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介護職に就いた私の理由(わけ)

さまざまな事情で介護の仕事に就いた方々の人生経緯と、介護の仕事で体験したエピソードを紹介していきます。「介護の仕事に就くことで、こんなふうに人生が変わった」といった視点からご紹介することで、さまざまな経験を経た介護職が現場には必要であること、そして、それが大変意味のあることだということを、あらためて考えていただく機会としたいと考えています。
たとえば、「介護の仕事をするしかないか・・」などと消極的な気持ちでいる方がいたとしても、この連載で紹介される「介護の仕事にこそ自分を活かす術があった・・」というさまざまな事例を通して、「介護の仕事をやってみよう!」などと積極的に受け止める人が増えることを願っています。そのような介護の仕事の大変さ、面白さ、社会的意義を多くの方に理解していただけるインタビュー連載に取り組んでいきます。


花げし舎ロゴ

花げし舎ホームページ:
http://hanagesisha.jimdo.com/

プロフィール久田恵の主宰する編集プロダクション「花げし舎」チームが、各地で取材を進めていきます。
久田 恵(ひさだ めぐみ)

北海道室蘭市生まれ。1990年『フイリッピーナを愛した男たち』(文藝春秋)で、第21回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
著書に『ニッポン貧困最前線-ケースワーカーと呼ばれる人々』(文藝春秋・文庫)、『シクスティーズの日々』(朝日新聞社)など。現在、読売新聞「人生案内」の回答者、現在、産経新聞にてエッセイを連載中。

第23回 遺跡発掘調査、製品開発の仕事を経て介護職へ 
お互いが幸せを共存できる介護を目指して

冨田裕久さん(45歳)
グループホーム 高津くぬぎ園 介護士(神奈川・川崎)

取材:原口美香

お互いが幸せになるような仕事に就きたい

 実家が小売店をやっていたんです。子どものころから、人との関わり合いが苦ではなかった、というのが多少ありますね。高校卒業後は、実家の小売店を手伝っていたんですが、店を継がないことになり、20代前半のとき、遺跡発掘調査の仕事に変わりました。

 元々、歴史が好きだったんです。仕事は楽しかったですね。主に江戸時代の発掘をやっていたんですけど、昔は、石を組んで水路を作っていたんですね。現在は、そのまま壊さずに埋めちゃって、その上に新しい建物を建てている。だから、建物を取り除くと、昔の水路が残っているんです。今でいう、生活水路なので、落ちた昔のお金とか、簪(かんざし)とか、下駄とかも出てくるんです。掘って、図面を書いて写真を撮って計測して、全体図を確認する、そういうような仕事でした。今も地下鉄の溜池山王駅に、そこから出た木樋(木製の水道管)が展示してあります。

その後、その発掘の仕事で関わった人に誘われて、コンビニなどに置いてあるコピー機の開発実験の仕事に移りました。20代の後半のころです。新製品のチェックなどもあり、1000枚印刷したらどうなるとか、Aという動作の途中にBという指示を入れたら、ちゃんとAが動作するのか、というようなこともしましたね。

 34、5歳くらいのときに、これから自分が何をしていこうかと悩みました。定年後でもちゃんと働ける仕事に就きたい、相手を出し抜いたり、傷つけたりするような仕事ではなく、お互いが幸せになるような仕事に就きたいと考え始めました。それで、法律関係の仕事に就こうと決め、貯めたお金で2年間学校に通って勉強することにしたんです。その頃はすでに結婚していたんですけれど、共働きだったというのもあって、奥さんも「納得がいくようにやったら?」と後押ししてくれたんです。ずいぶん支えてもらいましたね。法律の学校に通いながら、宅建の資格も取得しました。だけど、なかなか上手くいかなくて、また違う道もあるんじゃないかと考え始めました。

いろいろな人がいるんだなと感じました

 その頃、TVのニュースで介護などの問題を知ったんです。虐待や、餓死の問題、認知症の介護疲れで無理心中してしまう、ということもありました。そういう問題をなんとかできないものか、と突き動かされました。法律の勉強もしていたので、少しは役に立てることもあるんじゃないか、そう思って介護の道に入りました。

