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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第137回 オーナーシェフから介護の仕事へ 
人が生きることの素晴らしさを学ばせていただきました

時田佳代子さん(69歳)
社会福祉法人小田原福祉会 常務理事
社会福祉士、介護福祉士、介護支援専門員
(神奈川県・小田原市)

取材・文:進藤美恵子

起業は父よりも早くイタリア料理店経営

 小田原から早稲田まで通学していた学生時代、教職課程の授業を終えて校舎の外に出る頃にはもう真っ暗。これは嫌だなと思い、ドロップアウトしてアルバイトに励んでおりました。偶然、実家の一部を貸店舗にしていた所が空くことになり、そこに自分のお店を開くことに。当時、小田原にはなかったピッツアやパスタの今でいうイタリアンです。大学4年で中退して翌年にオープンしました。

 大学で勉強したことからはかけ離れていましたし、ましてや素人の22歳の若造が突然お店を経営するというのは、親も大反対でした。でもなぜか私の説得に負けた親がお金を借りてくれてお店をオープンしたのが23歳、それから人生が始まりました。その後に父は社会福祉法人を設立、起業経験は私のほうが早かったですね。

 小田原で1、2番にできたお店でしたから、とても流行りました。引き抜いてきたコックさんが居なくなった後は、私がキッチンに入り、それこそ出産の前々日くらいまでキッチンでフライパンを振っていたこともあって。ですから、オーナーシェフですね。

遅れてきた新人ヘルパーとしてデビュー

 ちょうど開店から30年、父が80歳になる頃です。父のしている介護の仕事は、私がしている仕事よりももっと社会的に価値のある仕事だと思いましたので、イタリアンのお店を売却して父が理事長を務める潤生園を手伝うことになりました。

 まず2級ヘルパーの資格を取りました。今から約16年前ですから54歳の頃。非常に遅れてきた新人と言いますか、現場にはたくさんの先輩たちがいらっしゃって経験はどうにも追いつけません。それなら仕事の中身を頑張り、先輩たちに追いつかないといけないという動機から、福祉系の大学に編入学して社会福祉士の資格を取得し、後に、日本社会事業大学専門職大学院で経営、マネージメントを学びました。

 それは、福祉という現業の仕事はもちろん一番大事だけれども、その大事な仕事が継続的に組織として維持され、さらにその質を担保しつつ社会の信頼を勝ち取っていくためには、経営が健全でなければならないと思ったからです。

やるべきことは、覚悟すればできる

 潤生園では最後まで在宅を支えることをテーマにしています。私が小さなデイサービスの管理者になったときも、在宅で要介護5のターミナルに近い時期の方がいらしてたんです。最期まで自宅で看るというご家族のもと、全面的にサポートするつもりでいました。

 デイサービスでは入浴サービスが中心になることがあります。その方の場合も「自宅では無理だね」と職員たちとどうしようかという話になりました。お風呂に入れることに対して、その方の命はようやくつないでいる命ですから、そう簡単には決められません。でも家族も覚悟しているし、いつ何があってもおかしくないということもあり、私はその方を抱きかかえて一緒に湯船の中に入って入浴のお世話をしました。やるべきことは覚悟すればできる、それをやるべきことだと自ら実践してみたのです。

 2級ヘルパーの勉強をして現場に出た当初、どうも腑に落ちないことがありました。「自立支援とは何か」「介護とは何か」という思いが常にありました。デイサービスでの入浴体験から、自然に老いていくということの当たり前の形を見た気がします。それを提供できるという、介護の仕事の意味も少しわかってきたような気がします。この仕事を始めて未だ10年に満たなかった頃かな。

医師のいないところで起こる看取り

 潤生園ができて40年経ちますが、確実に施設で看取れるという自信が持てたのは、1990年頃からです。約30年の歴史で看取った方は500人くらいでしょうか。看取りに自信が持てるようになったのは、嚥下障害があっても食べられる介護食を開発したことがきっかけです。病院に行かなくても最期まで特養の中で過ごしていただけることが自然な看取りにつながっています。

