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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第85回 手話通訳と介護を合わせて新しい働き方へ

武藤 洋一さん(34歳)
介護支援専門員・手話通訳士・社会福祉士・介護福祉士
手話で語る心理臨床研究会 副代表
日本聴覚障害ソーシャルワーカー協会
スクールソーシャルワーク担当
(東京・板橋)

取材・文:藤山フジコ

15歳のときに出会った“聞こえない”パン職人のご夫婦

 手話通訳のできるケアマネジャーとして仕事をしています。担当している40件のうち、3件が高齢の聴覚障害者です。

 日本語と手話は、語彙や文法も違います。手話文法では、日本語の助詞は表情や目線、手話の方向等で表現するため、聞こえない人の中には「が」や「を」などの使い分けが凄く難しいと感じる人もいます。聞こえない人にとっては、母語が手話で、日本語は第2言語になるので、日本語が苦手な人も多いです。

 手話は国や地域によっても異なるので、DVDで手話の読み取り練習をしたり、他県の聴覚障害の方々と交流して日々勉強しています。

 歩いて3分で日本海という自然豊かな新潟の村上市で育ちました。中学2年のとき職場体験で地元のパン屋さんで実習することになりました。そこで出会ったのが、聞こえないパン職人のご夫婦でした。聴覚障害の方と初めて会って、“聞こえない世界”があることに衝撃を受けました。身振り手振りのジェスチャーで、一生懸命コミュニケーションをとろうとしてくれる気持ちが伝わってきて、その想いこそ大切なのだと学びました。

 15歳だった私は、そのパン屋さんでの体験があまりに衝撃的だったので、家に帰ると興奮して母に話したのでしょう。そうしたら、母の働いている会社に手話に興味のある同僚がいて、一緒に地元の手話講習会に通うことになったのです。講習会は3か月という短いもので、自動的にそのまま手話サークルに入会。そこで、講師で来ていたパン職人のご夫婦と再会しました。今から思えば、あのご夫婦との再会が、今の自分の原点となる運命的な出会いでした。

十代後半の多感な頃、助けられた手話サークル

 十代後半からはサークルに通う意味は変わってきました。当時、家庭の事情もあり大学に進学するか地元で就職するか悩んでいました。聴覚障害者の当事者運動(注1)や障害者欠格条項(障害を理由に資格、免許を与えないと言う法律)に反対する署名活動に参加するうちに、世の中には差別や偏見が沢山ある。みな、それに向き合って頑張っていることが分かったのです。進学のことで悩む自分にサークルの先輩が、「辛いのは、あなただけじゃない。みんな大変なんだよ」と言ってくれて、上京して働きながら大学に通うことを決心しました。

 大学の二部社会福祉学科に入学し、昼は特別養護老人ホームで働き、夜は大学で勉強する日々。特に高齢者の支援や介護に興味があったわけではなく、生活の為でした。当時はまだ20歳そこそこだったので、排泄介助や汚物の処理など精神的にきつかったですね。オムツの当て方も下手で時間もかかるので、ご利用者から怒鳴られることも度々ありました。それでも働き続けると、叱られてばかりだったのが、逆に頼られたりして仕事が面白くなってきたのです。大学では社会福祉を勉強していたので、生の現場で学べることは貴重でした。現実は教科書通りにはいかないことも、この時に学びました。

“共通言語”をもたない人がいることの驚き

 大学4年のとき、聴覚障害者の施設へ社会福祉現場実習(24日間)に行きました。そこで、聴覚と精神に障害のある在日中国人の方と出会いました。その人は、簡単な手話しかできず日本語もできず、簡単な意思の疎通しかできていませんでした。私は大学で中国語を履修していたので、紙に中国語を書いてコミュニケーションをとっていたのですが、“共通言語”をもたない人がいることに驚き、そんな人を支援したいと強く惹かれたのを覚えています。そのとき偶然、「聞こえない老人ホーム」の存在を知り、もっと深く勉強したいと大学院へ進学することを決めました。

 大学院での研究テーマは「聴覚障害者老人ホーム(ろう老人ホーム)の建設運動」。聴覚障害者の当事者運動(ろうあ運動)の歴史を調べ、施設へ見学や実習に行きました。日本には「聞こえない高齢者のための特別養護老人ホーム」は9か所しかありません。そこには、聞こえる・聞こえないに関わらず、手話という言語を用いて社会福祉士や介護福祉士、手話通訳士も取得したスペシャリストが数多くいるのです。

介護事故を機に、一般職へ転職

 大学院卒業後は介護保険のショートステイ事業所の相談員兼介護職員として就職しました。仕事にも慣れた頃、自分が関わっていたご利用者が転倒し、頭部骨折の重傷を負い、入院する事態が起きました。幸い一命はとりとめ、回復の兆しもありましたがその一件以来、介護の仕事が怖くなってしまったのです。慢心と驕りがあったと自分を責めました。結局、逃げるように介護職を離れ、医療・福祉関係の民間企業へ転職しました。

 デスクワークに埋没する毎日で、ご利用者(障害や高齢の方)に直接寄り添うということができず悶々としていました。以前働いていた上司に相談すると「もう一度介護の仕事をやりたいなら、戻ってきてもらいたい」と言われ、また元の職場に復帰しました。介護職を離れてみて、改めて自分のスキルを活かせるのはこの仕事だと認識し、この仕事が天職なのだと気づきました。“福祉や介護の仕事を死ぬまでやりたい”という気持ちと周りの人の支えがあって、介護事故の怖さを乗り越えることができたのだと思います。

