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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第99回 金融機関勤務から起業へ 
ひとりひとりの暮らしに寄り添い、この町で暮らすお手伝いを

山口ひとみさん(74歳)
有限会社 青空
代表取締役
(神奈川・横浜)

取材・文:原口美香

自宅で最期まで暮らすことはできる

 今、高齢者の住まいの問題は、施設か在宅かというような流れになってきています。20万円前後で入れる施設がありますけれど、実際、月に20万円出せる人っていうのは、そんなにはいないんです。出せる人と出せない人の格差はものすごく大きいですね。また、歳をとればとるほど、馴染んだ環境、やっぱり住み慣れた自宅がすごく安らぐんですね。

 ある利用者の方に、末期がんでもう治療することはできない、余命3か月と告知された70代の男性がいました。「あとはもうホスピスですよ」と言われたけれど、ホスピスに支払うお金もなく退院後は、もとのアパートで一人暮らしでした。紹介をいただいて関わることになったのですが、初めて訪問したときは、寝る場所もないくらいの荷物で溢れていました。まずベッドを置くスペースを作って、少しずつ生活を整えて。ご家族とは数年前から絶縁状態で一切の協力を頼めないとのことでしたので、緩和医療ケアーは在宅医に繋いで、生活のことは私たちが受け持ちました。最終的には、ご家族と連絡が取れて、ご家族に看取られるという形で完結したんです。今は医療・介護の連携体制が整ってきていますので、本人とご家族が望めば自宅で最期を迎える事は出来ますね。我儘と思われがちな自己主張は、周りを振り回したり、迷惑がられたりしますけれど、でもそれもいいんだな、と思いました。自己主張すれば、周りがそれに応えざるをえない。本人としては自分なりの生き方ができる。関わった方たちから日々、いろいろなことを教わります。私たちのできる範囲というのは、繋ぎしかできないんですけれども、それも一つの役割なのかなと思います。

高齢者の生活や生き方を支援したい

 実は私は55歳まで金融機関で働いていたんです。その終わりの9年間は、職員の健康管理室の仕事をさせていただきました。職員が病気になったり、亡くなる人もいる中で、「人間というのは、何年生きるかよりも、最期の時に自分の人生を納得してしめれるというのが一番幸せなんじゃないか」と思うようになりました。退職した後は、今までずっと働いていましたから、これからは妻として、母親としての役割を果たしたいと思っていました。そんな時、たまたま樋口恵子さんの「高齢社会をよくする女性の会」に参加したんです。講演を聞いて「私はこれから、なにか社会がよくなるお手伝いをしたいな」という気持ちが芽生えてきました。

 その時は、事業所を立ち上げるという構想は全然なくて、高齢者の生活や生き方を支援できるような仕事に関わりたいと、ヘルパー2級の資格を取ったのです。その後、ヘルパーの派遣事業所から、お誘いがあり働くことにしました。ちょうど介護保険が始まって、事業所も慣れないことに手探りのような状態でしたので、前職での知識を活かして事務なども、お手伝いするようになりました。

まだ、60歳。地域の方に応えられる介護事業所を立ち上げる

 3年くらい経って、自分が納得する介護をするためには、やっぱり自分がことを興さなければ実現はできないと思ったんです。私は金沢区に住んでいましたので、自分が住む地域の方に応えられる介護事業所をつくることが、具体的に実現できることだと考えました。その時、私は60歳。昔で言えば還暦で「ご隠居さん」になるんですが、もう60歳と思うのか、まだ60歳と思うのか。私は元気でしたので、まだ60歳と思ったのです。それで、関わっていた人たちにその思いを伝えましたら、「一緒にやりましょう」と言ってくださって。2003年に5人で居宅支援と訪問介護、福祉用具を中心とした事業所を立ち上げました。最初は友人などにヘルパー2級を取ってもらって登録してもらうなど、周りの方の力を借りながら、紹介などもいただいて、1年で100人くらいの依頼を受けることができました。その後、障害者の訪問介護サービスも始めました。

