介護職に就いた私の理由(わけ)
さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。
花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/
- プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ) -
北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。
第25回 故郷に戻ってホテルウーマンに、そして介護職へ
神脇エイ子さん(68歳)
宮崎県小林市・グループホーム風の丘 施設介護主任
取材:久田 恵
ヘルパーをやらないと気がすまなくなっちゃって、
この仕事を始めたのです
結婚して、私は鹿児島に住んでいました。
そして、数年後に夫を病気で亡くしました。まだ40代で、私は専業主婦。働いていませんでした。でも、これからは働かねばならないと、就学前の幼い娘二人を連れて故郷の宮崎県小林市に戻ってきたのです。こちらに親がいましたから。それからはもうさまざまな仕事をしました。最終的には、地元のホテルに勤め、ホテルウーマンになりました。
介護保険制度が施行されたのが15年ほど前です。当時、私は53歳で、まだ頑張ってホテルで働き続けていましたが、友人から「ヘルパーの資格を取ったら?」と勧められたんです。「ずっと、年をとっても働いて、自力でご飯を食べていくには、やっぱりね、資格を取ったほうがいいよ」って。娘たちもいずれ、自立していきます。一人になっても、私は働いて頑張っていかねばなりませんから。
当時、父が膀胱がんになり、その世話を下の娘と二人でやってもいたのです。
病院へ行く前日のことです。父が「お風呂に入りたくない、痛い、痛い」というのを、無理にお風呂場に連れて行ったのです。翌日、病院で検査をしたら、即入院になるほどがんが広がっていて、「これでは、痛がったでしょう」と言われたのです。「ああ、そうだったのか」と、娘と大泣きしました。父が88歳のときです。
そういうことがあって、ヘルパーの資格を取得していたら、父の状態も気持ちもわかってあげられたかもしれないという強い反省があったんです。でも、資格を取りに行っている途中で、父が亡くなってしまいました。
「ああ、父のために役立てようと思ったのに・・」と、ずっと気持ちがモヤモヤしていました。モヤモヤが解決できずについにホテルを辞めて、ヘルパーをやらないと気がすまなくなり、友人の勧めでこの仕事を始めたのです。
当時、訪問介護をやっていたのですが、利用者さんたちのために自分が何をできるんだろうと思っていて・・。事業所からは、あまり相手の方に入り込まないようにと言われていたけれど、時間だからと言って、放って帰れるものではないし。「なんか、これ違うよな、私の思っているのと違うよなあ」と思い続けていたのです。
相手の方が、本当に望んでいることを
ちゃんとしてあげられる事業所を作る!
そんなとき、現社長のお父様の介護が必要になり、私に「父の介護をお願いしたい」と事業所を通して依頼があったのです。「ハイ、ハイ」、と言って通っていたら、当時、利用者さんの家族である社長がいきなり言い出したのです。
「こういう介護の仕事をする事業を立ち上げたいんだ」と。
ちょうど、社長が介護に直面しているときでしたし、仕事を始めるときに掲げたのは、「家族のような施設を作ろう」という実感のこもったものでした。
実は、この社長家族とは、子どもの学校のPTA仲間なのです。家族ぐるみでずっとお付き合いしていた間柄なんです。
それで、私は言ったのですよ。「素人にできる仕事かしら?」って。「素人が簡単にお金儲けのためにやるのだったらやめといたほうがいいんじゃないの」って。PTAでいろいろと言い合っていたので、ハッキリと伝えました。そのとき、私は、別事業所の訪問介護をしていて、日頃感じていることを洗いざらい言ったのです。「今やっているのは、私が考えている介護とは違うのよ!」って。「相手の方が、本当に望んでいることをちゃんとしてあげられるような介護をしたいのよ!」って。
「よし、じゃあ、そういう事業所を作る!」って、社長が言ってくださり、「ほんとう?」と何度も聞き返しました。それで、「だったら、あなたが来てくれないとね」と説得されたんですよねえ。でも、知り合いのところで働くのは・・、と迷いました。なかなか返事ができなかったです。仲間なら、平気で言いたいことを言えるけれど、雇い主と雇われる人、上司と部下という関係になれば、自分の思いをぶつけられなくなり、つらい。かなり悩みました。
それでも、「どうしてもやりたい!」という情熱が社長からビシビシ伝わってくるんです。なのに、しつこく「本当に利用者さんのためになる介護をするつもりですか?」とか、「スタッフが働きやすい職場にするよう貢献してくれるんですか?」と聞いてね、「もちろんだよ」と社長が言うので、ついに決心したんです。1年はかかりました。
やっぱり、スタッフが上になんでも言える関係がないと、事業所も発展していかないです。頭ごなしに言われても無理だし、私みたいな遠慮なくガンガンものを言うのがいたほうがいいのかな、と。社長たちも私がこういう性格だということをほんとに理解した上で声をかけてくれたに違いないと思ったんです。
社長たちってね、奥さんもですけど、同じ事業所の有料老人ホームで働いておられますから、気持ちがみんな通じ合っていますね。
社長夫妻は、まず訪問介護から始め、次に有料老人ホームを建てられて、二つ目のホームも立ち上げました。そのたびに、私はそこに行って仕事をしました。ただ、腰を2度も疲労骨折して、もう力のいる介護はできなくなりましたが、グループホーム「風の丘」の立ち上げと同時に、ここに来ています。
