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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第37回 トップセールスマンから起業後、妻の遺志を継いで介護職へ 
「家族を託せる」介護施設を起業したい

近藤日出斗さん(62歳)
ケア・ウィング(東京・赤羽) ホームヘルパー

取材:進藤美恵子

先輩が私を道端で見つけた

 大学卒業と同時に一部上場の住宅や建材などを扱う会社に就職し、入社式では答辞を読み上げました。横浜に配属され、三重県出身の私は「関西の人間が関東の人間に負けるわけがない。一番になってやる」とちょっと生意気な面がありました。40年ほど前のことですね。

 業務はプレハブの住宅をセールスする仕事でした。1年目に営業成績が認められ、全国でトップセールスマンとして表彰されました。さらに、業界でもベスト10に入った。週刊誌や新聞社のインタビューを受けるなど、非常についているスタートでした。

 なんで僕みたいな人間から家を買ってもらえるのか、どうして依頼されるのかを考えた時期もあった。やっぱり、話し方にあるのかな。関西の人間の話し方はやわらかいのかな。お伊勢さんを身近に育った三重県のよさが出ているんじゃないかと思う。今は、生まれ故郷に感謝しています。

 それからまもなくしてオイルショックが起こり、会社は史上最大の倒産をしました。当時、結婚したい相手がいたので、別の会社に転職して九州に転勤となりました。そこでも営業職でしたが、お客様のところに1年間訪問し続けても仕事はゼロだった。そんな屈辱的なことは初めてでした。もう、責任を取って辞めようと思い、お客様のところに挨拶に行ったんです。そうしたら発注をしてくれたんです。そのときは嬉しくて泣きましたね。

 そこで3年ほど営業をした後、東京に転勤になりました。東京駅の近くを歩いているときに、新卒で入社した会社のときの先輩が私を道端で見つけたんです。本当に偶然でした。その女性の先輩は、「銀行で不動産を扱える人を探しているけど、どう?」って。ステップアップもしたかったのと金融機関もおもしろいと思い、面接を受けたら採用され、信託銀行の不動産部門に転職しました。

 銀行での営業は、どこに行っても社名をバックボーンに、あれよあれよと話が進み、銀行からの提案ならすべてが正論になってしまう。楽に仕事が取れ、気づいたら同僚たちの3倍の成績を上げていた。時代はバブル景気に突入していました。そこでは、支店長、人事部長となった。

 その後、不況によるリストラを進める立場になり、嫌になってきちゃいましてね。「人を切るのは、お前、何様か」と。株式会社で社長をやっても、サラリーマンです。社員がいなくても、自分で立ち上げれば社長です。それで、銀行を辞めて、不動産屋を起業したんです。12年くらい前です。その頃に女房ががんになったんです。女房についていてあげたかったし、サラリーマンを辞めたことで、女房の死に目を看取ることができました。

ご家族の方でも、資格や経験のない人は触らないでください

 13年くらい前かな。女房から「ホームヘルパーの資格を取りたいから介護の学校に行きたい」と相談があったんです。理由を聞いたら、私は男3人兄弟の末っ子なんですが、「お母さんの面倒を見たい。お兄さんたちいるけど、いいかな」って。三重県の田舎に母が一人でいましてね、それがきっかけでうちの女房は1年くらいかけてホームヘルパー1級の資格を取りました。当時は難しかったみたいです。ところが、資格を取った後に女房はがんになりまして、亡くなってしまったんです。

 私が荷物の整理をしていたら、一生懸命書いた日記が出てきたんです。「少しでも上手になって、お母さんに楽をさせてあげたい」って。私の母親に対して僕はそんなこと考えたこともなかった。女房が考えてくれていたんだと、その想いに浸る間もなく、2人の兄もがんで亡くなり、兄弟も女房もみんなパタパタって死んでいったんです。そんな中、私も、ホームヘルパーをやってみようかなと思いました。

 そうこうしているうちに、母が倒れまして。東京から1か月に1回、泊まりがけで三重県の四日市市まで4年間くらい通いました。身内は私だけだったものですから、母を看病したいという思いで通い続けました。ところが、母の入所している施設の方から、「ご家族の方でも、資格や経験のない人は触らないでください」と。それで資格を取ったら、母の面倒を見てあげることもできる。それで、資格を取ることになった。

こんなに喜ばれる仕事は、本当に幸せです

 ホームヘルパーの研修を受けに行ったら、60代の方が3人いました。60代でもできるという自信を持つことができました。昨年8月の資格取得後、すぐにケア・ウィングに就職して9月から訪問介護をスタートしました。ホームヘルパーになったきっかけは女房の遺志もありましたし、15年もしたら自分が受ける側になるんだから、介護する側の大変さを経験して、かわいい年寄りになりたい。感謝する気持ちというんですか、それもあります。

 ホームヘルパーをしていると、自分がすごく若くなります。利用者は80代から90代なので、60代の私は子どもなんですね。私には孫が3人いて、孫からはおじいちゃんですが、現場では「近藤さん、若い方にすみませんね。よろしくお願いします」と丁寧にしてくれて、まだ若いんだって思います。話をするのも非常に楽しいし、怒り出す人もおられますけど、お年寄りの方は常識というんですか、経験がおありですから、私たちのことをとても大事にしてくれます。だから、介護が楽しいんです。「あら、来てくれたの」って、待ってくれている。介護っていう仕事ほど、みんなを幸せにする仕事はないなって思う。待ってくれる人がいるんです。

