介護職に就いた私の理由(わけ)
さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。
花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/
- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第30回 失踪していた父と再開した病室で訪れた転機
仕事として、介護の仕事を選びました
高松豊治さん(62歳)
テルウェル東日本 品川介護センタ 介護福祉士(東京・品川区)
取材:進藤美恵子
余命半年と宣告された父
トーキー映画の時代に向島撮影所を持っていた祖父、映画館の支配人をしていた親父という環境で育った。ところが、僕が生まれた頃には撮影所の倒産により貧しかった。6畳に5人家族で暮らしていた。同じアパートには、傘を修理する人や屋台のおでん屋さんがいたり、貧しい人が多かった。その中で、僕は特別扱いされていた。ニッコリすると、お菓子をもらえるとか、どこに行っても特別扱いされたんですね。
そこでは大人はみんな仕事をしている顔が下向きなんです。そんな頃、萬屋錦之介が織田信長を演じていた映画を親父が見せてくれた。空抜きの(空を背景にした)笑顔が映っていたんです。それを見て、「人間ってこんな顔をするんだって」。当時は下向きの生活しか知らない小学生だった私に衝撃でした。父からは「爺さんの時代は日本に4台しかない車があった」という話を聞かされていたが、そんな夢みたいなことより、僕の中で「空抜きの笑顔の仕事をしたいな」と思うようになって。そこから役者を目指して文学座養成所に入り、念願がかない、役者として芝居を続けてきた。
ちょっと恥ずかしい話なんだけれど、親父が借金から失踪していたことがあって。ちょうど僕が50歳の頃かな。二度目の失踪から5年くらい経ったある日、親父の友人を介して「今、病院に入院している。余命半年と宣告されている」という電話が入ったんです。それで、とりあえず病院に行って。その後、僕はその病院に週5日は行くようになっていた。ただ通うことしかできなくて、何をしたらいいのかもわからない。
その頃、芝居の仕事もうまくいかず、離婚もしていてけっこう困窮していたんです。見舞いにも行かなければならないから、芝居の合間にしていたアルバイトもままならなくて。父に何かを買って行くには自分が1食抜くしかなかった。でも、何か買って行ってあげたくって。買って何かを持っていくことしかできないじゃないですか。それしか思いつかなかった。父の好きな「すあま」(餅菓子)を2つ持って通いました。
そんなとき、親父と同じ集中治療室にお婆ちゃんがいたんです。そのお婆ちゃんはいつも、「ちょっと」、「ちょっと」って言っているんですね。ナースステーションに行くにはその病室を通らなければ行かれない構造になっていたんです。でも、看護婦さんは素通りなんですよ、ずっと。お婆ちゃんのベッドに顔を向けることもなく。それをずっと見ていて、何日もその様子を見ていると、「えー」っていう思いが募って。親父を見舞った後にお婆ちゃんのところに行って、「どうしたの?」って聞いたら、「うん、うん」って何を言うわけでもないんだけど。そばに行っても話すわけではなかった。だけど、僕も毎日行っているから、親父を見舞った帰りにお婆ちゃんのところに行って、声をかけるのが日課になったんです。
でも親父が、「いいんだよ、そんなことしなくて」って言ったんですね。なんかその言葉に憤りを感じて。この人は何を言っているんだろう。失踪したまま、どれだけ人に迷惑かけて、今すぐそばにそういう人がいる中で自分がそこにいるのに何を考えているんだろうって。自分の父親だけど恥ずかしいっていうか。「でも、俺行くから」って、ずっと続けたんです。
そうしたらあるとき、お婆ちゃんが「ダメ」っていうんですよ。「何もダメじゃないよ。言ってみて。大丈夫だから」って言ったら、「好き」って言って布団をかぶって顔を隠したんです。そのときに、何もしていないのに…。可愛い仕草にすっごい衝撃を受けたんです。僕はそれまで何もできなくて、自分を責めていた。満足に親父が望むようなものを買って行ってあげられない。普通の人がしているようなことができない。たいしたものも持って行ってやれない、それ以外に何をしたらいいのかもわからない。でも、精一杯だった。貧しいと思考が狭いんだね。自分に対して、すごく責める気持ちで一杯だった。
本当にお互いに納得して「ありがとう」って言えるのは介護の仕事しかないんじゃないか
そういうときに、そのお婆ちゃんに言われたのはすごい衝撃で、「そんなことないよ。ありがとう」って言ったんだけど、なんだろう、僕自身がすごく救われた。そうしているうちに看護婦さんが「どうしたの~」って声をかけるようになっていた。声をかけるだけじゃなくて、ベッドの枕元にも行ってくれるようになった。それで、ある意味、自分の役目は終わりだなと。そのときに思ったのは、看病することは、技術がなくてもできることがあるのかなと。そして、自分に今足りないものは、その技術、知識だ。じゃあ、それを勉強しようと思った。それが介護ヘルパーへのスタートです。