「家族のような介護」と言っても、言葉で言うほど簡単ではないです。
今、事業所の全施設で利用者さんが50名。職員が40名います。社長ご夫婦の思いである「みなさん、『自分の親だったらどうでしょう』、『家族だったらどうでしょう』、『今の介護の仕方で十分ですか』」という問いかけをしながら、介護をしましょう」と、みんなで力を合わせてやっているところです。
利用者さんが主人公、私たちは脇役
小林市には、多くの老人ホームがあります。でも、まだまだ足りない状況です。子どもは、故郷を出て行ってなかなか帰ってきませんし、親と同居もしなくなりました。訪問介護をして訪問先の利用者さんの声を聴く機会がありました。涙が出るような話がいろいろあり、切ない気持ちで帰ってきたものです。そんな切ない話は聞かなくてすむように、もっともっと笑顔になってもらいたいと思いました。でも、その体験のおかげで高齢者の本音ってこうなんだ、実際はこういう気持ちでいられるんだ、ということを知りました。
このホームにいても、自分の気持ちを内に秘めておられる人もいらっしゃるのではないかと気になります。いろいろ話しても、最初は、「ええ、そうねえ、そうねえ」と聞いているだけですが、だんだんと自分のことを話してくれるようになります。聞いてあげるって、とっても大事なことなのですが、時間に追われてなかなか聞いてあげられないので、せめて、ゆっくりと散歩しながらでも、耳を傾けてあげることが必要だと切実に思いますね。
それから、ここでは常に利用者さんが主人公、それを絶対に忘れてはいけないと思っています。本の読み聞かせや紙芝居なんかもね、ここでは、私たちが読んで聞かせるだけじゃなくて、読んでもらったり、私たちが聞き役をやったりしています。すると、「あの方もやるなら、私もやってみようかな」になるし、「耳の聞こえにくい方がいるから」と言えば、大きな声を出して頑張って読んでくれます。それを、「うん、うん」とみんなで一生懸命に聞くんです。
ここでの主人公は、9人の利用者さんで、私たちが脇役になるようスタッフも努力しています。
それと、私はね、してはいけないということをぜひしてもらいたいと思う人なの。
たとえば包丁持って、ケガをされたら大変だからとか、そういうことをこちらが言うのって、失礼じゃないかと思ってしまうんです。こちらの都合で、やりたいことをやらせないなんてことがあっていけない、と。やってみないとわからないじゃないの、と。事実、やっていただくと、大抵は見事で、こちらが学ばせてもらうことばかりです。
「高齢者はこうだ」という思い込みがあるんですよね
だから、スタッフとは、なにかと反省会をします。私は、反省をしてくれるスタッフでよかった、と思うんです。だって、思いやりがあるからこそ、反省をするんですからね。そもそも、利用者さんはいつも「ありがとう」と言ってくれるけれど、いつも、いつも「ありがとう」と言わなければならない人生というのも大変なんですよね。そういうことも考えます。
ともかく、「風の丘」のこの9人の柔らかでのどかな空気をこわすことにならないように、みなさんに「風の丘」で暮らしていることを誇りに思っていただければ、幸いです。利用者さんの笑顔が見たいんです。
季節のイベント実施依頼に対し、ほとんど社長が「良いですよ~」って言って理解を示してくれるので、できるのです。上司が駄目と言えばどんないいことだってできませんから、それはとっても有難いことだと思います。
ホテルで働いたことは、介護の仕事に本当に役立ちました
ホテルでの仕事を8年やりましたが、ついに介護の仕事も今や同じくらいやったことになりました。ホテルで働いたことは、この仕事には本当に役立ちました。まず、物おじしない。どこへ行っても大丈夫。それに接客業というのは、言葉づかいとか態度とかが大事です。いろんなお客様に対応できないといけなかったし、本当にホテル体験がこの職場で活かされています。部屋なども、きれいにベッドメイクがされて、いつ、誰が来てもお部屋がきれいできちんとしていないと、と私は思ってしまいます。きちんとしていると、利用者さんたちも気持ちがいいいですからね。気持ちもシャンとしますし。
これからも風の丘のスタッフ10名が、利用者さんの9名を守って、みんなで寄り添って支援していきます。それが、今はうまくいっているようで、私はよかったなあ、と思っています。みなさんの表情もいいです。私は、現在68歳で、いつまでこの仕事ができるかわかりませんが、必要とされているうちは、続けていく所存です。
うちの社長は、定年はなしで、「体が動ける間は働いてください」という考えを持たれています。30~70代が入り混じっている幅でやりたいって言っておられていて、利用者さんも、若い人ばかりでは話し相手になりにくい、ということもありますからね、私も頑張っていきたいと思っています。
事業所社長の吉村雄一郎氏と神脇さん
- 【久田恵の眼】
- 宮崎県の小林市の移住促進の映像
がとても面白いと今、評判です。この町のなんにもないけれど、いや、なんにもないからこそ癒される美しくものんびりとした風景が、まるでフランス語みたいな西諸弁(にしもろべん)で、紹介されています。その映像に惹かれて出かけて行ったのですが、グループホーム「風の丘」は、温かい人柄の方々が暮らす地域の雰囲気そのままの介護の場でした。
縁者が住んでいるというような関係で、遠くからこの地の介護施設に入る方もおられます。気楽に、のどかに暮らせる場が終の棲家であってほしいですが、神脇さんの「介護はありがとう、と言われる仕事ではあるけれど、ありがとう、とばかり言わななければならない方たちも大変だろうと思う」とは、なんと深くてやさしい言葉なのだろう、と思いました。