 ハローワークでやっていた講座に応募して、実習を含めて10か月くらい通いましたね。実際に学校へ行って感じたのが、いろいろな人がいるんだな、ということでした。年齢も、過去の仕事も、性格もみんな違う。そして講師の方は、それを見事にまとめていく。人への接し方が、見ていてすごく勉強になりました。その経験も今、活きていると思います。

 実習では、デイサービス、特養、訪問介護、知的障碍者の作業所など、2か月間、いろいろなところに行きました。今はもうなくなってしまったのですが、ヘルパー1級と介護福祉士の間にある「介護職員基礎研修修了者」という資格を取得して卒業しました。

やっぱり職員が笑うことなんですよね

 それで就職を決めるときに、「一番きついところに行こう」と考えたんです。講師の方には、「仕事のきついところから降りてくるのはできるけど、上がっていくのは難しいよ」と言われたんですね。きついとか、何もわからなかったので、「一番離職率の高いところはどこですか?」と聞いたら、「老健(介護老人保健施設)」だと言われたんです。「老健は、医療的なことも含め、いろいろ学べるよ」とも教えてもらったんですね。私はいろいろなことを経験したかったので、就職先は老健にこだわりました。だけど、学校の紹介先にはなかったので、自力で見つけました。そこは、全体で120人弱の入居者さんがいて、私のフロアは60人。それを日中は8名くらいで介護していました。リハビリもあるので、分単位でスケジュールが決まっていたんです。時間内に終わらせる、というのも技術のうちの一つだと思いましたが、本当に1日があっという間でした。介護技術の基礎はすごく学ばせてもらいましたが、自分の目指す介護とは違うと思い、1年くらいで退職しました。

 グループホームというのは、利用者さんやご家族との関わり合いが濃密だという話も聞いていて、老健とはまた違ったことを経験できると思い、友人の紹介で「高津くぬぎ園」に来ました。ここに入って、入居者さんの気持ちや、ご家族の気持ちを考えて仕事をするのとしないのでは、全然違うということを感じました。前の職場ではそこまで考える余裕もなかったんです。特に認知症が進んだ方は、不安や寂しさからくるものが当然あるので、その方が安心できるように、そういうケアの仕方というのが大切だなと思います。

 ホーム長や周りの先輩方のケアの仕方は、見ていてとても勉強になります。最初は触れ合う時間が長いので、どう接していいのかと思いました。そこで、自分に置き換えたら、と考えて声をかけるようにしました。「効果的だな」と感じたのが、やっぱり職員が笑うことなんですよね。入居者さんと笑う、ということはお互いの心を溶かします。入居者さんが笑うということを引っ張り出していく。ここへきて最初に学んだことですね。

 介護する側もされる側も、いい気持ちで1日が終われたらいいかなって、それは常に思っていますね。まだ介護職について2年くらいなのですが、将来的には、在宅介護をする事業所をつくりたいと思っています。今は介護職ですが、介護職と利用者さんの間に立つ事業所、それが私の理想です。だからいろいろ経験を積んでいきたいんですね。両方とも幸せの共存ができるように、そういう介護を目指したいと思います。

尊敬するホーム長と。

インタビュー感想

 冨田さんのお話を聞いているとき、「お互いが幸せになるような」という言葉が何度も出てきました。また、法律の勉強をしていた冨田さんは「正しいことをしたい」「本当に困っている人の力になりたい」と、それぞれの人に合った介護を心がけているそうです。何よりも、最初の就職先にこだわって、自ら勤務先を探し出してしまうあたり、柔らかな雰囲気の中に芯の強さを感じました。入居者の方に優しく声をかけている様子を見ていたら、心が温かな気持ちになりました。いつか冨田さんの理想とする事業所ができることが楽しみです。

【久田恵の眼】
 私には、介護の必要な父と、二人だけで暮らしていた時期があります。80代と50代の老父と娘の暮らし。正直言って、話すことも少なく、暗い日々でした。
 あるとき、思いました。
「そうだ、1日1回、父を笑わせることを目標にしよう」と。
 踊ったりしました。音楽をかけたりしました。本の読み聞かせをしたりしました。
 でも、一番、父の笑いを引き出せるのは、私が笑うことでした。冨田さんの言う通り。いつも接している相手が、楽しそうに笑うこと。お互いの心が解け合いますね。
 介護職の方たちが、現場で自ら発見することは、いつだって、目からウロコです。本質的なことです。それが、介護の現場をどんどん耕して、豊かにしていくのだと思います。