介護職に就いた私の理由(わけ)
さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。
花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/
- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第144回 ご利用者さまの気持ちを第一に
富士山が見える地で、祈りと共に生活する場を作りたい
小笠原耐子さん(72歳)
机デイサービス 恵福の家
生活相談員
ケアマネジャー
(長野・富士見町)
取材・文:毛利マスミ
高給取りOLが回心し、介護施設作りを目指す
2012年に八ヶ岳のふもとの富士見町で、デイサービスを始めました。67歳の時のことです。私の夢は「高齢者の方と一緒に祈り、生活する場を作ること」。最初は、神奈川県横須賀で土地を探していたのですが、価格の面で折り合いがつかず、逡巡していたところ、たまたま「田舎暮らし」を紹介する雑誌で、いい土地が紹介されていたのをきっかけに、一気に2500坪の土地付き中古住宅を購入してしまったのです。
私が介護の世界に入ったのは、義母の死がきっかけでした。若い頃は一部上場の商社で働き、結婚して主婦になった後は、かつての上司に乞われてその子会社に再就職。時代はバブル真っ盛りで、年収700万円近くを稼ぐ華のOLだったんですよ。でも、友人に誘われて出かけたキリスト教の集会で、突然信仰に目覚めてしまったのです。人はいかに神に生かされているのか──回心したんです。するとイスラエルに巡礼したい願いが湧いてきて、15年勤めた会社を退社してしまいました。
そして、心躍る巡礼から帰国すると、これまで義父が一人で看ていたパーキンソン病を患う義母のことが気がかりになるようになりました。それからは、毎週末、当時暮らしていた町田から横須賀の両親の家に通うようになりました。
でもそれから3年後に義母を天に送ると、心にぽっかりと穴が開いたようになってしまいました。それまで介護の世界にあまり関心のなかった私ですが、人生の終末期を共に祈り、生活する場=介護施設を作りたいという思いを強くするようになっていきました。
48歳で福祉専門学校に入学
その後、48歳の時に町田の福祉専門学校に入学。18歳の生徒さんたちと机を並べて介護の勉強をしました。とにかく社会福祉主事任用資格があれば、介護施設の運営ができると思い込み、コースを決めたのですが、自分で施設を立ち上げる際には意味をなさない資格だということに、後から気が付きました。私はいつも、勢いで行動してしまい、後から「間違っていた」ことに気が付くことが多いのです。
それでもヘルパー2級も取得して卒業。経験も必要と、地元の介護施設でパートを始めました。そして「さぁ、施設開設の準備を本格的に始めよう」と思っていた矢先、夫の会社が倒産。私は、施設を開設するには法人格が必要だと思っていたので、それを機に夫の専門でもあるコンピュータのソフト開発の会社を立ち上げました。「災い転じて福となす」です。その後、介護のパートも続けて、介護福祉士やケアマネの資格も取得しました。
そして65歳の時のことです。富士見町でかつてキブツ(集団農業共同体)を開き、今は若者たちとの接点を大切にする青少年育成センターや八ヶ岳アルパカ牧場を運営のために尽力するなど、地元に根差した活動をしておられる小林亀太郎さんの事を知りました。私は亀太郎さんの活動に感銘を受け、雑誌で土地を見つけたこともあり、長野県富士見町の土地付き中古住宅を購入したのです。
地縁血縁のない土地に67歳でデイサービスを開業
富士見町には2010年に引っ越しました。なにしろ広大な土地なので、こちらにはデイサービスを、ここにはみんなで暮らす家を建てよう、と様々に計画を描いていたのですが……。ふたを開けてみると、土地は農業用地限定利用だったりして、思うようには建物が建てられないことが判明。さらに、役場で老人ホームを作りたい、小規模多機能をやりたいといったことを伝えると、「まぁ、まずはデイサービスから始めてください」と、言われる始末。振り返って考えてみると、地縁血縁のない土地で、しかも経験のない私が、ただ「やりたい」という気持ちだけでは立ち行かないのは当たり前ですよね。
その後、地元の事情を知るために、町のグループホームで働きつつ、開業の準備を進めました。そして、67歳の時に念願のデイサービス「恵福の家」をオープンしました。ところが、肝心のご利用者さまは10人定員のところ2~3人という日々が約2年間続きました。一緒に立ち上げから頑張ってくれていたナースも、お給料をもらうのが申し訳ないと、去っていってしまいました。今もまだ、経営は安定しているとは言い難く、困難事例も含めて受け入れていくことで、地元に馴染んでいこうとしている真っ最中です。
「夢みるおばあ」の夢は、まだ終わらない
横須賀から富士見町へ引っ越しを決めたとき、夫は「いいよ」とは言いませんでしたが、特に反対もしなかったので、結果オーライなのでしょうか。今は週3回、デイサービスの管理者として運営を助けてくれています。残りの日はみそやしょうゆ、米作りをしたり、地元の役員を引き受けたり、寄り合いに参加するなどして地元との接点となってくれています。また、町の傾聴ボランティアの会の会長もしているんですよ。
ここではニワトリとヤギを飼い、トマトやキュウリ、ルバーブなどを育てています。山野草も取り放題で、タケノコやワラビ、フキ、ヨモギもあります。梅や柿、栗の木もあって、季節にはたくさんの実をつけてくれます。秋にはキノコもたくさん摂れます。ニワトリが生んだ玉子とヤギの乳でチーズやケーキを作ったり、ヨモギの葉でヨモギ餅を作ったり。主人がつくるお米もあるので、お米も買うことはありません。自給自足とまではいきませんが、自分たちが育てた作物でご利用者様のお食事も作っています。自然の中で暮らしている実感はありますね。
ご利用者さまには、ご本人の「やりたい」気持ちを第一に、寄り添っていかれたらと思っています。そして、私はまだ「老人ホームを作る」という夢をあきらめてはいません。今、建っている家の下に300坪の平らな土地があるのですが、そこから富士山がきれいに見えるんです。そこにホームを建てて、高齢者の方と一緒に生活する場を作りたい。私はよく、「夢みるおばあ」って言われます。でもこの夢は絶対に、「夢ではなくて、実現させるぞ」と思っているんです。
小笠原さん。遠くには富士山が見える。
「メェー」と鳴き声で迎えてくれる。
- 【久田恵の視点】
- 一つの夢を実現するための波乱万丈の日々、小笠原さんの生き方は、人生は夢を実現するためにこそある、のだと思わせてくれます。その自立した精神のありように敬服してしまいます。