やっと、私たちに母国語で語りかける気になってくれたのです。私たちには意味がわからなかったけれど、はじめて聞く朝鮮語は心にジーンと響きました。
Cさんはさらに朝鮮語で、「ありがとう」といい、それからわざと拙い日本語で「ありがとう」とゆっくりいいました。流暢な日本語を話すCさんが、朝鮮語なまりの日本語でいう「ありがとう」は音楽のように美しかった。もう朝鮮の人になりきっていたのだと思います。
でも、そこから、私たちに日本語でいろいろ大変だったことを語り始めました。朝鮮人として日本人にバカにされ、つらい差別を受けたこと、戦後、夜間の大学に通って勉強したことなどです。
最後に介護職員に、「勉強しなさい。勉強することは教養を身につけることです」といいました。それまで家族にさえいわなかったことなのだそうです。
Cさんは施設に来て4年くらい黙っていました。人間はそんなに何年もしゃべらずにいられるものなのか不思議に思いますが、つらい過去が口を重くさせていたのでしょう。
介護をしているといろいろな疑問にぶつかります。勉強会をしていると、さまざまな疑問が生まれ、その出口を探り続けます。それが介護なんだと思います。勉強することは教養を身につけることなのです。介護も同じだと思います。「教養のない介護はだめだ」とCさんは伝えてくれたのだと思います。