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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第63回 不動産会社事務員から介護職へ 
不動産会社事務員から介護職へ

山岸 ゆい子さん(59歳)
軽井沢町社会福祉協議会 木洩れ陽の里
訪問介護係長

取材・文:久田 恵 

町の広報誌がきっかけ

 介護職に就いたのは、私が39歳のときでした。

 介護保険制度が始まる2年前です。町の広報誌で、社会福祉協議会のヘルパーの募集を見た、それがきっかけです。

 ホームヘルパーが、軽井沢町では、まだ家庭奉仕員と呼ばれていた頃で、しかもその奉仕員も2、3人しかいなくて、町の一人暮らしの高齢者の様子を見に回るという感じだった時代です。(注:1991年に「ホームヘルパー」と呼称変更されていますが、まだ対応できていなくて、「措置」で介護サービスに入っていました)

 当時、私は、地元の不動産会社で事務の仕事をしていました。バブルがはじけて、東京から進出してきた不動産会社が次々と撤退、シングルマザーの私としては、子どものためにも、定収入の安定した仕事につきたいと思っていたのです。

 とりあえず、役場に話を聞きに行きました。その後、社協から何回も電話が来て、何回も誘われて・・・。

 実は、当時、働いていた不動産会社は、友人の夫がやっていて、私が、夫と別れたくて、東京から2歳と6歳の子どもを連れて軽井沢の実家に戻ってきたとき、支えてもらったところなのです。離婚までには5年ぐらいかかりましたが、「子どもが熱を出したりしたときは、そっち優先で構わないから」とまでいってもらっていました。

 それで、いざとなると、辞めたりしていいものか、と迷いました。

 私は軽井沢生まれで、結婚して東京へ行く前は、軽井沢病院に准看護婦として5年勤めていました。そういう経歴もあって、社協からは是非にと強く誘われたのだと思います。

 地方の高齢者は、まったく知らない人を家にたやすくは入れてくれません。地元のどういう家の娘かということにこだわりますので、そういうこともあったかな、と。

 かなり悩んだのですが、お世話になった友人から「自分の人生なのだから、好きに決めていいのよ」と言ってもらい、気持ちが定まりました。

どっぷりこの仕事にはまりました

 介護保険目前でしたから、すぐに資格を取る必要がありました。

 信濃鉄道にコトコト乗って、1時間かけて長野にまで受講に行き、とりあえず2級、その後に1級のヘルパー資格を取り、訪問介護の仕事を2年やりました。その後、立ち上がったデイサービスに移って15年、今は、また訪問介護を担当しています。係長職ですが、人手がないとか、急に休みが入ったというときは、私も現場に入っています。

 ということで、介護の仕事を続けて19年、どっぷりこの仕事にはまりました。

 軽井沢町というのは、広大な別荘地を抱えた特殊な町です。

 今は、観光の町へと変貌もしていて、年々、高齢の移住者が増えている町なのです。

 1万9000人ぐらいだった町の人口も、2万人を超えました。

 私は、介護保険制度と共に、この町の介護事業が変化していく様を、見続けることになりました。あのとき、介護職に就く、と決断してよかったとしみじみ思います。

介護の仕事を通して出会いもありました

 実は、10年前、私は再婚しました。その夫とは、私が訪問介護の仕事をしなければ出会うことのなかった人なのです。ホームヘルパーとして、彼のお母さんの許へ私が行っていたことが、出会いのきっかけだったのです。

 彼は、東京のゼネコンで働いていたのですが、長男だったので両親の介護のために、軽井沢に戻ってきて父親を看取り、そして、母親の介護をしていました。当時、彼は、花の量販店に転職していて、地元の営業所にいました。ところが、社長に見込まれて、営業で全国を飛び回るようになったそうです。それで、昼間、お母さんのところに、私が行っていたのです。お母さんは2001年(平成13年)に亡くなられ、その後は、彼と会うこともなかったんです。

 数年後です。彼とスーパーでばったり会ったのです。

 そのとき、彼から「母が亡くなってから社協さんには、なにかボランティアでお返しをしたいと思っていたのです。一度相談にのってもらえませんか」と言われたのです。

 私は、デイサービスに移っていたので、利用者の方たちに、コケ玉を作るのを教えてもらうことになりました。彼は、「花と緑の仲間たち」というボランティアチームを立ち上げて、協力してくれました。その頃から、お付き合いが始まりました。

 当時は、下の高校生の娘と同伴で、食事に行ったりしました。彼は16歳年上で、独身。娘に、「もう、再婚しちゃえば」と背中を押され、49歳で再婚しました。