介護職に就いた私の理由(わけ)
さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。
花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/
- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第80回 販売などの仕事を経て介護職へ
「介護」は私の生きがい
「介護」が私の将来を変えてくれた
須戸美紀子さん(41歳)
特別養護老人ホーム 保谷苑
(東京・西東京市)
取材・文・原口美香
利用者さんと接することで元気になれる
自分の担当する利用者さんに、ラーメンが大好きな90歳になる、少しふっくらとしたおばあちゃんがいるんです。その方が体調を崩すと、寝たきりになってしまうことがあって、ケアプランの中で、「ダイエットをして、少し痩せてもらった方がいい」ということになりました。ラーメンは年に一度、お誕生日のときに食べに行くのをすごく楽しみにしているのです。「いつまでも元気で、ラーメンを食べに行くために」と、歩行器を使って園内を歩いてもらったり、甘いお菓子は我慢、牛乳も半分、バナナも半分というように、たくさん努力をしてもらいました。他の職員の方にも協力してもらい、一年をかけた結果、5キロの減量に成功したのです。食べることが好きな方なので、利用者さんも相当大変だったと思うのですが、今はキュッとして、みなさんにも褒めていただいて、本当にうれしかったです。
ここにいて、利用者さんと接していると、元気になれます。たとえば、目の見えない利用者さんでも、「こんにちは」という私の声で「美紀ちゃんでしょ」と気付いてくれる。そうすると、私は一日笑顔でいられるのです。夜勤の時でも、私の心配をしてくれて、逆に励ましてもらうこともあるんですよ。ほっこりしますね。そういうとき、本当にこういうお仕事をしていてよかったな、と思います。
父の介護
私は中学卒業後、ブランドのコートを作っている工場で働いていたのです。若い人があまりいない職場でした。あるときからいじめがあり、耐え切れなくなって半年でやめてしまいました。
それからは、アルバイトで、飲食店などいろいろな職場を転々としてました。ベビー用品店で3年くらい勤めたこともありました。あるとき、定年退職したばかりの父が倒れてしまったのです。脳出血で左半身麻痺になってしまいました。当時、両親、兄、妹、私の5人がアパートで暮らしていました。そのアパートは、介護できる環境ではなかったのです。家族会議で「父に施設に入ってもらう」という話が出て、私は泣いて兄にお願いしました。「父のことは私が全部面倒をみるから、父が住める家を買ってほしい」と。最終的には兄が、大きな決断をしてくれて、介護ができる家を買ってくれたのです。それで兄と母と妹が働いて、私が父の介護をすることになりました。私はどうしても父を家でみたかったのです。
父は、私たちが小さい頃は海外で仕事をしていて、家にいないことが多かったんです。その後も、私が20歳くらいまでは、北海道に単身赴任でした。週末になると帰ってきて、一緒に出掛けたり、会社のイベントによく連れて行ってくれました。家族が大好きで、子どもたちと良く遊んでくれる父でしたね。愛情はとても感じていました。定年退職して、やっとこれから第2の人生というときに、身体が不自由になった。苦労だけは見てきたから、それで、すぐに施設では、父の人生が寂しいなと思ったのです。
近くに介護の仕事をしている友達がいたので、最初はその人に聞きながら、自己流で父の介護を始めました。父は、あるときから目が見えなくなってしまったのですが、いつも前向きで、周りに当たり散らしたりもしなかった。食事は見えなくても自分で食べるように努力をしていました。父が倒れてから、その偉大さを改めて知ったように感じます。母や妹も手伝ってくれたし、当時のケアマネさんもすごくいい方で、訪問入浴の方も、目が見えない父を楽しませながらお風呂に入れてくれました。そこに人との触れ合いがたくさんあったので、すごく楽しかったのです。
もっと人と触れ合いたい
今度は母が仕事をやめ、父の介護を私と交代した方がいいということになりました。それで私は、仕事として介護をやってみようと思って、ヘルパー2級の資格を取ることにしたのです。基礎知識を教わっていなかったので、講座はすごく新鮮で、充実感がありました。同時に、いろいろな方の介護をしたいな、という気持ちも芽生えてきました。派遣会社に登録をして、最初は病院で働いた方がいい、というアドバイスを受け、ある病院で1年働きました。でも、そこは思い描いていた「人との触れ合い」がなかったのです。いろいろ調べて、「特養」が利用者さんと接する時間が、一番多いのではないかと思い、特養を希望しました。いくつかの施設を見学したところ、ここに来たときの印象が一番よかったんです。面接して受からなかったらしょうがないと思っていたのですけれど、運よく入れていただきました。最初の半年は派遣で勤務し、正社員となって今、5年目です。
正社員で働くことを、父がすごく喜んでくれました、私はずっとフリーで働いてきたので。何かあると父は「おう、俺の金をやるよ」「小遣いをやるよ」って言っていたんですよ。でもここで働くようになって、ボーナスもいただけるようになって。「いいよ、ボーナスが出たから、お父さんに買ってあげるよ」「もうお金もらわなくても大丈夫だよ」って言うようになったら、寂しくなっちゃったみたいです。「安心して、それで早く逝っちゃったのかな」と後々、家族で話していたのですけれど。9年間、家族で介護して、5年前に父は亡くなりました。
ゆとりのある介護を目指して
ここで働くようになって、最初の1年目と、今の5年目を比べると、長くいる利用者の方のADLが、すいぶん落ちてきました。そうなると介護の仕方が全く違って、追いつかなくなることがあるのです。大変だな、と思うことも増えてきました。
利用者の方の行動や言動には、理由やサイクルがあることも分かりました。私なりに、かわし方も覚えました。忙しくてもなるべく、ゆとりのある介護をしたいと思っています。認知症の方でも、ふとしたときに、大事な言葉を言う瞬間があるのです。そういう気付きを、いつも持っていたいなと思いますね。それと、今年は介護福祉士にもチャレンジしてみたいと思っています。
「介護」は私の将来を変えてくれました。私にとって「生きがい」ですね。父が倒れてから、自分自身が変われました。父がきっかけなので、父には本当にありがたいと思っています。
楽しみにしていた露天風呂に入り、
大好きだったビールを飲んだ
- 【久田恵の視点】
- 家族介護の体験が、自分を介護職へと向かわせてしまった、そう語る人はとても多いものです。体験は万能ではありませんが、実践を通して、技術ばかりではなく、介護の精神性が知らず知らずの間に培われます。介護と言う仕事の特殊性と秘密がそこにあるのだと思います。