介護職に就いた私の理由(わけ)
さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。
花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/
- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第72回 僕が僕らしく生きるために
性同一性障害を武器に介護に生きる
佐藤悠祐 さん(25歳)
訪問介護・介護福祉士
NPO法人Startine.net代表
(千葉・松戸)
取材・文:藤山フジコ
介護の仕事は男性も女性も仕事の内容は同じ
戸籍の性別は女性ですが、19歳で性同一性障害であることをカミングアウトしてから佐藤悠祐という名で男性として生きています。
福祉の専門学校を卒業後、特別養護老人ホームに介護福祉士として就職しました。就職面接ではカミングアウトせず、数か月たった頃、「男子ロッカーで着替えたいです」と施設長にカミングアウト。「君がいいなら、それでいいよ」と言ってくれました。僕は自分に正直でありたい。カミングアウトして居辛くなるような職場は仕事をしていても楽しくないと思ったのです。幸いその施設ではみな「あ、そうなの……」という反応でした。利用者さんに関しては、自分の性別をどう思われても構わないと思っています。利用者さんが僕のことを「ちょっと、お嬢ちゃん、お嬢ちゃん」と呼んだり、別の利用者さんは「あれ、お嬢ちゃんじゃなく男の子よ」と言ったりしてちょっとした異空間が生まれるんです。僕はホルモン治療もしているし、乳腺も手術して摘出しているのですが、髪が伸びたままだと女子に見えることもあるみたいで、「男でも女でも、どっちでもいいです」と僕が言うと、おばあちゃん達は余計混乱しています(笑)。介護の仕事は男性も女性も仕事の内容は同じ。常に人材不足なので性別にこだわりがなく、僕と同じセクシュアルマイノリティの人達も働きやすい環境だと思います。
性同一性障害に悩んだ日々
幼い頃は外遊びが大好きな活発な子どもでした。小学校の高学年になった頃、何か自分は人と違うと感じて……。ただ、何が違うのか分からなかった。中学に入ると、女子の制服を着なければならなかったり、体育の授業では男女別になったりして嫌でも男女の性差を強く意識させられました。まわりの女子と自分は違う。男子といるほうが楽だし、得体のしれない違和感を抱えながら毎日を過ごしていました。
その頃、ドラマで性同一性障害のことを初めて知りました。女性から男性に性別を変える主人公を観て、「自分は絶対にコレだ!」と思ったのですが、病気だ、治療だ、手術だという言葉を聞いて何だか怖くなってしまったんです。
中学では吹奏学部だったので、モヤモヤしているものを打ち消すように部活に熱中しました。テニスやバスケットなどは男女差がどうしても出てしまうけど、吹奏楽部って男女関係なく同じ演奏ができるんですよ。高校でも吹奏楽部に入部し部活に打ち込みました。全国大会に出場するレベルのバンドだったので体育会並みの練習量。家族より部員と一緒にいる方が長かった。その頃からインターネットで性同一性障害を調べて、同じように悩んでいる人たちとネット上で繋がることもできました。当時、ネガティブな書き込みが多かった中、1人だけ非常にポジティブな人がいました。高校3年になり部活を引退して、いろいろ迷っているときだったので、思い切って彼に会いに行きました。彼は自分と同じく女性として生まれてきたけれど、今は男性として生きて仕事もしている。戸籍を女性から男性へ変えられる話や、性別適応手術、ホルモン治療の話しも聞け、自分も男性として生きていくことができると知って嬉しかったですね。それまでネット社会でしか本当の自分を生きられないと思っていたので、こんな生き方もあると知って希望が持てました。高校卒業後、思い切ってカミングアウトすることに決めました。当時使っていたSNSは友達同士がたくさん繋がっていました。そこに自分は性同一性障害であること、今後どのように生きていきたいかなど書き込みました。ただ、皆の反応が怖くてなかなか更新ボタンを押せなかった。でも、3年間一緒に部活をやってきた仲間達は離れていかないだろうと、最後は自分の友達を信じました。結果、カミングアウトして本当に良かったと思っています。
高校卒業後は福祉の専門学校へ進学しました。中学生の時に、病院でご飯を配るボランティア活動もしていたので施設やディサービスは馴染みのある場所だったのです。専門学校を卒業し就職が決まり、家を出るタイミングで両親にもカミングアウトしました。母親には「最初から分かっていた。そうじゃないかと思っていたよ」と言われました。今も両親共に応援してくれています。
最期まで関わりたいという思いから特養に就職
就職先は、ターミナル対応をしている施設を探し、特別養護老人ホームに就職しました。最期まで入居者さんと関わりたいとの思いからです。この仕事に就く前は、人の最期は「ありがとう……」と皆に看取られてというシーンを想像していたのですが、そうでないこともあるという現実も知りました。認知症の進んだおばあちゃんを担当していた時のことですが血尿が止まらず、膀胱炎じゃないかということで抗生剤を入れると一旦は収まるけどまた血尿が出る。本人がとうとう「痛い、痛い」と言い出して。僕は看護師に早く病院へ連れて行ってほしいと頼んだのですが諸事情ですぐに連れていってはもらえなかった。やっと病院へ行ったときには、おばあちゃんは膀胱癌の末期で余命1か月だったんです。なぜもっと早く病院へ連れて行かなかったんだ……と憤りを覚えました。おばあちゃんがいつもと違うということは僕ら介護スタッフはみな、分かっていたのです。ただ、看護師を説得できるだけの知識と言葉を持っていなかった。入居者さんの日々の情報量は介護スタッフの方がずっと多い。それを医者や看護師に伝える知識を僕らも持たなければならないと痛切に感じました。僕が性の問題で悩んだのも情報量の圧倒的な少なさからでした。人の最期に関わる仕事をするものとして、その時の痛みを忘れてはならないと思います。
福祉の世界からLGBTの知識を広めたい
今は訪問介護の仕事をしながら、NPO法人Startine.net (http://startline-net.jimdo.com/)という団体の代表もしています。多様性のある福祉社会の実現が活動理念なのですが、多様性を理解する知識を広めたいと思っています。介護施設で働くLGBT(注)の人への対応や、入居者さんがLGBTだった場合など、自分の経験を踏まえて講演などしています。高校生の頃、男性にはなれないし、女性として生きていくのも嫌だ。もう死ぬしかないと思い詰めていた自分に、「こんな道もある」と示してくれた彼のように、自分も同じように悩んでいる人たちの力になりたい。
将来は、利用者さんを規則で縛らない、僕が僕でいられて、あなたが、あなたでいられる、最後までその人らしさを失わない施設を作りたいと思っています。
※注:LGBTとは、性的少数者を限定的に指す言葉。レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル(両性愛者)、トランスジェンダー(心と体の性の不一致)の頭文字をとった総称。
「OUT IN JAPAN」という
カミングアウト・フォト・プロジェクトに参加
- 【久田恵の視点】
- 「多様性のある福祉社会」、胸にグッときますね。介護の現場というのは、まさに多様性のるつぼ。知らぬまに住みわけにされていたような社会の中で生きてきた人たちが、介護という誰の身にも起こる事態によって、会うことのなかったような人たちと出会う場です。介護する人、される人、むろん、男も女も、LBGTの人たちも、いろんな世代の人たちが出会うのです。まるで、そこから新しい人生が始まるみたいに、です。介護の現場からはあるべき社会の形がみえてきます。