 紙おむつをはいたことはありますか? 私は、自分ではいてみました。小は何とか出せますが、大は勇気がいるんです。頼む側も、やっぱり勇気がいるんですね。介護する側では、排泄に対して抵抗のある方も多いかもしれません。実は、私たちが知っているうんちと紙おむつの中にある「宝物」、私は宝物と言っていますが、うんちと宝物は違うものなんです。利用者は薬をたいがい飲まされています。便の色が違うんです。便秘になって下剤を飲んでいるから、水便です。それと出たばっかりのものはバイ菌の繁殖も少なく、きれいなはずですから、私は抵抗がありませんでした。

 初めての利用者の方には、「近藤です。よろしく」と元気よく声をかけます。おむつをしている人には、「黄金を隠していますね、黄金を」と声をかけると、「これは黄金か」と反応してくれます。「黄金ですよ。見せてください」って。冗談交じりに言うと、「そんなに見たけりゃいいよ」って。パーッとめくって、「あったー。うれしーい」って声に出すんです。すると「変わっているな、君は」って。でも黄金ですよね、有機栽培になるわけですから。でも、こんなに喜ばれる仕事は、本当に幸せです。

 これまでの営業職で培った、対話によるコミュニケーションや共感すること、全てに対して押し売りをしないことは介護でも同じことです。よく、「頑張りましょうね」と声をかけてしまいがちですが、お年寄りに頑張りましょうって言わなくても、すでに頑張っているんです。頑張っているから、薬を飲んでいるんです。

介護業界に足りないのは、人の使い方です

 今、疑問に思っているのは、介護職の人はどうして離職率が高いんだろうっていうこと。私は勤め先を選ぶときに10社くらい電話をしたり、訪問したりしました。でも、どこもピーンとこないんです。その中で、今の会社は、待遇がいいし、全社員の笑顔がいい、みんな若いんです。これはいい、ここだったら勉強できる。その後にステップアップしようと思ったんです。でも、だんだん介護の奥が深いことに気づいてしまって、慣れてくると変な気持ちが蝕んできます。自分なりにこの業界のいいところと悪いところ、改善の必要なところを自分なりに整理しています。

 介護業界の方たちにお叱りを受けるかもしれませんが、介護は決して重労働ではないんですね。この数か月の間に4人辞めるのを目の当たりにしましたが、辞めるなんて考え方が甘いのではないかと思いましてね。介護する側ではなくて、使う側からホームヘルパーの仲間たちをチェックしてみました。みんな会社が嫌で辞めてしまっているのが多いんです。

 例えばセールスだったら、モノを売るのは非常に難しいんです。それに比べて介護はそんなに難しい業界ではないと思うんです。ただ、やさしさといたわり、そしていつかは自身も利用する側になるという考えがあれば、給料の高い安いは別として、できると思います。私が感じたのは、会社はホームヘルパーや社員に対する思いやりがないということなんです。「やるのが当たり前」という対応の仕方なんですね。ホームヘルパーが事務所に戻ったときに、「お疲れ」と口先では言います。しかし、その一方で、「どんな問題がありました?」などと、情報を共有していないんです。非常に組織運営に疎いように感じます。これでは担い手のいい人材が育たない状態です。

 介護業界にはおもしろい人がいっぱいいます。介護業界に足りないのは、人の使い方です。みんな介護技術の習得については一生懸命だけど、そこにばかり目が行き過ぎている。利用者だけをケアするのではなくて、社員やホームヘルパーに対する事業所のケアが大事です。ため息が出るくらい、寂しい業界です。働いている人たちも可哀そう。なんで利用者ばかりに目が行き過ぎてしまって、一緒に働いている同僚に目が行かないのか。

 介護の仕事を始めてわかったことは、人間に能力の差はないということ。やる気の問題なんですね。大切なのは職場の雰囲気やかけ声なんです。気配りではなく、心配りです。だから、それに我々は気づくべきでしょうね。

 次のステップとして、ケアマネジャーからも「あそこの事業所なら」と一目置かれ、社員を辞めさせない環境の介護事業所を立ち上げたいと目論んでいます。ホームヘルパーがコロコロ変わってしまっては、その人に必要な細かなケアが忘れられてしまうこともあります。利用者にも安心していただけるよう、馴染みのホームヘルパーで末永く対応できたらと考えています。

 今までの仕事とは大きく毛色の違う仕事に就いて、何で介護の仕事なのかって聞かれたら、人生やり残したことと、大切な人が志半ばで亡くなっていった・・、それを仕上げたいんです。そして、喜んでもらえる仕事がしたいんです。

 今年、初めて箱根駅伝を見に行きました。嬉しくて、娘や孫と写真を撮りました。写真に映った自分の顔を見て、こんなに齢を取っちゃったんだなって。人間というものは、あっというまに歳を取るんですね。

インタビュー感想

 二人のお兄さんと奥様の最期を看取り、葬儀を全部執り行ったことで介護と葬儀に慣れたと淡々と話す近藤さん。そのときに関わった「看護師や葬儀屋の担当の方によって、こんなにも死に際の人生が変わるのか」という言葉が印象的でした。元気なときには気づかない、家族や周りの人への接し方を考えさせられる言葉でした。あらためて、取材もまた、人生修行でもあると実感しました。

【久田恵の眼】
 人生の山や谷を越えてきた男性が、親の介護体験を経たうえで、60代で資格を取得して介護職に就き、事業所の立ち上げへと向かっていく。このような生き方をする人が登場しているということは、まさに、みんなでこの国の介護を支えて行く時代へと入っていく、との実感を与えてくれますね。
 これからは、老いてなお元気な人は、年齢を超え、家族を越え、支える側へと回らねばならない時代がくると思います。その過程で、私たちは新しい介護観、地域観、共同体としての社会観を手に入れていくことになるだろうと思います。
 「みんなで介護」時代、頑張りたいですね。