手話通訳士×ケアマネジャーの誕生

 28歳のとき、手話通訳士に合格。この頃は、仕事は介護、ライフワークは手話通訳と分けて考えていました。社会福祉士と介護福祉士の資格も取得していたため、その後に介護支援専門員(ケアマネジャー)に合格。多くの福祉・介護業界の社会起業家との出会いや全国で働く聴覚障害関連施設の先輩方との出会いがあり、気付くと手話通訳と介護をミックスさせた“手話通訳のできるケアマネジャー”として自分らしい働き方を獲得することができました。

未(不)就学ろう者の存在

 私の担当している高齢の聴覚障害者の中に「未(不)就学ろう者」がいます。「未(不)就学ろう者」とは、義務教育が開始された昭和23年以前に生まれた聴覚障害者で教育を受けることができず、また受ける権利をはく奪されて育っているため、手話での会話もままならず、文章などの理解が難しい聴覚障害者のことです。
 未(不)就学ろう者は、身振りが多く語彙が少ない。義務教育を受けていないため抽象的な概念や識字能力(文字に限らずさまざまな情報の理解能力)も乏しい状況です。例えば、「デイサービス」という言葉が伝わらないので、「土曜日に行くお風呂」とこちらが分かりやすい手話に変換して伝えると、「銭湯?」とまったく違う話しになってしまうことも度々あります。ろう者は、反射的にうなずくため、目の動き、頷きの度合い、顔の表情を見て、通じているかどうか判断しないといけない。手話というより、ノンバーバル(非言語)から心を視るという感じです。

 生活していくうえでのルールは普通に生きていれば自然と身につくものですが、義務教育が受けられず、耳が聞こえないために情報も入ってこなければ、生きていくことは本当に過酷なのです。病気の知識もなく、薬の飲み方も分からない人に、白内障や手術の必要性を説明しなければならない。生活保護を受給している人が、お金の価値や桁数が理解できず打ち切られたり。ただ、そんな人達も実は逞しく生きていて、ある未(不)就学ろう者は、高齢者住宅に聞こえる高齢者と仲良く共に暮らし、眼も白内障で見えづらいのですが、「ここが良い、仕事がしたい」と話しています。だから私は、過酷な状況だけを浮き彫りにしてしまうと、かえって個人と文化を敬う気持ちが無くなってしまうと思うのです。その人達には、生きてきた歴史があってその歴史を大切にしたいと思っています。

淡路ふくろうの郷の「内語」の取り組み

 兵庫県にある「淡路ふくろうの郷」の前施設長(現、ひょうご聴覚障害者福祉事業協会理事長)、大矢暹(おおや・すすむ)氏に会いに行ったことがあります。大矢理事長は、言語をもたない、聞こえない高齢者に「内語」というアプローチで言葉を紡ぎ出していきます。内語とはうちに秘めた内的な言葉のことで、施設に入所した言語を持たない未(不)就学ろう者の身振りを、同時に表出(同時手話)することで彼らの言葉を引き出して言語化するという、気の遠くなるような作業をされています。でも最終的には自己の語りを内観し、言語を持たなかったひとが共通言語を身につけて、他者に語りかけ、自己の力を内発的に引き出して(エンパワーメントされ)講演するようにまでなるのです。私は、その過程を肌で感じることができ、深い感動と新たな可能性を感じずにはいられませんでした。

聞こえなくても安心して暮らせる社会へ

 高齢の聴覚障害者と接することで、改めて“生きる権利”について考えさせられました。これからは、高齢の聴覚障害者の生活や未(不)就学ろう者のことを若い世代に知ってもらいたい。つないで行きたい。そのために、同業種の仲間や全く接したことがない専門職の人達とも連携して、社会にアピールしていこうと思っています。聴覚に障害を持って生まれてきても、安心して暮らせる地域を創っていきたい。聞こえない子どもたちの成長を地域で見守り、生まれてから死ぬその時まで、安心して迎えられる社会になれば良いなと思っています。
 介護の仕事って、人の人生に寄り添いながら、自分の人生を突き付けられているように感じます。だから、自分の人生をふり返り、自分の人生に活かすことができる。こんな仕事って他にはないですよね。これから来る未来に触れられ変えていくことができる、そんな素晴らしい可能性を秘めた仕事なのです。

(注1)^ 聴覚障害者の当事者運動(ろう運動)とは、聴覚障害者と手話活動者の協働による、さまざまな聴覚障害者の権利を守る運動のことをいう。

*用語の整理:ろう者とは、手話を母語とする聴覚障害者を意味しています。


淡路ふくろうの里で大矢理事長と職員さんと記念撮影

ダンサーとしても活躍(右)
福祉の現場力を高める研究大会のイベントにて
produced by Ubdobe

聴覚に障害のあるダンサーtomosukeさん(右)と
舞台下から出されるカウントをたよりにダンスを合わせる

【久田恵の視点】
 15歳の時の「聞こえない」パン屋さんとの出会いが、二十年後の介護の現場にひとりのユニークな介護福祉士を送り込んだ、というこの物語、美しい人生の展開ですね。福祉の世界というのはこういう方たちの手によって深められ、展開されていくのだという思いに打たれます。