以前から介護ヘルパーの仕事をしていて、僕にもどうかと勧めてくれていた叔母の話を思い出して、お金を貯めて毎週日曜日の講座を受講してヘルパーになった。実際にヘルパーの仕事を始めたら、資本主義が生み出した最高の仕事だなと思った。お金は動くけれど、ものを売ったり買ったりしたときに言う「ありがとう」とは違う、本当にお互いに納得して「ありがとう」って言えるのは介護の仕事しかないんじゃないかと感じた。僕は訪問介護から入ったので、反応が直で返ってくるんです。すごい仕事だなって。続けているうちに、次第に潮が引くように芝居の仕事を辞めていた。
この仕事って、すぐ人非人になっちゃうんです
ただ、介護の仕事は「可哀そう」って発想から始まっちゃうと、すごい間違いなんです。僕は、仕事として選んだんですね。可哀そうから始まるとある意味、見下しなんだよね。介護理念で謳っているように、ケアマネも自分もヘルパーも医者も同等でないと本当の介護ってできない。介護職を10年やってきて、現状がそれと程遠いのはわかっている。けれども、自分の生き方として、今、自分ができることはどこまでできるのか。それに尽きるんです。それを自分の課題として持たないと、この仕事ってすぐ人非人になっちゃうんです。介護の仕事をしながら、いきなり人非人に落ちちゃうから、その緊張感は今も持っている。
東日本大震災の後に地区の会議に行ったら、議題の中に安否確認があった。確認で訪問する人は看護婦さんであったりヘルパーであったり…。そのとき、看護婦さんが確認してその後にヘルパーさんが確認するのは「効率が悪い」と言う人がいた。なんで訪問しに行くのかというと、その状況を生死を確認しに行くのであって、本来は1回でいいってものではない。高齢者というのは、そのときに大丈夫でもその後に変わることもある。だから、何度も確認をしたいところだけど、「申し訳ないけど1回ですみません」というのが本来の形。それに、事業者が関わっている場合、1回は行かなければならない、義務化されているから。いわゆる、義務だけでやっているのか、それを平気で言える。地区の行政の管理者の集まりで平気で言えるということ自体、何だこれって。効率よく行うことだけがプロに見える。この構図は、組織づくりができていないってことを明白に示していると思う。
この仕事を選んだ以上は、絶対、本当の物にしないといけないと思っている
介護の仕事っていうのは、ここで終わりというのはない。今、現場で感じている問題は、自己主張の強い利用者が出てきているということ。これまでの利用者とは年代によって育ってきた環境も違うんですね、層が変わってきている。これまでなら人にものを頼むのは申し訳ないから自分でやろうという意欲はあった。でも、今は介護保険料を払っているのだから、してもらって当たり前という人も。それぐらいに思っている人もいます。「利用者=お客様」は、福祉の理念を蝕ばむかもしれません。
自分の中では制度はパイプのようで、そのパイプの中を流れる血が自分たちの仕事だと思っている。それを温かいものにするか、冷たいものにするかは自分たち次第だと思う。介護制度には必ず制約がついてくる。それを利用者に早い段階で、どれだけ制約があるかということを認識してもらえるかどうかが必要で、それによって介護の質も変わってきます。
生活支援は、結構複雑です。例えば、照明の笠を拭いてはいけない。でも、高齢者にはほこりがよくない。「玄関やトイレはきれいにしないといけない」と小さい頃からしつけを受けている高齢者にとって、体調が悪いときでも掃除をして玄関はきれいにしておきたい。そういう生活を送ってきているわけじゃないですか。“その人に沿った”と言っておきながら沿っていない。独居住まいで、喘息がある生活保護者には、解決するにはボランティアに頼るしかない。ほこりを放置して、利用者が病気になったときに肺炎を起こして喘息の発作で苦しんでいるようなことがあったら、罪悪感に陥ってしまうと思う。自費ですればいいのですが、そのお金を工面できない人もいますから。
今、この仕事を選んだ以上は、絶対、本物にしないといけないと思っている。現実に向かうと葛藤はいろいろあります。でも介護の仕事は一生懸命、誠実に向き合えば返ってくるものが絶対にあります。それは僕の中で何度も経験していて、日々利用者に救われる毎日です。長い時間がかかっても、やり続け、思い続けることが大事と心から思います。始めるときは、いまです。いまできることは必ずあります。
インタビュー感想
幼少の頃、夢中になると限度知らずだったという高松さん。田んぼでドジョウを取るのが面白くて、気づいたときにはたんぼ一反を全部掘り起こしていたというエピソードも。子どもの頃に絵を描いたとき、それを見た父親から「ものは一つの方向から見るもんじゃない」とボソッと諭されたことも。正面からしか得られないイメージとは違ういくつもの窓口のあることを教えてくれた父の言葉に感謝しているそう。言葉の端々からは介護への強い思いが発せられ、圧倒されることも。でも、常に温かな眼差しが印象的でした。
- 【久田恵の眼】
- 介護は、「優しくない自分」に時として直面させられてしまう仕事です。優しい人であればあるほど、そのことに苦しみます。自罰的になって傷つき、落ち込んだりします。人は、遠くにいる人にやさしく思いをはせることはできても、ほんの傍らにいる人に思いやりを持って接することは難しいものです。それが自然にできる人は、人としての力量がある、ということです。そういう意味において、介護の現場は「人が人であるための修行」の場でもあるなあ、と思います。高松さんの「すぐ人非人になっちゃう仕事だから」という言葉は深いですね。体験から生まれた「介護哲学」のように思います。自分の中に固有の価値観をきちんと持って、生きている人は、素敵だなあ、と思います。