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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第62回 老健を経て独立へ。 
いろんな人がいていい。ありのまま、その人らしく。

(撮影:野田明宏さん)

石井 英寿さん(40歳)
有限会社オールフォアワン
民家型 宅老所「いしいさん家」「みもみのいしいさん家」代表・管理者
(千葉・習志野)


取材・文:原口美香 

ボランティアがきっかけ

 もともとは埼玉の川口に住んでいました。高校は男子校で、ラクビーばかりやっていましたね。あるとき、ラクビー部の監督に「ボランティアに行かないか?」と言われて、社会福祉協議会が主催のワークキャンプに行ったんです。高校生とか学生が集まって、大井町の特養や、障害を持った人の作業所を見てまわる2泊3日のキャンプがあるんですね。そこの施設に目の見えないおばあちゃんがいて、関わった最後の日に「今日で最後だからね」と言ったら、そのおばあちゃんがボロボロ泣いてくれたんです。それにちょっと感動して。それで、福祉関係の大学に進もうと決めました。

 千葉にある淑徳大学の総合福祉学部に進学して、最初は養護学校の先生を目指したんです。熱い先生になりたいなと思って。大学のカリキュラムの中に中田光彦さんという非常勤の先生の講座があって、どこかの特養の相談員もやっていて、たくさん本も出している方で。本の中に、老人ホームで居酒屋に行ったり、海に行ったりして「そうすることで笑顔が引き出せるんだよ」って書いてあったりもして、「すごいな」と感じたんですよね。「楽しそうだな、介護のほうに行こう」と進路を変えました。

 卒業後は地元の川口に戻ろうと思っていたので、鳩ヶ谷市の特養に実習に行き、そこから「内定」のようなものをもらいました。大学でもラクビーを続けていたんですけど、精神科の病院に就職が決まっていた部の仲間から、「もう一人、欲しいっていうから石井さん来ない?」と誘われたんです。「いやいや、もう決まっているから」と断ったんですけど、「話を聞くだけだから」って。行ったら「同じ敷地内に老健ができるから、介護ができるよ」と言われて、結局、流れでそこに就職が決まっちゃったんです。そこから、僕は千葉の人間になっちゃって。

自分の目指す介護

 それで入ってからは、ソーシャルワーカーとして、おじいちゃん、おばあちゃんと関わりました。半年経って老健ができたときに「やっぱり介護がやりたい」と思って、上司に直訴して。「給料下がるけどいいのか?」って言われましたが、介護のほうに異動したのです。そこから8年くらいやりましたね。

 最初は資格も何もなく、仕事に追われる日々でした。何時にこれをやりましょう、あれをやりましょう、という感じで。僕はそこで育ててもらったし、100人の入居者さんの家族が助かっているし、そこの施設を悪く言うつもりはないのですが、80、90のもう少しで死んでしまうような人に、どうして20、30の僕らが時間割を決めて生活していかなきゃならないんだろう、って思って。

 利用者さんの具合が悪くなって病院に行っちゃって、「あのおじいちゃん、どうしたんだっけ?」って聞くと「死んじゃったよ」って何か月後かに知るというようなこともありました。なんだか薄っぺらかったんですよ。仕事をこなすみたいな感じで、お風呂も、「今日は60人入れた」って数を自慢ばかりしていて。おむつ交換も、声をかけるとか、丁寧さよりも、「よーいドン」で速さを競うように。そういうことができる職員が、いい職員と見られているような感じもありました。

 僕はずっと、もやもやしながら仕事をしていました。「そこなのかよ」って。それであるときから、利用者さんを「笑かそう」と思ったのです。例えば、朝食で海苔が出ると、前歯につけて「ニッ」とやったり。そうすると、普段はグデンとしているおばあちゃんが笑ったりするんですよ。そんなことをするのは、僕ぐらいしかいなかった。ちょっとでもリラックスしてもらいたいなと思って、歌を歌いながら介助したりして。「うるさいよ」なんて言われたりもしましたけど。忙しくて、つらかったというのは身体的にはあったけど、自分の目指す介護と違うな、という思いもずっとありました。

やらないで後悔をするんだったら、やって後悔したほうがいい

 奥さんとは同じ職場で出会いました。介護観が同じで、仲良くなって結婚したんです。奥さんが三好春樹さんのセミナーによく行っていて、僕も三好さんを知ったんですけど、三好さんの本に「あなたが始めるデイサービス」っていう本があって、それを読んだら「できるのかな、やってみようかな」っていう気持ちになりました。奥さんも「やりたいことやれば?」という感じで。でも、うちの両親は反対だったのです。一人目の子どもが生まれていたし、働いていればちゃんとお給料ももらえるし、休みももらえる。

 それで、奥さんの両親に相談しました。「失敗したらどうするんだ」って怒られるかな、とも思っていたのですけれど、逆に、「やれ、やれ」って応援してくれて。それで決心がつきました。会社の上司は「独立なんて! ハッハッハ!」って笑っていたんですよ。

 そのころ、僕はフロアのリーダーでした。人も少なかったので、「せめて夜勤だけでもやってくれ」と言われ、夜勤だけやりながら、松戸にある「ひぐらしの家」という宅老所の先駆的なところに、バイトに通って独立のための勉強をしていました。そこには、普通の家に、おじいちゃん、おばあちゃん、子どもがいて、日課がなくて、笑いながら過ごしている空間があって。「これだ!」と思って、ますます立ち上げようと思いました。

 何度も書類を直しながら法人を立ち上げて、2006年(平成18年)に民家型デイサービス「いしいさん家」が始まったんです。立ち上げてダメだったとしても、働き口はあるだろうし、やらないで後悔をするんだったら、やって後悔したほうがいいかなって。根拠のない自信みたいなものもありましたね。老健での経験もあったし、間違ったことはしていないって言える自信。