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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第74回 不動産業から介護施設開設へ 
自分の思いを達成できるのが「人の支援」 
24時間365日、「元気な亀さん」とともに

瀧本信吉さん(68歳)
民間福祉施設「元気な亀さん」
代表(埼玉・坂戸)

取材・文:原口美香

観察上手は介護上手

 ある若年性認知症の女性が、ここにデイサービスで通い始めた時、玄関に入ったところで、うずくまって、毎日毎日泣いていたんです。1か月も2か月も、ずっと泣いているから、スタッフと「どうしたら泣き止むか、みんなで考えよう」と、話し合いました。いろいろ案が出て試みるんだけれども、なかなか上手くいかない。その頃、父子家庭の小学生の女の子が来ていて、私が玄関のところで猫の鳴き真似をしたんです。「ニャーオ」ってね。そしたら、その女の子が向こうで「ニャーオ」って返してくれた。それをやっていたら、泣き止まなかった利用者の女性が「ぷっ」とね、顔を持ち上げて笑い出したんです。それで今度は人を替えてみたらどうかと思ってやってみたら、笑うんです。あれだけ泣いていたのに、それからは一切泣かずに、今度は笑うようになってきた。笑うようになってきてからは、台所の洗い物を手伝ったりしてくれるようになってきたんです。その方は旦那さんも亡くなって、息子さんが一生懸命お世話していたんですよね。仕事が終わったら迎えにきて。「お母さん、今まで泣いてばっかりいたのに、笑うようになって、よかったよかった」ってね。聞いたら猫は大嫌いだったらしいけど。その方は最後までこちらを利用して、デイのまま、亡くなられました。自分がやってきた中で「観察上手は介護上手」っていうのがあるんですけど、目的を持って観察をしていると見えてくることがあります。喜び一つ、悲しみ一つ、そういうこと自体が一人ずつ違う。十把一絡げでその人を見るんじゃなくて、その人を知ることから。その人だって、全然知らないところに、しかも知らない人のところに来るんだから、不安でいっぱいなんですよ。何に困っているのか、何故困っているのか、そういうこと知るために、相手をよく観察をすることが大事だと思いますね。

自分の思いを達成できるのが、人の支援

 18の時に、大分から出てきたのです。東京で何かやろうと思って。何でも役に立つ筈だと、仕事は替えに替えまくりました。「兄貴があれだけ引きとめたのに振り切って出てきたんだ」という意識が自分の中にすごくあったんですよね。だから「これなら、自分のその思いを達成できるな」と思って飛び込んだのが「人の支援」っていう部分だったんですね。不動産業界で働きながら、ボランティア団体に3年くらい所属しました。里親も3、4年やりましたね。正月とかお盆とか。その時はわが子のように一緒に風呂に入ったりね。ある訪問先で、すごく天気のいい日に布団にくるまっている人がいて、何とかああいう人たちを外に連れ出す方法はないかな、と考えていたんです。妻は看護師で、リハビリ担当として病院で働いていたので、私が37歳の時に「会社を辞めて始めてみるか」ということになって。知り合いの人も「失敗してもいいや、うちの2階があいているから、そこに引越して来ればいいよ」なんて応援してくれて。「すぐ潰れるわ」っていう人も結構いたけど、絶対にこういうことが必要な時代がくると思っていました。

たくさんの人に支えられてここまできた

 昭和61年の9月に開設して、最初は住宅を開放してデイサービスだけやっていたんだけれども、家事代行で支援していたおばあちゃんが、病気になったんです。そのとき病院側が「一人でおうちに返すのは心もとないし、『元気な亀さん』が宿泊できるところを作るまで、病院の方で預かってもいいよ」って言ってくれた。それで急遽土地を探したんです。不動産屋の課長が「こういうことをやるなら、公園のある、ここがいいよ」って、この場所を紹介してくれた。見たら目の前に公園があって、それで決めました。土地は何とか買えたけど、建物はお金がかかる。そんなときに、前職で懇意にしていた工務店の社長が思いがけず、融資をしてくれることになったんです。それで建物も建てることができた。その後も、増築や資金不足のときなど、いろいろな人の繫がりで助けてもらった。一つの事業を始めようとすると、運や自分の努力では叶わないものがあります。周りの人がどれだけ応援してくれるか、それは非常に大事なことだなと思いましたね。だから決して自分一人でやってきた、というようなことは言えなくて、人から逆に支援されてきたということですよね。そういう人たちを裏切っちゃいけないから、「その分、心が通い合ういい介護をしよう」って。

利用者の方にもスタッフにも、たくさんのドキュメントがある

 利用者の方は、お年寄りを含め、青年や学童など1日平均23~25名の方が入所やデイサービスを利用されています。年齢や介護度を問わず、どんな症状の方でも受け入れます。うちは、いろいろな施設からお断りされた方が大半なのです。来た当初は、みんないろいろな問題を持っている。それも決してその人が悪い訳じゃなくて、その人なりの自己表現なんです。すんなりここに来て、問題もなく打ち解けていく、なんていうことは、まず、ないんです。だけどここで居場所が見つかったりすると、みんな穏やかになっていく。そこにたどり着くまでには、すごいドキュメントがいっぱいあるんですよ。そういうものが積み重なって、「ああ、この仕事からは離れられないな」と思いますね。

 ここで亡くなられた方は、もう90人を超えています。今いる方たちも「ここで最期を迎えさせて」っていう方たちがほとんどです。終末期は、スタッフにもできるだけ立ち会わせるようにしているんです。私は人間っていうのは、死ぬこととか、失うこととか、そういうことを体験すればするほど、優しくなったり、人に対する思いやりが深まっていくものだと思っているんです。

 スタッフには、主任とか上司とかを作らずに、勤続年数が3年を超えたら、リーダーになる資格というようなものを与えます。リーダーは毎日順番で変わって、その日のリーダーが、スケジュールなども含めて采配をとるんです。「出番」を作ることが、利用者の方もそうですが、スタッフにとっても大切なんですね。スタッフの中には、心の病を抱えていたり、さまざまな状況で働きに来ている子もいます。だけど「自分を変えたい」「今までの自分から脱皮したい」、そういう気持ちさえあれば大丈夫。今、彼らなりに頑張っています。

 私は本当の意味で自営業になろうと思って、施設の中に自宅を作っているんです。ドアの向こうが自宅になっているんですね。離れていたら、何かあった時に間に合わないじゃないですか。夜でも何か様子が変わったら、内線がかかってきて、すぐ対処できる。

そうじゃないと安心して眠れない。ここにいれば、何かあってもすぐ行けるという安心感があるから。やっぱり24時間365日ね。高齢になっても、経営者であり、事業者であり続けたいのです。「元気な亀さん」は、死ぬまで私の一部なんですよ。


元気な亀さん 全景

昼食のひととき。
施設内は、園長先生の言葉や手作りの装飾で溢れている。

【久田恵の視点】
 年齢も介護度も問わず、子どもも高齢者もケアの必要な人に寄り添って一緒に暮らせる場、「元気な亀さん」は、そこに集まってきた人たちのニーズに呼応して自然とつくられていった福祉の原点のような場所なのですね。
 誰にでもできそうだけれど、実はとんでもなくむずかしいことが自然にやり遂げられている、介護の現場をコツコツ歩いているとそんな場所に出会えるのです。