介護職に就いた私の理由(わけ)
さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。
花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/
- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第134回 子育てと両立させたいと独立
いろいろな人達とのつながりをもたらしてくれる仕事です
山村由佳さん(38歳)
株式会社わかまつや 代表取締役/山村訪問介護 管理者
介護福祉士
(静岡県・磐田市)
取材・文:進藤美恵子
ハタチでの結婚が私のスタート地点
高校卒業後に上京しました。当時は、何をしたいという方向性も考えず、親戚のいる東京で自分探しみたいな感じでアルバイトを転々としていました。でもご縁があって磐田市に嫁ぐことに。生まれも育ちも岡山県の私にとって、磐田は初めての土地でした。子どもが小さいときは、働きたくても子育てをしながら働けるような場所は少なかったです。何か資格があればと思い、偶然にも目にしたのがヘルパー2級と子どもに関わる資格で、どちらも興味がありましたが私は介護系を選びました。
それはたぶん、自分の生い立ちと重なる部分もあったからだと思います。3歳の時に両親が離婚して、私は母親を知らないで育った。仕事に出て行く父親に代わって育ててくれたのは、曾おばあちゃんとおじいちゃん。高齢だった曾おばあちゃんの介護をしに、家の中には叔父さんや叔母さんが代わる代わる居て、親戚中の人たちに育ててもらいました。私もポータブルトイレの処理や着替えの手伝いもしましたし、お年寄りを大切にするのが当たり前という環境でした。だんだんと寝たきり状態になっていくのも自然なことで、みんなそれを受け止めながら、自宅での看取りも自然なことでしたから。
子育て中の不安を忘れさせてくれた
実習先でお年寄りの背中を見たときに、懐かしさがこみ上げてきたのを今でも覚えています。触れれば触れるほど、幼い頃の温かい気持ちが思い出され、幸せに感じたんです。懐かしさというか、それが温かいというか…。一方で子育てをしながら、母のいない自分は母親になれるのかな、お母さんをちゃんとできるのかな、という思いを常に抱いていました。でも現場でお年寄りと触れ合っているときは、懐かしい、温かいという幸福感に包まれていて、今思うと、どうやってバランスが取れていたのかと不思議です。
上の子が3歳になった23歳の時にヘルパー2級を取得しました。次のステップとして、介護福祉士という国家資格があることを知り、実務経験を積みながら試験に挑戦しようと、登録ヘルパーとして訪問介護の仕事をスタートしました。以来、ずっと訪問介護専門です。3年後、介護福祉士の資格を取得した後も同じ系列の事業所で異動しながら、未だ子どもが小さかったので登録からパートになって働いていました。訪問介護の仕事は、すごくやりがいもあって自分自身も幸せに思えるから好きですが、朝早く出かけて夜遅く帰ってくるというスタイルは、当時の私には少し違和感を感じるようになりました。
そんなに好きな仕事なら自分でやったらいい
「そんなに介護の仕事が好きだったら、自分でやればいいじゃない」ってある事業所の経営者の方から言われて。自分が事業所を経営するという考えは微塵もなかったです。そんな意識もまったくなかったのにそういう道があることを知ると、子育てとの両立を考えると徐々に独立への思考になっていきました。
ちょうどその頃、いろんなことが目まぐるしく変わる時期でした。それまで会うことのなかった母から乳がんになったという連絡が入ったんです。私の中では「母親に捨てられた」という思いがあるし、何をいまさらという気持ちがあって。でも余命いくばくもないって聞いたときに、かわいそうとか思えない自分がいて、自分はそんな心の持ち主だったのかとショックでした。再会を果たした母は再婚していて、兄妹で一番下だった私に妹がいるのを知り、こういう関係もいいなと素直に思えて。ホスピスにいた母はそのすぐ後に亡くなり、半年後には私を育ててくれた父も亡くなりました。大きな環境の変化でした。
母へのわだかまりや自分の中の気持ちも整理されていく中、ビジネスパートナーの話もあり、独立前の準備期間になればという思いと一致して、パートで勤めていた事業所を辞めて新たな一歩をスタートしました。それから一年後に独立、山村訪問介護を立ち上げて5年になりました。
怒鳴られてもその先に嬉しいことがある
大人になって怒鳴られることってあまりないですよね。でも、利用者の方から怒鳴られることもあります。事業所を立ち上げて初期の頃、他の事業者の代わりに訪問することになったお宅では、初っ端から、「前のヘルパーと何が違うんだ。お前らだって変わりはせん!」って。奥さんを介護されているご主人のルーティンに従おうというスタンスで行ったけれど、でも微妙に違うから、「違うー!」って怒られてしまって。怒鳴られるとその時点でヘルパーも引いちゃうし、耳を閉ざしてしまい脱落してしまうヘルパーもたくさんいて。だけど私は、聞く耳を全開にして、「はいー。わかりました」って返したんです。何度怒鳴られても全力で向き合うことをやめませんでした。
そうしたら、近づこうとしていると気づいてくれたみたいで、徐々にソフトになってきたんです。すっかり家族みたいに接することができるようになったときに、最初はまったく受け入れる気のなかった方が、ヘルパーという存在を受け入れてくれたというのがすごく嬉しかった。正面から向き合って応えたら、怒鳴らなくなるというのも気づかせていただきました。でも怒鳴られると心が折れそうになるんですよね。それでも、あともう一歩、その先には嬉しいことが待っているのを知っているからこの仕事は辞められないです。難しいケースであればあるほど、関係を築けた時の楽しさもあります。
オカリナと“ゆるっと”が私たちのスタイル
最近では、「あーオカリナの人」と呼ばれることも多くて嬉しいです。職員からのやりたいという思いを具現化してオカリナ演奏もお届けしています。訪問介護の日ではなくても利用者さんのお誕生日の日には、演奏しに駆けつけたり、オレンジカフェ等、地域の集いで出前演奏したり…。好きなことは楽しくて苦にならないのと、介護とはまったく関係ないようなことに見えても、結構、生活全般の中では何かしらつながっていたりします。介護の現場では、趣味的なものが生きてくる可能性がすごくあります。趣味を磨いていつか介護とつながりができたら、利用者も介護する側ももっと楽しくなると思いますね。
介護保険制度の中で働いているのでそのルールの中できちんとしていくのは事業所として当たり前のことです。でも「生きる」とか、「生活する」って、もっと“ゆるっと”してもいいなと思う気持ちもあります。力みすぎず丁寧に過ごしたい、その“ゆるっと”する瞬間を利用者さんとともに過ごせることができたときは嬉しいなと思います。この“ゆるっと”が「私たちの色で生活の中に彩を添えますよー」という思いで日々、接しています。私たちのスタイルはそんな感じですね。岡山県から嫁いで磐田市民になり18年、介護の仕事を通してつながっていく人たちには、温かい人が多くて、そのつながりを持たせてくれているのが介護の仕事だと思います。
- 【久田恵の視点】
- やりたいことが見つからないと思っていても、いつのまにか一番好きなことをしている自分にたどりついてしまうの。その背景には、かけがえのないそれぞれの物語があるのだと実感させられます。