介護職に就いた私の理由(わけ)
さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。
花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/
- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第77回 ナースと暮らす家で、安心できる時間を過ごしてほしい
佐久間 洋子さん(56歳)
医療行為対応型シェアハウス
ナースさくまの家
家長・看護師(東京・三鷹)
取材・文:久田 恵
ナースと暮らすって、いいんじゃない?
病院は今、長期間滞在ができないし、介護施設は満床ですぐ入れない。医療対応があると断わられたりもする。でも家族がいないとか家族がいても在宅で点滴や吸引の医療行為が必要だとなると、もうみな怯えて不安になって、切羽詰まってしまいますよね。
そんな方に向けて「ナースと暮らすシェアハウス」っていいんじゃないの? と思って立ち上げました。2013年1月に開設。目下、5年目に入ったところですね。
この家に来る方の事情は千差万別です。
たとえば、アパートでひとり暮らしで、病院に行ったら肺がんが見つかって入院、余命は1か月と言われているのに、治療終了ということで、退院を通告される。でも酸素吸入も必要で、尿道バルーンカテーテルもつけている。アパートの管理人さんから、そういう状態の人が戻ってきても困るよ、と言われ、ここに来られた方もいます。また病院の先生から9日間だけお願いできないかと頼まれたり、看取りをする家族がいないとか。誤嚥で肺炎になって入院し、病院でなにも食べなくなって、介護まで必要になったという方とか。
そのひとりひとりに様々な事情と展開があります。
ここは、フツウの住宅街の真ん中にあるフツウの家です。
4LDKの二階建て。階段昇降機をつけて二階の3部屋をシェアルームにしています。でも結局、常時、見守りの必要な人もいるので、1階のリビングと隣の和室にもベッドを入れて、目下定員5人です。緊急の方を受け入れるとプラス1人、最大7人まで入居者がいたことがありますね。料金は一日一万円。高いと言う人もいますが、常に満室じゃないと運営ができないというのが実態ですね。
私は二階に自分の部屋を確保しているのですけど、ほとんどいたことがない。実は、リビングのテーブルの下のホットカーペットで寝たりしています。
あなたのプライベートがなくていいの? とか、よくみなから言われますが、私にはそれがなんぼのものかって感じですね。点滴したり、胃瘻やったりしている中で、夕方七時くらいになると、ご飯食作ってリビングで食べて、お風呂に入ったり、ビール飲んだりして、好きにプライベートをしています。訪問ヘルパーの方が来ると、「おねがいしま~す」って言っておむつ替えてもらっています。入居者には、各自、ケアマネさんがいて、ケアプランを立ててヘルパーさんを頼んだりしていますから、もういろんな人が毎日出入りして、すごくにぎやかなんです。
私って雑多な中での日々が平気な人なんです。
患者さんの味方で絶対いたい!
私には、とくに介護や医療に対して特別な考えがあるとか、志があるとかじゃないです。看護専門学校を出てから33年、ずっと看護師で、救急病棟にもいたし、訪問看護もやっていたし、看護師であることが日常そのものなのだと思います。なにがあってもあたふたはしない。救急の病院にいた頃、最初は、私もあたふたしたのですけど、その私よりもっとあたふたしている先生をみたりすると、これじゃだめだなと思ったりして。ものごとを深刻に考えてもどうもならないと知ってしまっているのだと思いますよ。
ただね、病院で働いていた時から、患者さんの味方で絶対いたいと思っていて、それだけは今もブレたくない。痛みで苦しんでいたりする人がいると、それを少しでも和らげたいと思う。テーブルの下で夜寝ていたりして、咳とか、痛がる声とか、なんだかんだ言っているのを聞くと、こちらは看護師だから、即、病気と照らし合わせて考えるわけですよ。その方に認知症もあったりして、病院では痛みが見つかっていないけれど、実はそうじゃないんだな、とか分かったりするんですね。昨日こうだったからこうなったかなとか、ちょっとむくんだかなあ、なんだか声がうわっずてるなあ、とか。病院や施設のように交替勤務だとそういう微妙なところが分からない。一緒に暮らしている家族のほうが、よくわかるものなのです。
