介護職に就いた私の理由(わけ)
さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。
花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/
- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第98回 おばあちゃんの死目に会えなかったことが心残りで…
自らめざす介護を求めて仲間と立ち上げ
滑川千穂さん(50歳)
ぷちとまと☆けあ
取締役・所長
主任介護支援専門員・介護福祉士・認知症ケア専門士
取材・文:石川未紀
おとなしかった子ども時代
私、一人っ子なんです。母親と祖母との三人暮らし。忙しい母親に代わって、祖母が私の面倒をみてくれたので、すごいおばあちゃん子でね。大好きでした。
小さいころはおとなしくて、すみっこのほうにいるような子どもでした。それが変わったのは、東京・大田区に引っ越してから。転校したてのころ、声をかけてきた子がいたんです。その子が、いわゆるツッパリというか、不良グループの子で…。そのうち、その子のグループで行動するようになりました。と言っても、当時はかばんをつぶしたり、スカートの丈を長くしたり、いきがっていただけなんですけどね。でも、そのグループ内では、みんな言いたいことを言うわけです。それがすごく新鮮で。言っても大丈夫なんだって。それからですね、人にものも言えるようになったのは。
見知らぬ土地・長崎で介護にであう
高校卒業後は女性カメラマンにあこがれて写真スタジオに勤めるも、一年もしないで辞めてしまい、その後、喫茶店などでアルバイトをしていました。
高校時代の彼氏と19歳のころから同棲して、結婚。24歳で双子を授かりました。若かったので、お金もなくて出産後すぐにチラシ配りなどのバイトもしていたんですよ。その後、いろいろあって、子どもが小学校へあがるときに、長崎へ引っ越しました。地域に溶け込み始めたころ、少し働きたいなとバイト求人のフリーペーパーを読んでいたら「訪問入浴」というのがあったんです。私はおばあちゃん子だったのに、祖母が故郷の鳥取に帰ってからは年に一度ほどしか会えなくて、祖母が亡くなったときには、双子を妊娠中で、死に目にも会えなかったんです。それがずっと心のどこかに引っかかっていて、高齢者の仕事をしてみたいという気持ちもありました。それで、条件も子育てとの両立もできそうだったので、働き始めたんです。
長崎は坂の多い街で、三人でまわっているんですが、みんなでバスタブもホースもポンプも担いで歩きました。お風呂に入れた後の顔がとってもいい顔で、大変でしたけど、楽しかったんですよ。
再び東京で、訪問介護の仕事に挑戦
そこで一年半くらい働いたころに東京に戻ってきました。東京に来てほどなく離婚して、二人の子どもを育てていかなくてはなりませんでした。また、訪問入浴の仕事をしたいなと思って探していたんですけど、正社員となるとなかなかなくて。
そんなとき、ハローワークの人が自己アピールする方法もあるよ、と教えてくれたんです。それでこんな経歴でこんなことができますというのを書いたら、港区のある介護事業所が、うちに来ないかと声をかけてきたんです。訪問入浴ではなく、訪問介護でしたが、やってみることにしました。
介護保険はすでに始まっていましたが、まだまだ今のように情報公開もできていなくて、みんな現場は手探り状態。私はとにかく利用者さんがやってほしいと言われたことはかたっぱしからやって、上の人に怒られたりしていました。大変だったけど「滑川さんはよくやってくれる」なんて利用者さんから言われると気分がよくなって、いいかあ、なんて思っていました。やってはいけないことが全然わかっていなかったんです。今はケアマネという立場に立って判断することもできるんですけれど、やはり今でも現場のヘルパーさんは迷うことが多い、難しい仕事だと思います。
ケアして元気になってもらう、それが基本
そこで働いていたメンバー数人と介護観がすごくあって、じゃあ、自分たちで立ち上げようと独立したのが平成16年5月のことです。私たちは、まずは利用者第一だけど、それだけじゃない、ヘルパーとして働く人たちの気持ちにも寄り添う事業所でありたいと思っています。経営も大事だけれど、無理してサービスを入れたり、必要のない介護はしない、本来の意味の自立をうながすことに力を入れよう、そこはきっちりと正しくいこうって言っています。「お客」を離さない、利益追求型のところもありますよね。そうではなくて、私たちが援助することで、元気になって介護が必要なくなるなら、それが一番だということです。たくさんいるわけではないけれど、実際に、私たちがケアして元気になってサービスが終了したこともあります。それは「いいこと」なんです。
まじめにやればやるほど、事業所としては経営も厳しいですし、介護本来の仕事よりも書類を書いたり、会議に出席したり雑務に追われることが多くて、この仕組みが本当によいのかと思うときは多々ありますけどね。
娘も、そして娘婿も事業所に入ってくれたんです
数年前に、娘が入ってきてくれたんですよ。高校を卒業と同時に介護の専門学校へ行って、介護福祉士として老健で3年働いて、こちらにきたんです。子育て中は、仕事で夜遅くなることもあったし、事業所を立ち上げるときは本当に忙しくて、晩御飯は作り置きとか、お金をおいてコンビニで買って食べてね、なんてこともありました。だけど、その一方で仕事のことも子どもたちに伝えてきたんです。どこかで背中を見ていてくれたんでしょうかね。
私は、立ち上げメンバーの一人と再婚して、そして、娘の婿も今年からここで働くことになって、うれしいというか、ちょっと安心しました。港区のケアマネの協議会役員をやったり、地域のお手伝いや連携役もやったりして、自分自身も視野が広がって充実しています。心強いメンバーとともに、これからもがんばらないとね。
圭介さんは、取材した日は入社2日目でしたが、すっかり息は合っているようでした。
- 【久田恵の視点】
- 自分たちの固有の介護観がはっきりしていることは、ほんとうに大事ですね。目標が明確だと、一人一ひとりの個別な介護でなにが重要で、どう克服すべきかという判断もつきやすく共有化もしやすくなりますものね。利用者の側もついに「自分の望む介護事業所を選べる時代」がやって来る、そんな希望を感じさせてくれます。