 2011年に、デイサービスも始めました。その頃、地域のデイサービスは定員が30人~40人でした。そういう中に馴染めない方もいます。その方たちの居場所が必要だなというのを感じたんですね。それで、家庭をそのまま移したような、利用する方の意思や希望を実現できるような場所を探しました。ですけれど、なかなかいい物件がなかったんです。洲崎町に空地があって、それなら作っちゃおう、ということで借金をして、土地を購入。建物を建て、13人の定員なんですが、「宅老所えん」を、その2年後には釜利谷西に「デイサービス そら」を開所しました。

 次は認知症の方の家族支援問題でした。認知症の方への理解や支援体制も整いつつはありますが、やっぱりまだまだ差別観があります。認知症になってもご本人たちを正しく理解し、それを受け止める介護環境があれば、地域に住み続けられる。認知症の方の問題は、ケアする私たちが、その方を理解し、的確な対応をすることで、かなり解決できるんです。認知症の方たちに直接関わって、実践の中でこうすれば大丈夫だよ、ということを一つ一つ地域に広げていける場所も必要だと。職員もそういった技術の向上ができれば、支えられる人が増えてくる。それが増えれば増えるほど、認知症の方やご家族が地域に住みやすくなるのではないかと思ったのです。「宅老所えん」の隣に空き家ができまして、小さい家で7人の定員なんですが、認知症対応型デイサービス「洲崎えん」をオープンさせました。

15年の経験と思いは小規模多機能へ

 事業所を立ち上げてから15年。これまで関わった利用者の方をベースに、その方たちが地域で生活し続けられるように、足りない部分があれば、一歩踏み出し少しずつできることをやってきたという15年でした。

 来年、小規模多機能の施設を開所する準備をしています。ご本人の様態や希望に応じて、「通い」「宿泊」「訪問」といったサービスを組み合わせて「自宅で継続して生活するため」必要な支援が柔軟にできます。デイサービスだと朝迎えに行って、何時に帰るって決まっていますよね。利用者の方には、施設側の時間帯に協力していただかなくてはなりません。朝8時半に迎えに来られても、まだ寝ていたい人もいますよね。なのに、そこに行くには8時に起きて、食事をして準備をしなけれればならない。小規模多機能だと、全然そういうのがないんですね。今日はちょっと疲れてるから、お昼から行こうとか。あるいは、奥様がお出かけをして映画をみて、食事して帰るから、夕食後8時くらいにご主人を送ってください、なんていうのもできるんです。利用者の方の使い勝手がいいんですね。

 やり方によっては大変なのですが、今まで私たちがやってきたことや思いが、小規模多機能で集約されると思っています。

日々の人との関わりが大切

 私は自分の事業所だけが良くなればいいとは思いません。地域にある事業所が、情報を共有し、助け合うことによって、地域がよくなっていくと思っています。訪問介護事業所の連絡会を作ったり、うちの事業所で外部講師を招いて研修などするときは、周りの事業所の方をお誘いしたりもしています。事業所同士が共存して一緒にやっていくということを大切にしたいですね。

 私も高齢ですので、次に引き継げるような会社にしなければいけないという思いがあります。経営者としては、ここまでいろいろな決断に迷いがあることもありました。だからこそ、日々の人との関わりは大切ですね。人は人によって癒されるし、自分を裸にしてありのままをさらけ出して相談すると、みなさん自分のことのように考えてくださります。私がここまで来れたのも、そういうことかなと思いますね。だから私も出来ることは協力させていただこうと思っています。

宅老所えん 全景
地域の中で、円となり縁を結ぶような繋ぎ役にと願い、
建てた。

重要視しているのは人材育成。
研修は数多く、充実している。

【久田恵の視点】
 15年で介護にかかわる事業所を次々と立ち上げて、情熱をとぎれさせることなく地域の介護体制を万全なものにしていったのですね。山口さんのその力量には目を見張ってしまいます。自分の暮らしたい地域は自分で作りあげる、自分の求める介護は自らそれを実現する、その自立した生き方を私たちは学びたいと思います。