いろんな思い出を残して旅立っていった住人たち・・・
この家は、もともとは「終末期対応シェアハウス」ということで始めたんです。
父を母と一緒に実家で看取ったのですが、看護師のわたしには、「看取りの日」が分かったけれど、母は、全然、気が付かなかった。そのことと、一つ上の姉ががんで病院で亡くなり、家で看取れなかったこと。その体験から、ひとり暮らしだと病院で死ぬしかないのかなあ、と思って。そもそも、私も十年前に車に身の回りの荷物積んで夫から逃げ出して離婚したシングルなんですよ。子どももいません。そんなこともあって、看取りの家を作ろう、そう思ったのですが、高齢者の状況はもっと複雑なニーズがあると実感して、看板を書き換えたんです。
昨年は、この看取りのケースが二つありました。
ひとりは、日赤病院から退院してきて、一週間で亡くなった方なのですが、悪性リンパ腫でした。入院中にされた余命宣告が3か月、さらに1か月になって、食事も全介助という状況の方でした。病院で死ぬのは嫌だ、と言って来られたのですが、かなり具合が悪くなっていて、血圧も低い、熱もバンバン出ていました。その方に、「食べたいものは? 大とろ? 中とろ?」なんて聞いたら、「それを食べるなら酒も欲しいな、酒なら焼酎だ」と言うのです。そのことを息子さんに伝えたら、彼が思い出作りをしたいので、「ここで、お鍋していいですか?」と言われたんです。それで、息子さんがぶりシャブやりました。彼は、それを10キレも食べたし、太巻きを3個たべたって、息子さんが嬉しそうでした。そんな様子に、本人は、もうここで静かに死にたいと思われているのだな、と感じました。そのうち家族の方も次々来て、亡くなる前にお風呂に入り、もう、今日かなあ、という日に、ビール飲みたいと言って飲んだんです。みんなに介助されて、亡くなる二時間前までお酒を飲んでいましたね。彼はピアニストだったので、亡くなった後、オクさんがタキシードを着せたいと言って、子どもたちがそうしてあげて、その姿がすごくかっこよかったです。
なんかこういう看取り方って、いいな、楽しいな、と思いました。
ちょっと前までリビングの真ん中のベッドに寝ていたのは、98歳の方で心不全の急性増悪で、総合病院に入っていた方でした。後は、点滴と酸素吸入と尿道バルーンカテーテルを入れて安静にしていて、と言われるけれど、彼女には認知もあってそれは無理なんですよ。結局、病院ではしばられて、口からも食べさせてもらえない、お風呂にも入れてもらえない、髪も乱れに乱れ、まるで手負いの猫みたいになっちゃって、近づくとフ~ッと威嚇する。姪御さんがもう可哀想で見ていられないって、ネットでうちを見つけて電話をしてきたんです。それで病院からこの家に運んで来たのですが、最初は私たちも近づけないし、触らせてももらえない状態でした。それで、とりあえず寝かせて、お布団をかけてそっとして置こう、そうやってだんだん人間になってもらおうということにしたんです。入居して一週間が経った頃にはちゃんと人間に戻って、エネルギーゼリーでいのちを繋いでいました。
そして、「お風呂に入りたい?」って聞いたら、「入りたい」って言うので、訪問ヘルパーの方に頼んだら、のんびりいい顔で入りました。その日の夜に静かに息をひきとりましたが、その時もとってもいい顔をしていました。
よかった~と思って、私はワインを飲みました。
ま、こんなわけで「さくまの家」を始めて、私のやっていることは、ほとんど介護の世界だと実感しましたね。ヘルパーさんへの信頼度が増し、ケアマネさんも重要だと。ともかく力量のある人と一緒にしっかりネットワークを組んでやっていけたらいいな、と思っているところです。
今は、佐久間さんがこのテーブルの下で寝ている。
- 【久田恵の視点】
- 佐久間さんのいる「さくまの家」は、居心地満点。そのまま喋って飲んで、泊まっていきたくなる場所です。彼女は人生のどんな大変な話をするのも楽しそう。どんとしてたじろがずにいる人です。看護師としてのキャリアもすごいのです。訪問看護ステーションの所長 だったり、この家を開設する前は老人保健施設三鷹中央リハケアセンター看護介護科科長でした。「別に私には介護観なんかないのよ」と言いますが、この家は、他に類のないものです。彼女の看護師人生の総決算のような場。言葉ではなく実践されているその姿が佐久間さんの生き方、彼女固有の介護や看護観をそのまま現しているのだと思います。