 人が死ぬというのは、自然なことで、不思議なことでもなんでもないですよね。だけれど、その命がもっている終わりを迎えるまでの変化に対して、専門職として言語化し、説明し、納得していただくプロセスをきちんと作らないといけないということを感じました。なぜなら、死亡診断書はドクターしか書けないように、いまだ人の死は医療の世界のものだからです。

 ですが、特養の看取りはほぼ医師のいないところで起こります。潤生園では、看護師は夜勤をしていませんので、看取りの場にいるのは介護職です。その介護職が自然な死であったことを説明するには、根拠が必要です。実践が先にあって、その実践を後から言語化していくために、今、いろいろな研究をしています。

プロとしての責任を言語化する

 現場では、かなり早い段階から日々の介護記録や、看取りの瞬間の記録が蓄積されていました。そういった背景も研究を後押しし、特養の施設長になって初めに取り組んだのは、亡くなるもう少し前の段階では、どれくらい食べるのが適切なのかという観察です。これは現場からの疑問で取り組みはじめた研究です。

 指針となる厚労省のデータは70歳までしかなく、特養のような重度でなおかつ90歳に近い方たちのデータは日本にも世界にもどこにもないんですね。国立健康・栄養研究所の先生と入居者の方にご協力をいただいて、基礎代謝を図ることをしました。そうしたら平均すると男性で800kcal、女性では700kcalくらいとわかりました。

 私たちが一番嬉しかったのは、日々、介護職員たちがこのくらいでいいだろうと食事介助をしていた量と、研究して得たデータとがほぼ一致したことです。職員の観察眼というのは実に適切で、それ以来、共有理解のもとに自信をもって食事介助が行われています。一方で、私たちが自然に行っている行為に対するエビデンスや、プロとしての責任のある言語化できるデータが必要だということも、この研究を通じてわかりました。

 看取りで蓄積されたデータからは、きちんと食べていても亡くなる5年前からBMIが徐々に低下していくという結果が出ています。人間は、自分が死ぬための準備を自分の身体で始めているんですね。その人の持っている天寿、与えられた命を最期まで使い果たして人は死ねるという事実をデータからも読み取れました。

その人の人生を丸ごと支える仕事です

 日本は高齢社会にもかかわらず、老年学が学問的に非常に遅れていると思います。介護の現場には山のように蓄積されたさまざまな記録が転がっています。関心のある先生方と一緒に積極的に研究をして、高齢期を元気に生きるための背景に何があるかを発信していくことも、介護に携わる私たちの役割のような気がします。

 介護に関わり、人間という生き物の持っている底知れない可能性や、人が生きることの素晴らしさをお一人おひとりの姿から学ばせていただいています。歳をとることは、本当はものすごく豊かで充実したものであるべきです。それをご本人だけの力でそこに行き着かないとすれば、その足りないところを少しサポートさせていただくことが介護職の役割ではないでしょうか。天寿をまっとうすることは、その人自身、あるいはご家族や周りの方々にとっても、大きな価値があることです。一人の人が自分の命を生ききる、それ自体に価値があることに気づかせてもらえたことが一番大きな財産だと思います。

 医療や看護は必要なときにお世話になりますが、介護は「その人の人生を丸ごと支える仕事」という意味では、人間にとってより重要な仕事のように思います。この仕事の素晴らしさをもっともっと現場から発信していかないといけないと思いますし、自分がその場に身を置くことに価値のある仕事だということをもっと社会的に認識されたいですね。

【久田恵の視点】
 多くの人が、医師の居ないところで亡くなります。傍らで手を握って親を看取ったのに、死亡診断書に「死因不詳」と書かれた私は、とても悲しく思いました。仕事に真摯に向き合う体験が時田さんの取り組みを促したこと、敬服せずにはいられません。