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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第29回 年子3人を抱え大奮闘の看護師から人生の伴走者としてのケアマネまで 
チャレンジし続けた私の50年

村上美惠子さん(67歳)
H&Lケア研究所(東京・墨田区)

取材:藤山フジコ

働きながら看護師の資格を取得しました

 高校を卒業して、18歳で茨城から単身上京しました。子どもの頃から身体が弱く、東京へ行くことを両親が心配していたので高校の担任と相談し、東京のお医者様の家に看護助手として住み込みで働くことになったんです。親には「家付き、医者付き、飯付き」ということで(笑)、安心してもらいました。そこで働きながら、慶応の通信講座で勉強しました。スクリーニングに行っているときに女子医大の看護学校の先生と出会い、その縁で1年後に看護助手として女子医大の寮に入りました。それから3年後に、看護短大がちょうどできたんですね。それで受験し直して、看護短大へ入学しました。奨学生だったので、勉強しながらお金を貯めました。

 20歳の頃からお付き合いしている人がいたんです。双方とも苦学生でお金もなかったのですが、「だったら、何もないときに結婚しちゃえ!」って、24歳で学生結婚しました。無謀でしたが、何もないことがかえって強いっていうか。それで学生結婚をして、働きながら看護師の資格を取得しました。

子どもを3人育てながら働き続けました

 自分の身体が弱かったので、つらい人の気持ちがわかるというか、それが看護師になりたかった原点ですね。それからずっと共働きで、看護師の仕事をしながら年子の子どもを3人育てました。子どもが0歳、1歳、2歳のときは、哺乳瓶を3本用意して、一人をおんぶ、二人を抱っこして、鉄腕オバサンに変貌しました(笑)。はじめは女子医大で勤務していたのですが、夫の仕事の都合で通いきれなくなり、保育室のある企業病院に移りました。

 子どもが3人もいると、誰かがすぐ熱を出すのです。一人病気になると、日勤を夜勤に交代してもらい、夜中の12時から夜勤に出て、朝の8時半の交代の時間になると、夫が病気の子どもを勤め先の病院玄関まで連れて来る。その子を引き取って小児科で一番で診てもらい、帰宅して一緒に眠る。綱渡りのような毎日で、家の中はいつも3人のおむつでシャンデリア状態。あまりに毎日忙しく、泥の中で眠るようでしたね。

 看護師として10年頑張り、夫が独立するので、その仕事を手伝うため、病院を退職しました。当時、子育てしながら働く看護師は少なく、職場の理解もない中、私が子どもを3人育てながら働き続けたことで、若い後輩たちで子どもを産む人が次々と増えました。

 独立した夫は、業務用の厨房を扱う会社を立ち上げました。私は会社の事務をやったり、夫婦で脚立を立てて、何十キロもあるフードを吊ったり。業務用厨房の仕事は、お店のガスを落として冷めてからでないと工事ができないんですね。子どもを寝かしつけて、夜中の1時から明け方の4時、5時まで仕事して家に戻り、朝食を作って子どもを学校に送り出す――、こんな生活を続け、やっと事務員さんを雇う余裕が出てきたとき、夫の補佐だけでは飽き足らず、下着の代理店を始めました。

 代理店の仕事は、華やかで世界がまるっきり違いました。最終的には200人の人の上に立つまでになりました。でも、このような場所にいると、人生観が狂ってくる人もたくさん出てくるんですよ。自分の成績のために人を騙すような人もいたり。10年続けましたが、「ああ、この世界にはいたくないな・・」と。

介護保険前夜

 そんな矢先、川崎で介護保険準備室を設置するため、非常勤の公務員を募集していたんです。募集を見て心が動き「やっぱり私、この世界が好きなんだ」と思い、応募して勤めることになりました。この仕事は、今まで介護を受けていた人を介護保険制度に適用するための調査なんです。

 現実には、それまで介護サービスを受けていた人は、認定を受けるとサービス量が半分以下に下がるんですね。毎日、苦情の電話で、課長さんは胃薬飲んで仕事していました。介護保険制度が理解されずに、「生命保険に入っているからいらない」とか、玄関払いはしょっちゅうで。説明会をしても人が来ない。

 だから、私はこの時代のことを「介護保険前夜」と言ってるんです。大変でしたが、ゼロからシステムを構築していく仕事は楽しかったです。

御用聞きのプランナーではダメなんです

 その後、さまざまな介護事業所を立ち上げる仕事にもかかわり、医療秘書・介護専門学校の教員とケアマネジャーの二足のわらじで働き始めました。専門学校は65歳の定年まで勤め上げました。介護保険が始まったとき、私の中でこれは在宅のホスピスだと思ったの。つまり、終末期を在宅で過ごす人をつくるようにしなくてならないと。一般病棟では現場が忙しすぎて、ゆっくり話を聞いてあげる時間もない。ケアマネはそれができるかもしれないと思ったんですね。

 看護師時代、仲のよい患者さんが末期のがんだったんです。売店なんかで会うと「村上さん、たまには顔を見に来て」と言われて、「今度行くね」と言っていながら仕事が忙しく、病棟も違うこともあって会いに行くことができないまま、その方は亡くなったんです。そのことが申し訳なく、今でも心が痛みます。看護師の仕事というのは、患者さんのそばにいること。それができなかった後悔があって、最後の時間を一緒に過ごせるホスピスに勤めたいとずっと思っていたのね。この仕事に就いた原点は、その患者さんとの悲しい思い出なんです。

 今は、介護職の頂点がケアマネという人が増え、それに安住して勉強をしない。ケアマネの仕事って、利用者さんの最後の人生の伴走者だと思うんです。その方が最後のテープを切るまで後ろを走りながら、応援したり、ちょっと速度を緩めたりしながらゴールする。ゴールは、つまり死を意味しますが、最後の伴走者として選んでいただいたことに感謝しなければいけない。御用聞きのプランナーではダメなんです。看護師時代、患者さんの苦しみに応えられなかった反省や後悔が私を動かし、エネルギーを維持させる原動力となっていると思います。

 2006(平成18)年の介護保険の法改正で、サービスをどんどんカットしなければならず、利用者からは「今まで優しかったケアマネさんが急に冷たくなった」といわれることが多くなりました。利用者さんはケアマネのせいだと責めて、ストレスでケアマネの多くが辞めていったのです。私は最初から利用者さんには、「介護保険は1割負担ではなく、9割引きのサービスを受けているのですよ。その9割は皆の税金でまかなっているんですよ」と説明します。「だから、孫や子どもたちのために無駄なサービスはやめようね」と。こう話せば、皆さん理解してくれます。いらないサービスを無駄に付けず、利用者さんの状態に合わせて必要なものを選択し、その方の自立を促すことがケアマネの仕事だと思います。

 難病だった一番下の子どもが、自分と同じ道を志し、介護職に就いたとき、私も、もう一度学び直したいと思い、61歳で国際医療福祉大学大学院へ入学しました。入っていた保険が満期になったの(笑)。「老後に蓄えるより、リフレッシュして自分に投資しよう!」と。63歳で修士を取得し、卒業しました。15年ケアマネをしてきましたが、75歳まで続けたい。死ぬまでチャレンジしないとね。さまざまな世界を経験しましたが、無駄はなかったなと実感しています。今後の夢は、「元気な高齢者を要介護にしない」ことです。現在、その夢に向かって「健康生きがいづくり東京都連絡協議会(健生都)」のメンバーとして今年の春から取り組む予定です。

ナースだったころの村上さん(左端)

インタビュー感想

 快活でバイタリティーあふれる村上さんは、さまざまなお仕事をしてこられましたが、どの職場でも人望が厚く、そのことが、今ライフワークとして活動されている「がん哲学外来」や「浅草緩和ケアネットワーク」の活動につながっているのだと思います。その他、介護支援専門員や東京都第三者評価者などでも活躍されています。
 常に、新薬の情報収集や病院にも足を運び、まさに医療と介護をつなぐスペシャリスト。「ケアマネジャーは利用者さんの、最後の伴走者」という言葉に感動しました。一緒にゴールを切った(亡くなられた)利用者さんのご家族とも、その後もずっとお付き合いが続いておられるそうで、村上さんのような高い志を持ったケアマネジャーさんがたくさん増えていくと、介護の世界も明るいものになるのではと思いました。

【久田恵の眼】
 介護の現場を取材していると、目を見張りたくなるような「辣腕(らつわん)の人」によく出会います。高い志とそれを実践できるスキル、そして持続するエネルギー。そういう方は、自力で自分の人生をどんどん切り開いていきます。むろん、誰もがそれを真似できるわけではありませんが、介護分野の世界は、少なくとも、まだまだ開拓されていく余地がたくさんあり、志を実現でき得る場所であるという思いを常に、新たに、させられますね。